第8話 エンギレン⑤ 老樹・アルダバン
目を覚ましたドギンも皆さまがするように、しばらくはふかふかのベッドで寝そべり、ヘルロスさまの御光が登りきらない正午前までくつろぎました。
部屋はドギンには身に余るくらいの広い部屋で、どれも森人用の脚の高い椅子や机ばかりでした。
しかし、日が入り込む広い部屋は魔法がかかったように輝き、部屋の日陰すら、ほんのりと透けてしまうほどで、外装からは考えられないほど、とても綺麗で清潔な部屋でした。
昨日はアルスラーン族の男、夜の帳大王がセブレヒトに命じて牢屋を出てからの記憶は朧気で、何を話し、何をしたのかすら曖昧で、気づいたら雲のような柔らかさの枕に顔を沈めていた、と言った次第です。
そのため、ドギンはこれからどうするのか、どうなってしまうのか、皆目見当もつかないわけです。
それに、昨日一日でアクマイヌに追われたり、デーンが攫われたり、森翁に騒がれたり、闇人達にも追い回され、サラゴンとの問答に、挙句の果てに、その前の日に出会った男が銀の君と同等の者であると、突如宣告される、等、多くの出来事にあってドギンの身体も、心も、クタクタでよれよれの服みたいに疲れきってしまいました。
その通りでございますので、我らがドギン君はこうして寝台に溶けるようにしてゴロゴロダラダラとしているわけでございます。
そうやってほんの束の間の休暇を楽しんでいると、段々心も活力を取り戻してきたのか、ふと、デーンの事が頭を過りました。
彼は昨日一日で一際動き回り、頭を働かせ、言葉を絶えず吐き続けたのです。
彼の心身の疲れが気になり、ドギンは心配しました。
丁度、その本人がドアをノックしてくれました。
「おーい、いつまで寝てんだ、もう昼食の時間だぞ」
いつもの活力に満ちたデーンの声に、ほっと胸をなで下ろしたドギンは適当に返事をして、着替えてから廊下に出ました。
「すみません、お待たせしました」
ドギンが頭を下げるとデーンは、礼はいいから早く行くぞ、飯がなくなっちまう、と手をヒラヒラさせて言いました。
デーンは目的地を知っているようでしたので、いつもの二人の距離感で味気ない石造りの廊下を歩きました。
外は雲ひとつ見えない絶好の旅日和と言った空模様でした。
デーンが部屋まで案内すると、部屋の中には二人の男達が先に席に着いていました。
片方は砦の主人にして明け星の旗団の指導者、サラゴンでした。
ドギン達の顔を見ると、露骨に嫌な表情を浮かべ、落ち着きがなく、つま先で何度もトントン床を叩きました(とは言っても、床は絨毯が敷かれていて音はあまり鳴ってはいませんがね)。
そしてもう一人は、夜の帳大王でした。
夜の帳大王は二人のことを大変、気に入ってる様子で、扉の開く音が聞こえると子供が大人から贈物を貰った時のような無邪気な笑顔で二人を抱きしめて迎えました(デーンは男に抱きしめられるのは嫌と言った困った顔をしています)。
「良くぞ来てくれた、子供たちよ」
夜の帳大王の歓迎の声にドギンは答えます。
「お待たせして申し訳ないです。夜の帳大王」
「そんなことは無いとも、私たちにとって時間は悠久だからね。それに君に迷惑をかけたのは同朋だ、全闇人を代表して謝罪しなければならないのは私の方だよ!良くぞ来てくれた」
朗らかな笑みを浮かべる夜の帳大王に(失礼かもしれませんが)銀の君と似た暖かさを感じました。
上級王ともなれば、やはり為政者として、導く者として他の者とは一線を画しているのだろうか、とドギンが考えながら席に着くと、そこには、杯いっぱいに注がれた麦酒に、香ばしさと旨みが溢れる鹿肉、焼きたての美味しい匂いのバゲットに、大きなシフォンケーキ、どれも絶品で筆舌し難く、こんな豪華で美味な味はヒンデンブルクを出発する前のどんちゃん騒ぎ以来でした。
食事を終えると、今度はハーブティーが出され、これもまた絶品でした。
「どれもこれも、この辺で採れたものだ。小麦は私がエルを渡り歩いて手に入れたものや、オスタリア大陸にある喜ばせ庭園、つまりは私の住まいから取り寄せた物を使用しているがね」
夜の帳大王がふふんと鼻を鳴らしながら誇らしげに語る様は微笑ましく、ドギンも笑みをこぼします。
「つまり、夜の帳大王はエル中の闇人の元へと足を運んでいるわけですね」
「その通りだとも、我が同朋は様々で、温厚な者は森の片隅で畑を耕しながら隠れるように、穏やかに、生きているし、あるいは原理主義的な者達もいる。そういった者からは腑抜けだとか、使命を忘れたのか、等罵詈雑言の嵐だとも!」
ハハハッと豪快に笑う夜の帳大王に対して、残りの三人は何と言ったものか、とお互いに視線を交わし、複雑な心境を共有しました。
話題を変えたのはデーンでした。
「絶品の数々、大変感謝しております。しかしながら閣下、私にはこの食事の場は我々をもてなすだけの場ではありますまい」
それを聞いた夜の帳大王は笑い終わってなお笑みを崩さずに、話しました。
「よくぞ聞いてくれた航海士殿、というのも私には君達の旅の目的について検討がついているのだ」
この言葉を聞いた瞬間、ドギンとデーンは固唾をのみ、鋭い目で夜の帳大王を見ました。
笑みを崩さない夜の帳大王は手を広げ、宥めるように話しました。
「君たちの邪魔をしようなどは思わないし、口外する気もない。むしろその逆、君たちの支援をしたいと考えている」
今度はそれを聞いて鋭い目をしたのはサラゴンでした。
「陛下、私には何も仰らずして、この者達を助けると仰られるのですか、それは上級王のお言葉と言えど、許容しかねますね」
低く話すその声は、昨日のように自信から来る華やかなものではなく、ふつふつと煮えたぎる胸の熱が噴き出す前触れのように震えていました。
「そんなにヒンデンブルクの王族が憎いのかね」
と夜の帳大王。
「当たり前だ!この身で産んだ償いもせず、責任を手放し、俺の事なぞ、記録から抹消したやつら王族の事は、一度も忘れた事がない」
怒りは爆発し、胸の熱は言葉となって噴き出し、部屋中が震えるのをドギンは感じとり、彼の熱とは反対に、悪寒がし、嫌な汗が毛の下で流れている事に気づきました。
しかし、ドギンは口を開きました。
「お言葉ですが、サラゴンさん。貴方はその御身に、大英雄ギルロミスの血が流れていたとしても、貴方は民衆の不安を煽り、過去の影に忍び寄って唆した男だ、今は、民があなたの事を疑うことはないでしょう。しかし、例え貴方がヒンデンブルクの王位を望んだとしても、その行いをする者に為政者の大器はあるとは思えない」
その言葉でサラゴンの怒りはドギンに向きました。
「小鬼風情に何がわかるというのだ!貴様のような劣等種が森人に虐げられもせず、なぜ私だけがこのような目に遭わねばならぬのか」
その言葉につい頭に来てしまい、ドギンは反論しました。
「私とて虐げられし者でございます。貴方のように石も投げられ、嘲笑の的となりながら町を歩きました!」
今にも飛びかかり、掴み合いの喧嘩が起きそうな険悪な空気が流れましたが、一拍の手拍子が部屋に響くと、その悪い流れは断ち切られたのです。
「若いとは良いな。青さから衝突を何度でも繰り返せるし、修復の余地もある。しかし、今この場では控えて頂こうか」
そう話す夜の帳大王は先程の子供っぽい表情から、数え切れない歳月を共にした往年の為政者の落ち着きを持つ、静かな微笑みで、ドギン達を見ていたました。
「さて、こういう訳で彼は君たちの事情を知らないのだ。そして私も話す気は無い。では彼にどう納得してもらうか、という訳で君たち二人に提案があるのだ」
身体を前のめりにして夜の帳大王は続けて言いました。
「君達には噂の吸血鬼を討ち取って欲しいのだ」
「吸血鬼をですか?」
デーンは考える時の口を手で覆う癖をし始め、ドギンはわなわなと手を小刻みに震わせながら、もうこれ以上恐ろしいことがあるだろうか、と言った表情をしました。
ドギンにとって、そう思うのが最後であればよかったのですが、この旅の中で何度もそう思うこととなります。
「如何にも、というのも目撃情報を照らし合わせてみると、どうやら森の辺境、
夜の帳大王が淡々とした説明で後に退けない事を悟ったドギン達は、ただ頷く他なく、サラゴンもまた、協力するならば、と食い下がる他ありませんでした。
ドギンとデーンは部屋に戻って度の支度を済ませて、昨日、群衆が集まっていた広場に出ると二百の兵士が隊列を組んで待っていました。
その傍らにはセブレヒトがいました。
「御二方、お待ちしておりました」
日の下のセブレヒトは甲冑が煌めき、その風貌はまさに物語の白馬の騎士のようでした。
セブレヒトはドギン達に近づいてこう言いました。
「私は、御二方の事を、夜の帳大王の御友人とはいえ、サラゴン様と同様に、信用はしきれていない」
理屈は分かるが気持ちの問題として、ということなのだろうとドギンもまた、理解しました。
「こうなってしまった以上、私も貴方達に協力する他ない。必ずや、お力になります」
そう言ってドギンは手を前に出すと、セブレヒトも手に取り、力強い握手を交わしました。
握手を終えたセブレヒトは振り返り、兵士達に呼びかけました。
「諸君、集まってもらった事情は分かっているだろうが、もう一度言うぞ。今回の任務は翡翠町から北にあるオロンの館に赴き、彼の邪悪な吸血鬼めを始末することだ。やつは森人だけに留まらず、我ら闇人にも牙を剥き、森の動物たちを食い荒らしている。やつは我ら森の平穏を脅かしている。諸君らはこの暴虐を許せるか!」
「否!」
一糸乱れぬ掛け声に鬼気迫るものを感じ、驚いたドギンは尻もちをついてしまいました。
セブレヒトは演説を続けました。
「家族、友人、諸君の身の回りには愛する者たちの姿がある。彼らの笑顔を奪われてはならない。彼らの血を流させない為に我らはサラゴン様の、民の剣となり、盾となって立ち上がるのだ!」
セブレヒトの見事な演説に兵士達からは拍手喝采が沸き起こり、士気は昂りました。
デーンは腕を組んで、その様子を関心しながら見ていました。
「まさに英雄だな。兵士の扱いに慣れていやがる。結局、自分たちの利権を守るため、が兵士にとっては一番効く」
そうボヤいているうちに兵士の一人が栗毛の馬を一頭とポニーを一頭、連れてやって来ました。
どうやら二人が乗馬するためのものらしい。
デーンは栗毛の馬、ドギンはポニーに跨り、セブレヒトの号令と共に砦を出発しました。
森の中に入れば先程の気持ちのいい空は隠れ、すっかり薄暗闇の世界となってしまいました。
セブレヒトは先頭を歩き、その後ろにドギンとデーンが並び、その後ろを二列で兵士たちが続きました。
何名かは斥候としてセブレヒト本隊より前方を進み、何かあればセブレヒトの所へ随時、報告しに戻って来ました。
数刻の間、鎧のひしめく音と、馬の蹄の音が聞こえ、その間は何も、会話を交わすことなく、淡々と歩を進めました。
ポニーの乗り心地は平坦な道であれば快適だったのですが、少し斜面に出ると最悪で、揺れるは何やらでドギンはおしりが痛くなりました。
沈黙に耐えかねたデーンはドギンに話しかけました。
「俺たちの旅も馬がありゃきっと楽だぜ。この任務が終われば馬を頂きたいな」
いつもの軽口にドギンは少し安心したようでした。
というのもドギンはポニーとはいえ、馬に乗るのは初めての出来事でしたので少々気疲れしていました。
「確かに、何事もなければ森を抜けるまでの日数は大きく減らせたでしょうけど、雨が降れば悪路にもなります。そうなれば私だけでなく馬の面倒を見なければなりません。結局、ここを抜けるまでの日数はさほど変わらなかったと思いますよ?」
「おいおい、皮肉のつもりかよ?」
苦虫を噛み潰したような顔をするデーンにふふっとドギンは笑みがこぼれました。
「そんなつもりは無いですよ。それに、自由と引替えに任務を受けている人が、馬まで貰おうだなんて、とんでもないですよ」
すると振り返りもせずにセブレヒトが言いました。
「私は構わんよ」
二人が目を丸くしていると、咳払いをして今度は低く、囁くように続けました。
「吸血鬼退治に協力し、打ち倒したとならば、君たちを信頼し、その証として褒美の一つや二つ、なんでも叶えてやらねば、それだけの価値はある」
それを聞いたドギンは現実に引き戻されたような感覚となって、手網を握りしめる手が強くなっていました。
「和やかに話し合えるのも今のうちだ。気を引き締めろ」
気づけば辺りは仄暗い影は色を増して、すっかり暗くなっていました。
号令と共に休憩とし、野営の為にテントを張り始め、夕餉の支度をしました。
あちらこちらでパチパチと焚き火の音が聞こえ、テントが各分隊事に、緑、黄色、紫と色鮮やかに並びました。
ドギン達にもテントが与えられ、デーンが手際よく建ててくれました。
セブレヒトは感心した様子で声をかけてきました。
「只人の方は、何か軍に所属していたのか」
麦酒を一口、ググッと喉を鳴らして呑んだデーンは答えました。
「俺はペルナドールのスラム街の生まれだし、それに一等航海士だ。旅に必要なことは大体出来るだけだ」
それを聞いたセブレヒトは申し訳なさそうに口をへの字に曲げました。
「すまない、踏み込むべきではなかったな」
今度は必死に火を起こそうと悪戦苦闘するドギンの方を見ました。
それに気づいたドギンは恥ずかしそうに頭をかきました。
「お恥ずかしいところを見せてしまいました。普段はこれで着くのですが」
セブレヒトは不思議そうに尋ねました。
「君は魔術が使えるではないか、何故そうしない」
ドギンは顎の下を人差し指でかきながら、考えるようにして答えました。
「日頃のくせ、と言いますか。気を悪くしないで聞いて欲しいんですけど、アスラン王が私に無闇矢鱈魔術を使うことに対して咎めたのです。私は小鬼なので、魔術が使えると知られてしまえば、きっとよからぬ人々が私をあの手この手で捕まえようとするでしょう。良き人々も、
するとセブレヒトは考え込んでしまいました。
ドギンは首を傾げて言いました。
「どうしましたか?」
「いや、私が思うよりもエルでの悲しみの声は大きいのだな、ってね」
そう言うとセブレヒトはドギンの火起こしを手伝いました。
「火起こしは誰に教わったのだね」
「我が師にです」
「そうか...」
セブレヒトはまた黙り、そして火がつくと立ち上がってこう言いました。
「御二方には、どうやら見守ってくれる者たちがいるのですね」
要領を得なかったドギンは、セブレヒトがあんまりにも親切だったので忘れかけていましたが、彼も闇人な事を思い出しました。
セブレヒトは言いました。
「ほとんどのルーボーン族は変異闇人、つまりは両親共に森人だった者たちだ。だから、森人だけでなく、同じ闇人からも仲間外れにされた者達だ」
森人の血が闇人からも否定され、森人からも闇人だと否定され、そんな不安定な狭間の中に生きているのだ、とドギンは理解してしまいました。
「自分を見失ってしまいそうだ」
「その通り、辛い思いをしてきた者たちばかりだ」
そう言うとセブレヒトは語り始めました。
「君は気づいていると思うが、私は他のルーボーン族とは違って、森人と闇人の間に生まれた
彼の話し方は静かで、胸の中の熱がしっかり伝わるような語り方でした。
同じ血が流れる彼の事を同朋達は悪くはいえず、あるいは、穢れた血、半端な血だと彼自身が的となっていた事もあっただろう、とドギンは彼の過去に入り込んだような気分でした。
「サラゴン様は主人にして、我が友だ。彼の考えには賛同する。生まれた性を理由に理不尽な行いを受けるのは、到底許されるべきことでは無い。私は彼と共に理不尽なき世の中にしたい。そう誓うことにした」
それを聞いて、彼の覚悟や誇り、全てを利用するサラゴンに対して、より一層、嫌な印象を強めるのでした。
話しぶりからしてセブレヒトはサラゴンの真の目的を知らないようでしたので、ドギンは真実を語ろうとしましたが、デーンが間に入りました。
「ま、アンタが俺の王様や、コイツの師匠のようになれる事を期待してるぜ」
そう言って、酒を飲みながら空いた手でドギンの肩を掴みました。
コイツらの事はあくまでコイツらがすべき問題だ、口出すべきじゃない、と目で語りかけているような気がして、ドギンは黙りました。
「あぁ!私も君達の旅にミーナールの加護があることを祈るとも」
そう言ってセブレヒトはその場を後にして、自分のテントへ帰っていきました。
「明後日には到着するそうだ。俺も飯食ったら寝るから、お前も寝とけ」
そういうと、結局、食事には手も付けずにテントに入りました。
ドギンは上を見上げて、ぼんやりと眺めながら考え込みました。
様々な争いの避け方がエルにはあり、表面上は戦争も、何も無いのに、細部を見れば小さな小競り合いが、起きている、皆、争いを避けたがっているのに、偏見も、差別も無くならない、僕には一体何が出来るのだろうか、と答えのない事ばかり、頭の中がぐるぐると回り続けました。
他のテントから賑やかな声が聞こえます。
彼らもまた、楽器の演奏が好きらしく、ハープの弦を爪弾くと、流れ星が夜空から溢れ落ちるような静かで、穏やかに消えゆく不思議な音が鳴り、横笛は森の奥から通り抜けてくる風の様に心地の良い音色を響かせました。
二つの旋律が溶け合い、遠く遥か、生まれた時からこの演奏を知っているかのように、胸の中が暖炉の前にいるような暖かな気持ちとなり、その演奏を聴きながら寝よう、とドギンは干し肉と酒を丸呑みすると、テントの中へ入りました。
出発から四日、アレから何度か休憩はありましたが、ドギン達は気が滅入る一方でした。
というのも、進むにつれ、皆が異変に気づき始め、ついには明らかに異質な景色に変貌したからでした。
最初はざあざあ降りの大雨でした。
隙間なく雨が降り注ぎ、服はびしょびしょで、視界も悪く、道は水を含んでドロドロ、悪路にも程がありました。
オマケに雷を司るピトー様も癇癪を起こして、近くの大樹に雷を落とされたのです。
大樹は真っ二つに裂け、まっ黒焦げになってしまい、焦げる匂いは雨でもかき消す事が出来ませんでした。
それに道中、小川を渡らねばなりませんでした。
ドギンが精霊の流れを見て、比較的渡りやすいところを見つけ、案内をしたのですが、それでもドギンのポニーは脚が川底にハマってしまい、溺れてしまったので、デーンの馬と一緒に乗せることとなりました。
次に、雨でかき消されず漂う異臭でした。
闇人達は(森人や闇人の基準で言うなら)若く、何の匂いなのかすぐには分かりませんし、最初のうちは匂いそのものに気づく者も多くはありませんでした。
しかし、鼻のきくドギンやセブレヒト、そして経験豊富なデーンはすぐに、血と木が腐食している匂いだと気づきました。
その時から、斥候からの連絡は途絶えてしまいました。
そして、疎らだった腐食した木が目立つようになり、大樹たちは魂を吸い取られたのかと思うほど幹が萎れ、虚が目立ち、まるで苦痛に顔を歪ませているような異形の姿になっていました。
その姿を見てからは兵士たちも、異変に気づき、動揺が伝播するようになりました。
斥候からの連絡が無いことから、最悪の事態を想定したセブレヒトは兵士たちに道を引き返し、翡翠町の救援に向かうよう命じました。
翡翠町は森人の町でしたから、兵士たちは最初、困惑と不安を隠せませんでしたが、諸君らの痛みは分かる、分かるからこそ諸君らがその時に欲したことを思い返すのだ、とセブレヒトが説得し、兵士たちを翡翠町に向かわせました。
残ったのはドギンとデーン、そしてセブレヒトのみでした。
「恐らく、先遣隊は全滅した。彼らは私の直属の部下達で、優れた者たちだ。彼らが帰ってこないとなれば、やつの餌食となったか、あるいは...」
「やつのお仲間になったか、だな」
悔しさとやるせなさに唇を噛むセブレヒトに飲み込んだ言葉をデーンが代わり言いました。
ドギンは徐々に危機が迫っていること実感し、恐ろしさで身体が小刻みに震えました。
まるで、冬の寒い日に暖炉の火が燃え尽き、徐々に熱が奪われていくような感覚でした。
しかし、決めた事は破ってはなりません。
ドギン達は歩を進めました。
セブレヒトもデーンも各々が得物を抜き、馬を走らせました。
二人の馬は悪路をものともせずに突き進みました。
次第に木々の異形さは増していき、樹木は明るめの嫌な紫色になり、葉は黄土色で、人の目のような模様が入り、生い茂りました。
そんな枝葉で埋め尽くされた天井はまるで蛾の大群が空を覆い尽くすように飛び回ってるように見え、そのうえ、瞳の模様はこちらを見つめているようにも思えて大変、気味の悪く、悪趣味な光景でした。
この樹木たちは一年中ずっと葉をつけるのですが、落葉し、道のそこら辺に落ち葉が散らばり、踏みつける度、地面が赤く滲みました。
それに銀杏のような悪臭と赤く滲んだ地面から血の匂いが混じり、酷い悪臭で溢れかえり、三人は布で鼻を覆わなければむせ返り、鼻を削ぎ落としたくなるほどでした。
異様な光景はどこまでも続き、数刻が経って、異変の元凶までたどり着きました。
オロンの館はかつて、ヒンデンブルクの優れた書記官だったその名前にもなっているオロンが建てた館でした。
オロンは、アスラン王の父で森人の英雄、ギルロミスの代に仕え、彼の治世を支えたとされております。
彼は書記官を辞した後の余暇を楽しむ為にこの館を建て、住まうようになりました。
彼が神の国へ旅立った後は後継者もおらず、廃墟となったのです。
二階建てで綺麗な庭園もある立派な石造りの大きな家だったそうですが、今は違います。
馬を降りた三人が目にしたのは、陰りが見え、明かりひとつない館と、あまりにも残酷で見るに堪えない庭園の様子でした。
白いテーブルクロスの敷かれた丸テーブルがいくつも並び、日除けの傘も各席に差され、一見すると、それはお茶会の様ですが、そこに出席していたのは、人の骸、骸骨なのです。
骸骨は席について腕を広げ、口を開け、お茶会を楽しむような姿勢を取らされていましたが、中には辱めるような奇妙な姿勢を取らされている者、テーブルの上に乗って、男が女を襲いかかるように片方は覆いかぶさり、もう片方は足を腰に回して品の無い、いいえ、これだけに限らず、この様相そのものが品性に欠ける、生命への冒涜を感じさせました。
生者への死後の辱め、まるで人形ごっこでもするかのように亡骸を扱うこの首謀者に、生きとし生きるものに対する敬意というものがない事がはっきりと分かりました。
そして、この骸骨は脂か何かで、ぬらっと鈍く、てかてかと光っているのを見たドギンは生々しさのあまり顔を伏せ、デーンは鞘のまま刀を振り回し、骸骨はバラバラ、テーブルはひっくり返って、庭園は滅茶苦茶になりました。
「ドギン、お前も顔を背けるな。悪事の度合いは関係ねぇ、小鬼の未来を変えたいと思うなら、エルの穢れからも目を逸らすんじゃねぇ!」
デーンの怒鳴り声で、ドギンはゆっくりと顔を上げました。
横たわる骸骨達はまだ、死んで間もなく、すぐに皮や肉を剥がされ、このような辱めを受けていた、憤りと同時にかつての自分もまた、悪だった、この狂気の怪物と同じであった、自分はあの吸血鬼を責めれようか、とドギンは心の葛藤に苛まれました。
「彼らを埋めてからにしよう、館に入るのはそれからでも遅くは無い」
セブレヒトの言葉で満場一致、三人は半径も深さも三メートルの穴を掘り始めました。
未だに迷いがあるドギンを見ていたセブレヒトは声をかけました。
「君がどんな宿命を背負っているかは知らないが、こうして彼らの為に穴を掘り、埋めてやる、それが償いにも救いにもなる」
堂々とした優しい言葉に勇気が湧いたドギンは迷いがすっかりなくなりました。
このエルでは色んな暴虐や理不尽があるのだろう、自分も彼らと変わりないのかもしれない、しかし、今こうして死者を労れたら、それだけで清算される訳では無いが、少しはマシだろう、そうドギンは思うのでした。
亡骸を埋め終わる頃にはすっかり日も暮れて、暗闇に包まれてしまいました。
服も身体も雨や泥でびっしょり濡れてぐちゃぐちゃの泥んこ塗れでした。
しかし、休む暇はありません。
目の前は敵の本拠地、何があるかわかったものではありません。
雨風を凌ぐためにも、もう進む他ないのです。
黒いシックなトンネルの形をしている玄関扉を開けて中に入ると、埃っぽさが全くない、赤い絨毯の広間がありませんでした。
「吸血鬼の野郎、歩き回ってるやもしれんな」
デーンが刀を抜いたのを見て、二人も得物を手に取りました。
セブレヒトは暗闇の中でもぎらりと刀身が光る闇人の長剣、ドギンは旅立ちの時から持っている、小鬼とっては立派な剣と呼ぶにふさわしい短剣でした。
「外で騒ぎすぎた、先遣隊の事もある、ヤツにはこちらの存在はバレているものだと思った方がいい」
そう言ったセブレヒトは松の木の棒を取りだし、焔の精よ、闇の中の、導きとならん、と唱え、松明をつけました。
これは特別な松明で、火の精霊の力が宿る闇人の松明でございます。
故に、雨に濡れようが風が吹こうが消えることの無い、熱を持たない松明でこのような場所には最適でした。
「中を探索しよう、そして、やつを見つけ次第、一斉に襲いかかろう」
セブレヒトの指示にドギンは諭すように言いました。
「幾ら吸血鬼と言えど、その事は承知のはず、何処かで待ち伏せているやもしれません」
「では、どう致そうか」
「まずは書斎や寝室など、元の家主が普段から暮らしていた場所に行きましょう。彼がどんなに偉大な森人であろうと用心していたはず、日記或いは、家の設計図などに手掛かりがあるはずです。それを調べて大凡の場所を絞りましょう」
この提案に納得したセブレヒトは先頭を歩き、二人はそれに続いて書斎や寝室を探しました。
百年近く放置された建物にしては床の軋みはなく、丈夫でしっかりとしていました。
絨毯で足音を幾分か抑えられましたし、隠密には最適でしたが、侵入がバレている以上、無駄な足掻きとも言えます。
本来、闇人の松明は五十メートル先も照らす、優れた松明なのですが、それさえも闇に閉ざしてしまい、精々、二メートル先までしか、照らすことが出来ませんでした。
そのため、デーンは壁伝いに歩くほかありませんでした。
それぞれの部屋は簡単に見つかりました。
寝室なら日当たりも見晴らしもいい二階の部屋に、書斎なら本の日焼けを避けて、日当たりの悪い一階の部屋にあるとドギンは考えていたからです。
幸い、その道中は何事もなく、無事たどり着くことが出来ました。
書斎は芳しくなく、目星の物は何もありませんでしたが、寝室には金庫があり、セブレヒトが盗賊の呪いを唱えて解錠すると、そこには手帳が仕舞われていたのです。
松明で照らし、日記を読むと、庭園が少しづつ立派になってきた、病気がちだが家の近くを散歩した、引越し仕立てで新しい生活に高揚している等、たわいも無い事が記されていましたが、重要な事も記されていました。
どうやら大戦で、西方の只人が信じる教団について関心があったらしく、彼もまた、その信徒となったそうで、その一件から書記官として失脚する羽目になったとか、しかし、棄教出来ずに、余暇を過ごす館に
「そこにいやがるのか?」
西方の信仰について知識としても深くないデーンが尋ねました。
ドギンは考える時の唸り声を上げて言いました。
「分かりません」
「それはなぜ?絶好の隠れ家じゃねぇか」
「というのも、吸血鬼は光や聖なる物を避けると言いますからね」
聖なる物ねぇ、とムスドンファ教徒のデーンは苦笑しながら、訝しげに答えました。
セブレヒトはデーンを窘めながら言いました。
「何を信じようが、聖なる物は聖なる物だ。それはそうと忘れ去られたまま歳月は過ぎている。信仰も薄まり、むしろ影が濃くなる地下は闇の者にとって絶好の住処だ。用心してそこへ向かおう」
場所は一階の広間を左に抜け、突き当たりの食料庫にある、と記されていたので、そこへ向かうことにしました。
三人は部屋を出て階段を降りようとした時、目の前の暗闇の向こうに、ぼんやりと何かが立ってもののが見えました。
暗闇でも目の利くドギンとセブレヒトには、はっきりと六つの首のない鎧がこちらを向いている姿が見えました。
そして、その鎧には、特にセブレヒトは見覚えがありました。
「なんと言うことを...!」
仮面の下で顔を歪ませている事がドギンにははっきりと分かりました。
セブレヒトは松明をドギンに渡し、闇夜に輝く長剣を構えました。
「ここは私が道を開き、彼らの足止めをする。御二方は先に地下に参られよ」
この仮面の半闇人を止めることが出来ない、止めるべきでは無い、と思ったドギンは彼の武運を祈り、デーンに走り抜ける準備をするように呼びかけました。
これが合図となってセブレヒトは鎧の集団に斬りこんで行きました。
首なしの鎧たちもそれを感じてか一斉に剣を抜き放ち、セブレヒトに襲いかかりましたが、セブレヒトは瞬く間もないまま彼らをなぎ倒しました。
「今だ、行け!」
ドギン達は鎧達が起き上がる前に横を通り抜け、食料庫へと走り出しました。
ドギンが振り返ると、既に鎧達は起き上がり、セブレヒトに襲いかかっていました。
それでもセブレヒトは一歩も退く事なく、果敢に戦っていました。
彼の無事を祈りながら、ドギンはとにかく無我夢中で走り、扉を突き破るようにして食料庫へと飛び込みました。
飛び込んだ拍子にホコリが舞い上がり、何度か咳き込みましたが、おかげであの鎧たちが出てきたであろう足跡を見つけることが出来ました。
足跡はホコリが残る床に、くっきりと浮かび、酒樽の並ぶ方へと続いていることがわかりました。
足跡を辿ってドギン達が進むと、足跡が古くてボロボロの樽の前で途切れていることに気づきました。
「この下に何かあります」
デーンが樽を持ち上げ、他所に置くと、賽子の様な形の木で出来た床扉が姿を現したのです。
「これが地下への道か」
デーンがひと仕事終えた時のため息をつきながら言いました。
ドギンはそれに頷き、短剣で何度も床扉を突き刺して壊しました。
地下は垂直に伸びているのか、梯子が取り付けられ、まさに穴のようでした。
腕でドギンを後ろに下がらせるようにしてデーンが慎重に覗きこみました。
「廊下以上に真っ暗で何も見えん」
安全だと分かったドギンも穴に顔を突っ込み覗きました。
真っ暗、ドギンでさえ、一寸先も見えない程でした。
「何があるか分かりませんね」
「グズグズしてる暇もねぇ、ドギン、松明を貸してくれ」
そう言うとデーンはドギンから奪うように松明を取り上げて、慌てるドギンの静止を振り切って穴の中に投げ入れました。
三秒後に硬い物に叩きつけられた音が聞こえてきましたので、それなりの深さである事も、穴の先には、ちゃんと床がある事も判明しました。
「一応、安全なようだな、俺が先に降りる。念の為、俺が無事辿り着いたら呼びかけるから、後でお前も降りてこい」
そういうと鞄から縄を取り出して近くの重い樽と体に結びつけると、ドギンが何かを言う暇もなく、デーンはそのまま降りていきました。
梯子を踏む音が段々、奥底から響くようになりました。
ドギンは固唾を飲んでデーンの声を待ちました。
もし、穴から何も聞こえなくなったら、セブレヒトを連れて、逃げる他ない、しかし、そうなったら僕の旅はどうなってしまうのだろう、友を失い、挙句、使命も果たせなかった暁には、大切なあのお方も失ってしまう、と梯子を降りる音が遠くなる度、不安がドギンに忍び寄ってくるのです。
魔術を使う事も考えました。
しかし、それを使った挙句、何も出来なければ、地下奥底の闇の者は、ドギンを狙い続ける事となる、もし捕まれば、最悪、もっと多くの犠牲が出るのではないか、とドギンの不安や、慎重さが邪魔をしました。
それを承知して、デーンは先に降りたのだと思うと、ただ待つ他ないドギンは非力さを痛感しました。
まだ夜は長く、部屋の外では鉄がぶつかり合う音が響いていました。
しばらく経つと、穴から声が聞こえました。
「おーい、とりあえず下は安全みたいだ!」
デーンの声です。
それを聞いたドギンは心から安堵し、じんわりと胸が熱くなるような気分になりました。
「無事で良かった、今おります!」
あまりにも嬉しかった急いでドギンは梯子に足を掛け、降りていきました。
少し降りるだけでもう、上も下も見えず、真っ暗の中を手探りで降りなければならず、最初の数歩までは勇み足でしたが、段々と慎重にならざるを得ませんでした。
しかし、下からはデーンが急かすように、何度も呼びかけていました。
そろりと慎重に降りていくうちに、足元が明るくなっていることに気づいてドギンは下を見てみると、どうやら落とした松明の明かりでは無いらしいことがわかりました。
部屋から光が漏れてきている時の眩い明かりでした。
その証拠にずっと下に松明が爛々と燃えていましたが、それよりずっと強い灯りが漏れて出来る明かりの縁の形でした。
「おかしい、ここまで明かりがあるなら上からも見えそうなものだし、そもそもここまで来てデーンさんが何も言わないはずがない」
ドギンの耳に聞こえてくるデーンの声も徐々に、トンネルの中で反響している時のように、色んなデーンの言葉が入り交じり、もはや何を言っているのか分からなくなっていました。
「何かあったんだ」
ドギンはこの梯子を引き返すことも出来ましたし、そうすべきでしたが、何が起こっているのか、まだデーンの心配をしていたので、急いでおりていきました。
降りて行くにつれて、段々と原型を留めていくように、デーンの言葉が本当の意味で理解できるようになった時には、全て遅かったのです。
「逃げろ!」
あと数歩のところまで来て、デーンの声が届いた瞬間、梯子は突如と萎びれて腐食し、ボロボロとささくれて、朽ちて崩れてしまったのです。
ドギンは足元が崩れ、そのまま転げ落ちてしまいました。
床に強く打ちつけられ、立ち上がろうと腕を支えにしようとしたドギンですが、左腕に激痛が走りました。
どうやら左腕の骨を折ってしまったようで、体毛の下で赤く腫れている様子をドギンは想像しました。
部屋を満たすように、錆びついた臭い、血の香りが嘔吐きそうな程に濃く充満し、酷く気分を害しました。
明かりの方へ目をやると、真鍮の細い台の上に灯る蝋燭と、見事な飾りが彫られた石柱が仰々しく並び、その真ん中で、息を切らせて疲弊し、膝をつくデーンの姿がありました。
音に気づいたデーンが言いました。
「なんで来たんだドギン!」
対峙する者は、とてつもなく大きな、恐ろしい顔のような筋を作る膨れ上がった大樹でした。
まるで肉が隆々として、弾けんばかりに膨れ上がった幹と幹が、捻れるように絡み合い、その隙間と陰影が恐ろしい怪物のような顔のように見え、その捻れあった先には、胴と頭の黒々とした鎧があり、腕を通す部分には枝が赤い、道中の枝葉のような模様を浮かび上がらせて翼のように広がっていました。
そしてこの礼拝堂の奥から部屋を食い潰すように、木の根が侵食し、幾つもの木の根の先が、デーンに矛先を向けていました。
痛みを堪えながらドギンは言いました。
「大丈夫ですか、デーンさん!私もヤツの罠に嵌められてしまった。あの穴はこの部屋の音を捻じ曲げて伝えてしまうみたいです」
足を震わせ、何度も躓きながらドギンはデーンの元へ駆け寄りました。
するとまるでウシガエルのような奇妙で不気味な笑い声が部屋を震わせて響き渡りました。
皺や影だと思われたものはまさに顔そのものだったようで、鋭いギラつく牙を剥き、裂かれた様な大きな口を開いて大樹はドギン達を見つめていました。
そして、低く、くぐもった不気味な声で言いました。
「おやおや、只人の次に、馬鹿で矮小な小鬼が、まんまと騙されてやってきた。哀れな只人よ、懸命に我の攻撃の手を避け、小鬼の逃げる時間を稼ごうと言うのに、騙され、のこのことやってきたでは無いか、あまりにも、あまりにも哀れなり」
そしてまた、不気味な声と共に嘲笑するのでした。
ドギンは痛みを堪えながら大樹に食ってかかりました。
「友を案じ、友が生きている事を喜ぶ事の何が愚かなのか、友のために行動する者の何処が哀れなのか、答えてみろ!その良心につけ込み、騙し討ちする者の方が悪であり、愚かで哀れだ。名を名乗れ、下衆め!」
自分のみならずデーンの事も嘲笑うこの木の化け物にドギンは腸が煮え返る程に憤り、奮い立たせました。
「ヤツの名は」
デーンが言いかけた所で、しげしげとドギンを見つめながら、大樹は静かに笑いました。
それから次のように言いました。
「森ののけ者と只人、それに小鬼、奇妙な取り合わせに、この只人めは小鬼の為に命を尽くしている。何故かと問いただしても、友のためとしか言わん。我には分からんかったが、ここで目にして、ようやく分かったわい」
よかろう、ともったいぶった言い方をする大樹はついに自らの名を明かしました。
「我の名は、アルバダン、老樹のアルバダン。我は吸血鬼、エンギレンを森人の血で汚し、荒廃させんと願う者ぞ」
名乗り終えた吸血鬼、アルバダンは一息置くことなく、その根と枝が氾濫した川の如く迫らせ、ドギン達に襲いかかりました。
二人は足元が覚束無いながらも、間一髪の所で、迫り来る木の根と枝の波を避けました。
卑劣なアルバダンはすかさず、第二波を繰り出し、襲いかかりました。
その矛先はドギンに向けられ、ドギンは避けた拍子に、折れた左腕が痛み、悶え苦しみました。
仕方ないと割り切ったドギンは魔術で凌ごうとしましたが、いくら唱えようとしても、声が出ませんでした。
太く恐ろしい程に鋭いアルバダンの根はもう目の前まで迫っていました。
必死に声を出そうとしてドギンは口から血を吐き、何度も咳き込みました。
覚悟を決めた時でした。
突然、目の前で何かが光と共に弾け、そして空気を破るように、暴風が吹き荒れました。
人の胴程もある太い木の根は文字通り、木っ端微塵となり、天井から砂埃が降り注ぎました。
「危なかった、痛い目見やがれ」
ぜぇはぁと息を切らせて、冷や汗を垂らしながらデーンは言いました。
その手に握られていたのは、いつかの時に使おうとした物、導火線の付いた鉛玉でした。
声が出せるようになったドギンは咳き込みながら、デーンに言いました。
「デーンさん、それは、火薬ですか?」
デーンはしたり顔で言いました。
「応とも、お前さんが館を離れた頃合いを見計らってから、使うつもりだったし、こいつァ、俺のとっておきの秘密だったんだが、こうなった以上、仕方ねぇ。死なば諸共、だ!」
そして導火線に火をつけて、火薬をまた投げました。
話している間に、更なる根が襲いかかろうとしていましたが、とてつもない轟音と共に砕け散ってしまいました。
その隙にデーンはドギンに近づいて、背中を摩ります。
「それより、どうしたんだ。何があった?」
ドギンは水筒の水で、口を濯ぎ、吐き出してから不安げに言いました。
「魔術を使おうとしました。でも、文句を口に出そうとしても、声が出なかったのです」
またウシガエルのような奇妙な笑い声が空気を震わせるように轟きました。
アルダバンは低く、囁くように言いました。
「我ら吸血鬼は、生きとし生きる者の血を飲む術を、他の誰よりも知っているがな、我らとて、他の術がない訳では無い」
そう言ったアルダバンは、吹き荒れる嵐の時の雲が唸る様な、低く不気味な声で、何かを唱えるのでした。
聞いた事もない言葉で、文句を一つ、また一つと唱える度に、キャンドルに照らされた影が濃く、大きくなり、ドギン達に迫るように影が部屋を飲み込もうと伸びるのでした。
その文句が、心に忍び込むように刻まれ、頭の中がその文句で響き続け、二人は耳を塞ぐのでしたが、一度耳にした文句はずっと、頭の中で鳴り止まないのです。
次の瞬間、業火の中にいるかのような、肌が焼き爛れてしまうのではないか、あるいは、身体を鋭い刃物で抉られた、と思うほどの苦悶と苦痛が襲い、二人は耐えかねて悲鳴を上げ、苦痛から抗おうと、身体をジタバタと暴れてしまいました。
とっくにアルダバンは唱えるのをやめ、その様子をじっくりと眺めながら、満足気に笑うのでした。
「これは闇の魔術、苦悶の呪文だ。我のお気に入りだ」
苦しみに喘ぎながらドギンは、航海の時や、森翁、砦の時のように精霊の流れを見ようとしましたが、心は苦悶に支配され、意識を保つ事で精一杯で、それすらも叶いませんでした。
そして、アルダバンの根はついにドギンを捕え、身体中に枝や蔓が身体中に這うように縛りつけました。
「精霊を見ようとしたか、小鬼。聞いていたとおり魔術が使えるようだな。森人や闇人が、我を討ち滅ぼさんと乗り込んでくる事を見越して、呪い止めの儀を施して正解だったわい」
身体中に流れる全ての物を絞り出すように締め上げられ、ドギンは顔を歪ませながら言いました。
「見たのではなく、聞いた?誰から、聞いたんだ!見たのならいざ知らず、聞いたのなら有り得ない話だ。言え!」
その要望を断るように、締め上げる力は増し、ドギンはまたもや悲鳴をあげました。
「それは言えなんだ。我も吸血鬼、闇の軍勢の紳士だからな。ところで小鬼よ、吸血魔術を目にしたことがあるかね?」
するとドギンは段々、視界がぼやけ、身体に宿る心が、魂が吸われるように、段々力が萎えていく感覚を覚えるのでした。
これは不味いぞ、早くせねばドギンが身体と心が乖離し、やつの中でドロドロに溶かされ、遂には帰らぬ人になってしまうぞ、と焦るデーンはすかさず、導火線に火を付けて鉛玉を投げました。
それがなんと、鎧の腕のように生えた枝から、青々とした林檎のような果実が幾つもなり、それが降り注いでは瓦礫の山のようになって、爆発を防いでしまったのです。
爆風に巻き込まれなかった無傷の果実からは、宿主そっくりな裂けた口がぱっくりと開かれ、飛び跳ねながら襲いかかるのです。
迫る果実の化け物にデーンは天井に向けて鉛玉を投げつけました。
爆発と共に、天井は砂埃を撒き散らしながら瓦礫となって崩れ落ち、果実の化け物達はペッシャンコ、ドギンを掴む根や枝、蔓も押しつぶされ、ドギンを放り投げました。
運良くデーンの方へ飛ばされたようで、デーンが何とか抱き抱える事が出来ました。
崩れ落ちる音も次第に大きく、広がり続け、遂には地上の明け方前の淡い空が見える程、大きな穴が天井に現れました。
身構えたままのデーンが尋ねました。
「やったのか?」
ドギンは被りを振ります。
「いいえ、奴はまだ死んでいないと思います。吸血の因子を持つものは有り得ない生命力を持ちます。それも植物に宿ったとなると」
言いかけたその時、瓦礫を突き破るように木の根が天へと伸び、掻き分けるようにしてアルダバンが姿を現しました。
「やれやれ、こんなに大きな穴が空いてしまえば、ここもそろそろ離れ時だな」
ドギンは確認のため、呪文を唱えようとしましたが、まだこの老樹に寄生する吸血鬼の呪文がかかっていて、使うことが出来ませんでした。
「鉛玉も尽きた」
デーンが活力の無い声で囁きました。
ドギンもまた吸血の魔術を受けて、ほとんど力が残っておらず、立つことすら難しい状態でした。
ドギンの中で、真っ先に思い浮かんだのは、麗しき銀の君の事、そして、ここで命が尽き果てる事、何も成し得なかった事、そう言った事ばかりが心をぼんやりと埋めつくし、虚ろな目をするのです。
「遊びは終わりだ。まだ生き残っている闇人もお前達の後を追うことになるだろうな」
そう言って、鋭く膨れ上がった根の濁流で襲いかかりました。
木の根の濁流が体を貫き、押し潰すようにして襲われ、終わる、そう考えていたドギンの耳にデーンの歌声が聞こえてきました。
喉太く、酒焼けした嗄れ声でしたが、その歌い様は海の男らしく、雄々しく、力強い歌声でした。
時が二つ、昼と夜の狭間
まだ来ぬ昼の終わり
エルの子達や、お休みの時間だ
夜の帳の大王がやって来る
彼が来たら、窓を閉ざすように
夜の帳も下ろされる
エルの子達や、お休みの時間だ
夜の帳の大王がやってきた
歌い終わると共に、彼は星空を背負ってやって来ました。
まるで彗星のように、星の尾を引き、星屑が散らばってキラキラと消えていくように、闇人の王、全ての闇人の王が、その外套を靡かせてやって来たのです。
「呼んだのは君たちだったのかい。私は十分手助けをしてやったつもりだったのだがな」
自信に満ち溢れた夜の帳大王はそう言って、ドギン達に呼びかけました。
どうやら、砦での出来事を言っているようでした。
デーンは苦虫を噛み潰したような顔で言いました。
「言い方悪ぃが、あの時俺達はお前を呼んでねぇ。それに依頼のことも、この歌でアンタっていう道具を使った、って事で問題ないだろ」
顎に手を添えて考えるように夜の帳大王は目を閉ざしました。
「ふむ、一理あるな。良かろう、手を貸そうではないか」
山にまで響くのではないかという、飛び抜けて明るい笑い声を上げて、夜の帳大王がそう話していると、今度はドギンがこう言いました。
「申し訳ございません。夜の帳大王」
夜の帳大王もこう言いました。
「旅に失敗はつきものだ。気にするな、毛むくじゃらくん」
それを聞いて、色々言いたいことのあったドギンですが、事態を呑み込めないアルダバンは錯乱気味に言いました。
「なんなのだ、この男は!五百年も生きてきて、各地を渡り歩いたが、こんな力の持ち主、今まで見た事がない。その力は、まるでタルサケスのような、神々に匹敵するでは無いか!」
今までの余裕ある態度から一転して、この慌てようにドギンは困惑し、夜の帳大王は肩を上げて、呆れた顔をしました。
「煩いぞ、黙れ」
夜の帳大王はたったの二句で、朝方のカラスのように喚き散らしていたアルダバンは縫いつけられた様に口を閉ざしました。
「私は、この手の者を祓うのが苦手なのだがな」
そして、甘い声で、まるで聖職者の説教のように、穏やかと信仰心に溢れる顔つきで祈りました。
「地母のセルフォールよ、この地に住まう、子らに、その慈愛と導で、この迷える、魂を、土へと還し、救たまえ」
するとアルダバンに後光が差すように、アルダバンの周囲が光を纏い、そして生物ならざる狂える絶叫と共に、老樹の身体は朽ち果て、崩れ落ちました。
祈りを終えた夜の帳大王の顔の半分は爛れ、その骨格と肉の細かな繊維までが剥き出していました。
デーンはドギンを抱えたまま瓦礫を登り、地上に出ました。
「流石に、二度目はなかったようだ」
いつもの自信家の表情はなく、寂しげに笑う闇人の王の姿がありました。
「申し訳ございません、夜の帳大王。火と闇にある貴方様に昇天の呪文を使わせてしまった」
デーンの腕の中でドギンが辛そうに目を伏せて謝りました。
夜の帳大王はドギンに微笑みかけました。
「何、私が君と同じくして未熟なだけの話だよ、毛むくじゃらくん」
そう言うと(闇の魔術ではありますが)治癒の呪文を唱えて、ドギンを癒しました。
夜の帳大王は明けの空に祈りの歌を歌うように唱え、その美しい声は朝焼けのヘルロスさまの御光を呼ぶように響き渡りました。
いつの間にか、セブレヒトもその場にいました。
その手には鋼の玉のようなものが握られていました。
ドギンへの治療が終わった夜の帳大王はセブレヒトに尋ねました。
「その鋼の塊はなんだね」
すると唇を噛み締めてセブレヒトは言いました。
「かつての部下達です。亡者となった彼らはいくら鎧を砕いても、元通りになってしまうので、砕いた後に火の魔術で溶かし、このように固めたのです」
そして彼は東の空の明け星に祈りを捧げました。
それからドギン達に謝罪しました。
「すまない、早く救援に向かいたかったのだが、対峙していたのは私の部下達だった者、彼らをこのようにするか迷ってしまった。不甲斐ない私を許してくれ」
ドギンは体力が回復したものの力なく、立ち上がり、同じ明け星を見つめたまま言いました。
「許すも何もではありませんか」
そう言ったきり、黙って佇むばかりでした。
デーンもセブレヒトも、何も言いませんでした。
「毛むくじゃらくん」
「私はドギンです、夜の帳大王」
呼びかける夜の帳大王に振り返ってそう言ったドギンの顔は悔しさを隠すように、目を見開き、威嚇するように牙を剥き出して嘯きました。
夜の帳大王は優しく微笑んだまま言いました。
「知っているとも、エルガーラからよく君の話を聞いていたからね」
それを聞いて益々、ドギンは腹を立てましたが、牙をしまって、何も言わず、また立ち尽くしたまま、北西の風に吹かれました。
我らがドギン君の心の中には自分への失望めいた悔しさが満たされた心を乾かしていました。
それは銀の君の元へと、訪ねる道中の様に、無力感とそっくりで、偉大な師の元で学び、この旅で自分への変化に喜んでいた自分がおかしかった、森人の生き方、闇人の生き方、デーンの生き方、セブレヒトの生き方、彼らの生き方は強く眩しいくらいに輝き、むしろ、ドギンの弱さを見せつけられた様に感じたのです。
そして、吸血鬼を前にして何も出来なかった、果たして、そんな自分自身が使命を果たせるのだろうか、という不安が立ちこめては消えないのでした。
あまつさえ、弟子と知っておきながら、何も出来ない赤子を相手するように(夜の帳大王の偉大さからすれば当然なのですが)、脅威とすら認めてもらえず、名を呼ばずして、銀の君の真名を呼ぶ事に、自分や銀の君を侮辱したとすらドギンは感じていたのです。
そんな沈黙を破るように、ウシガエルに似た声が響き渡りました。
「伝説に語られる闇人の上級王が現れるとは、思わなんだ。そして、小鬼もまた伝説に聞く、隠されし秘密の女王の遣いとはな」
「アルダバン...!」
ドギンとデーン、セブレヒトは辺りを見回しましたが、どこにも姿がありません。
夜の帳大王は三人に言いました。
「吸血鬼に止めはさした。死に絶え絶えの戯言を聞く必要はない」
しかし、ドギンの心に入り込むように欺瞞の声を囁きました。
「哀れな者よ、何故、伝説の女王自ら動かぬのだ?伝説が実在したとなれば、この意味がわからぬ訳ではなかろう?」
「聞くな、毛むくじゃらくん《ドギン》!」
夜の帳大王の制止も叶わず、ドギンは気丈に振る舞いながら反論しました。
「運命に抗う事の苛酷さを知らぬ者に、何がわかる!もはや、我が師は運命の鎖に縛られ、その禁を破れば、その偉大な力も失われてしまうのだ」
しかし、死に際のアルダバンは嘲笑いながら一蹴しました。
「幾度となく、その身を顧みず、運命に逆らった女が、今更そのような事で、他の者に託すのか?甚だおかしな事よ」
笑い声を上げる前に、その声は夜の帳大王の手拍子一つで消えてしまいました。
「これ以上その汚い口で彼女を愚弄するな。下郎めが」
普段の彼からは想像も出来ないほど冷酷な侮蔑の目をして、吐き捨てるように言い放ちました。
夜の濃紺はすっかり淡く薄くなってしまっていましたが、ドギンの心は晴れない気分でいっぱいでした。
夜の帳大王はセブレヒトを連れて、翡翠町に様子を見に行ってから砦に戻り、サラゴンに報告する、その身は自由だ、と伝えて、その外套でセブレヒトを包み込んで、空の彼方へと飛び立ち、その場を後にしました。
デーンは荷物をまとめ、ドギンの背中を叩いて歩みを進めました。
ドギンはしばらく、その背中を目で追いながら、その後ろを黙って歩きました。
旅に出た時の勇気や希望はすっかり萎え落ち、陰りを見せるのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます