第9話 エンギレン⑥ 森を抜ける

 鬱蒼とする森の中、稀に木の間を短い足で一生懸命歩きながら苔を撒き散らす、苔吹き猪が遠くに見え、梟が囀り、夜の訪れを教えたり、どこかの森人の村にいる鶏が鳴く音で夜明けを知る、そんな何もない旅がずっと続きました。

 吸血鬼の一件から二週間は経ったでしょうか、デーンは相変わらず活気に満ちた声で道を行き、先頭を歩きました。

 しかし、ドギンは、と言うと言葉を話す数が減り、ぼんやりとしていることが増え、この道中で何度も小川に出くわしたのですが、そのどれも足を滑らせて、服がぐっしょり濡れてしまい、その度、デーンが助け起こそうとしたのですが、ドギンは、このくらい平気ですよ、と空元気に答えて、起き上がりました。

 そんな調子でしたので、デーンとしても何か声をかけてやりたいのですが、なんと言ったものか、と答えに迷い、見守る他ない、と思って普段通りを心掛けてはいるのですが、微妙な距離感のまま、今日まで引き伸ばされてきたのです。

 そんなドギンは吸血鬼の一件以来、自信をなくし、無力な自分に嫌気が差しても、迷惑をかけまい、と気丈に振る舞う他なく、また、吸血鬼の戯言に耳を貸してしまい、師を一瞬でも疑ってしまった自分を恥じて、更に自分を責めてしまい、旅に出ると名乗り出た時の勇気は落ち込んでしまったのです。

 デーンの後ろを歩くドギンの姿は、目的もなく、ただその後ろについていっている、という方が正しいでしょう。

 そんな微妙な距離感の中で、ドギンは言いました。

「一体、誰がアクマイヌ達を差し向けてきたのでしょうか」

 デーンは立ち止まってから、少し間を空けて振り返りました。

 眉が下がり、何とも言えない表情を浮かべるデーンは言いました。

「勝手に闇人だと思っていたが、さぁ、誰だろうな。少なくとも、俺の言うことは当てになんないぞ」

 冗談めかして話すデーンの言葉の裏に、ドギンこそ奥方の事ををよく知っているはずだ、と言っている事を理解し、ドギンは再び黙ってしまいました。

 歩いた道を戻って、ドギンに近づいたデーンは肩に手を乗せ、赤ん坊を宥めるように、優しく叩きました。

「態々匂わすように言った言葉なんて、俺には信用する必要ねぇなって思う。俺達には分からんことだらけだが、今は使命を果たす。それだけでいいんじゃねぇか?」

 ドギンは頷き、そのまま歩き出したのですが、その顔は晴れないままでした。

 不器用な笑い方とその優しさに、ドギンは胸を痛め、途方もない事をデーンに話した事を深く後悔し、ドギンの心は少しづつ閉ざされていくようでした。

 その様子を心配しながらもデーンは何も言わずに先頭を歩こうとしました。



 それからの旅も順調に進みました。

 そして明日には、目を覚まして歩き続ければ森を抜けることが出来る目処がつき、二人は一度休む事にしました。

 この時のドギンも、一人で火を起こし、野営用の小さなテントを張りました。

 この頃の我らがドギン君は何でも一人で手際よく、焚き火の始末や、朝食に夕餉の準備、装備品の確認を済ませてしまい、そんなドギン君をデーンは心配していました。

 このまま森を抜けていいものか、とデーンは寝る前に思いました。

 森を抜けた先は、どこまでも続くような地平線の広がる緑の草原、そこを移ろいながら暮らす草原の民がいました。

 これまでのドギンの自信や勇気は、人の心を動かし、この冒険を突き動かしていました。

 それも心の中で銀の君を思い描いていた事が、その源に他ならないとデーンは強く感じていました。

 だからでしょうか、これからも偏見の目で見られる小鬼ドギンは、今のようなままで、それに打ち勝てるのだろうか、と心配だったのです。

 体勢を変えてデーンが寝直そうとした時、狼とも犬ともつかない、吼えるアクマイヌの声が聞こえてきました。

 すぐにデーンは起き上がり、刀を手に取り、抜け放ちました。

 遅れてドギンも短剣を手にして、消えかかった焚き火を消して、大きな鞄を肩にかけて立ち上がり、二人は走り出しました。

 焚き火も付けず、迫り来る魔物の気配を感じながら、二人は闇の中を無我夢中で走りました。

 二つの人影と六つの黒い風が森の中でざわめき、木々達も悲鳴を上げ、眠れる動物も目を覚まして、散り散りになりました。

 必死に逃げ惑う彼らはいつの間にか、森を抜けていたのですが、そんな感動に浸る間もなく、アクマイヌの腹を空かせた唸り声が刻一刻と迫っていました。

 そんな中、幸か不幸か、火を囲い何やら話し合っている、あの野蛮な草原の民の集いの中に飛び込むように乱入してしまったのです。

 勇猛果敢な彼らも、男と毛むくじゃらの小人に、血に飢えるアクマイヌの姿を見れば慌てふためき、誰かが火を消してしまい阿鼻叫喚の嵐、逃げ惑い、混乱を窮めたのです。

 武器を手に取ろうと慌ただしくする草原の民に、暴れ狂うアクマイヌ達、そんな中で群衆に揉まれて二人はいつの間にか、逸れてしまいました。

 デーンは必死になってドギンを呼びました。

 しかし、聞き慣れない言葉で怒声や悲鳴が飛び交い、その声は届くはずもありませんでした。

 かく言うドギンも、大量の人の群れと、混乱を窮めるこの場で、心を鎮めることもままならず、焦りと困惑がドギンにも伝播したのです。

 どこかで血が噴き上がり、馬が恐れをなして慌てふためき、何度も踏んづけられそうになりました。

 そんな気持ちは焦る一方で、ドギンはこの場を離れたいが一心で、近くに居た赤い牝馬の腹に掴まりました。

 掴まれた牝馬も何事かと慌てふためき、暴れながらその場を駆け出しました。

 草原に生い茂る草が馬の腹にしがみつくドギンを隠し、誰にも踏まれることなくその場を逃げ出せたのです。

 何人かの男達が逃げ出した馬を追いかけたのですが、この赤い牝馬は風のように速く、騒乱の場はすっかり遠くへと消えてしまいました。

 牝馬が無我夢中に走り抜けていくうちに、雲が晴れ、青い夜に光る月の輝きが、草原を照らし、銀の雫がゆらゆらと揺れました。

 熱が冷めゆくようにドギンの心は段々と落ち着きを取り戻し、慌てふためく牝馬を哀れに思ったドギンは宥めるように摩りました。

「もう大丈夫だよ。こんな遠くまで来たら、もう襲われる心配もないから、大丈夫だよ」

 そう言って摩るドギンの言葉が伝わったのか、段々、駆ける足を緩めて、牝馬はゆっくりと歩いた後に足を止めました。

 それを見て、ドギンもしがみつくのをやめて、辺りを見回しました。

 噂に聞く草原、ひめゆり野は名前の通り、夏前にヒメユリが辺り一面に咲き乱れる草原でしたが、次期に冬が訪れるためかその姿はなく、ただ大神さまでもその先を見通せないのではないかと思うほど、どこまでも草原が続いているだけでした。

 しかし、この牝馬が居るだけで、草原が波立つような、そんな魅力をどこか感じ入る様子でドギンは見ていました。

 それほどまでに、この牝馬は見事な馬なのです。

 見慣れない鮮烈な赤色の牝馬はただの草原を、西の只人が楽しむという劇場の舞台に作り替えてしまうのです。

 知らないうちにドギンは牝馬を目で追っていたのですが、優しい瞳と目が合った瞬間、デーンや自分の使命を思い出しました。

 引き返そうとしたのですが、赤い牝馬が嫌そうに足を止めるものですから、仕方なくドギンはそのまま、赤い牝馬に導かれるように進みました。

 乗り心地が良く、草原を走り抜ける時は風と共にあるかのような気分でしたが、どんどん遠ざかっていくにつれ、風で靡く毛が、後ろから引っ張っているようにも感じたのです。

 何度か後ろを振り返りましたが、先程までいた場所すらも随分遠くに見えました。

 目を覚まして何とかあの場所に戻らねば、と強く思うドギンでしたが、休む暇もなかったドギンは考えているうちに疲れから眠りました。

 赤い牝馬は鳴くことなく、ただどこまでも続く草原を自由に駆けました。

 意識が薄れていく中でドギンはそれがこの馬には相応しいと思うのでした。

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