第7話 エンギレン④ デーンの行方と夜の帳大王
鎧のひしめき合う音が森中に響き渡り、松明の光は地上の星のように数多の揺らめく光を放ち、闇の森に明かりで溢れ、影がより色濃くなっていました。
その色濃くなった影に潜む者がいました。
そう、皆さんもよくご存知の小鬼のドギンです。
ようやく出口を見つけることが出来たのでしたが、知らぬうちにデーンと闇人が遭遇し、当の本人は彼らに捕らえられてしまったので、このように後を追っているのです。
それにしても三百以上もの兵士からなる闇人の軍勢に悟られないようにするのは大変至難の業でした。途中何度か勘づかれそうになったのですが、影に潜んでいた頃を思い出してすぐに隠れることが出来たので、何とか一度も見つかることなく後をつけることに成功していました。
森人の道を外れてしまい、ドギン達のいたところはもはや獣の領域で森が持つ邪な力で溢れているのですが、それは闇人にとっての森人の道でもありました。そのため、獣達は軍勢を見ては退いて、中には気性の荒い獣もいましたが数の前では否応もなく打ち倒されました。
闇祓いの呪文が先頭を歩く者達によって唱えられ、ドギンは口からナメクジを吐き出してるような気分で歩くことになりましたが、かえって闇の森の力を恐れずに済んだのでした。
夜も更けて、影が濃厚になった時、ようやく森の中の虫食いのような開けたところに出てきました。
ドギンは木々の間と草むらに隠れながら目の前の様子を伺いました。
そこには苔と蔦で覆われ、所々崩れかかったとても古びた砦があったのです。
門の前にある川は天然の要害として流れ、石造りの砦の壁は影が染み付き、夜空の御光を持ってしても、僅かな煌めきすらなく、狭間窓から光が漏れ出ることもなかったのです。
そしてその空を蝙蝠や蛾共が夜空を覆うように飛び立つと、また呪われし古木によって天井を塞がれたのかと思い込んでしまうほどで、その荒廃と滅びの匂いを強くさせたのでした。
そして門に描かれたヒンデンブルクの王章は錆び付いて剥げていました。
その錆びれた鉄の門は金属が擦れる高い音を響かせてゆっくりと開かれました。
そして、付き人を連れた闇人の男が軍勢を労い、迎えるのでした。恐らく、この付き人を連れた美丈夫こそがこの砦の主だとドギンは考えました。
かつて森人が使っていた砦は捨てられて、幾年と年月を経て虐げられし変異闇人達がここに住み着いたのだろうと睨みを利かせると、お得意の耳の良さを活かして、よく耳をすませました。
部隊の隊長は砦の主の前で跪き、一礼したまま左手を主人に向けて差し出しました。
それを見た砦の主人は彼の手を取り、付き人に何又にも分かれた針と石黄の鮮やかな顔料を用意させました。
主人が彼の篭手を外し、素肌を顕にさせるとその手の甲に刺青を新たに彫りました。
幾千年も山々には、彼の死を呼ぶ醜悪のヤブニヘグが流した冷血が染み付き、その悪辣で醜い魂が鉱脈を呪い、地の精霊は狂える悪霊と化してしまい、刺青を入れた者は竜の汚れた心と精霊の怒りに呪われてしまうのでした。
しかし、闇の軍勢たる者たちにとって、呪われて尚、力を示すことに意味を持つ様になり、小鬼や闇人にとって刺青とは、足枷であり栄誉。
刺青を新たに彫ることは名誉と武功を称える証でもあったのでした。
主人が彫り終えるとこの隊長を称賛し、拍手で埋め尽くされました。
そして、この美丈夫の主人は拍手喝采が鳴り止むと共に、その静寂の水面に波紋が広がるように演説を始めました。
「皆の者、よく無事に帰還してくれた。あのアクマイヌ共を追い払ったのみならず、彼の憎き、枯葉の王のしもべをも捕らえてみせた。諸君らの事を私は天高くあられるミーナールの光よりも誇りに思い、諸君らと共にこの事を祝える事は生涯忘れることはないだろう!」
主人が最初の挨拶を終えると拍手が飛び交い、また静まると話し始めるのでした。
「我々、人の生というのは小さな勝利の連続だ。我々は常勝の軍団だ、そして今回の勝利は間違いなく、エンギレンの命運を決めた」
主人は目の前に縄できつく縛られ、土埃と泥と血で汚れたデーンを引きずり出して、注目を集めるようにして腕を広げて再び話し始めた。
「この者は、彼の王国で知られた一流の船乗りだそうだ(もちろん、諸君らが森人共に劣るわけが無いが)。怪しくも船乗りが海にではなく森の中を彷徨い、更には我々、明け星の
群衆の間にざわめきが広がってもなお、滑らかに口から言葉が流れた。
「この事が何を意味するかはハッキリとしないが、木を植えるだけではいかなくなったことだけは確かだ。しかも、この男は只人でありながら森人に味方し、我ら兄弟の地に足を踏み入れたのだ。この尋ね人が何かの陰謀でこの地を訪れたのは明白である」
群衆の視線に敵意が混じり、その剥き出しの悪意をデーンに向けるのでした。
しかし、堂々とデーンは答えました。
「如何にも、俺は己の意思で大切な使命を果たさんとして、この森の中を歩いてきた。お前さんらの土地に踏み入れてしまった非は詫びよう。だが、決して王国からではなく、俺が俺自身に課した使命と命運と共に旅をしているに過ぎない。従って、邪なことは何もない」
その堂々とたる雄弁さは離れたところにいたドギンも心を掴まれ、更にはほんの一瞬、群衆の関心を集め、困惑の色を強めるのでした。
しかし、それでも冷笑を崩さなかったのが闇人の主人でした。
「邪なことがないという言葉こそが欺瞞に満ちた戯言よ、人は生まれながらにして善だとでも言うのか?否、人は生まれながらにして灰色なのだ」
それからの主人の言葉は止まりませんでした。
「人は善も、悪も、等しくその腸に孕んでいるのだ。この世にその罪深さに問わず、何も罪を犯したことの無い人間はいるのか?心の中で隣人を恨んだり、妬んだことの無い人間がいるのか?否、そんな者はいない。灰からは、灰の他には成れん、この道理こそ貴様の言葉が偽りだということ他ならない」
このさらさらと流れ出る弁舌にはデーンも黙らざるを得ませんでした。
もしこれで主人の言葉を否定しようものなら、きっとこの男は自分たちの種族の話を持ち出すことでしょう。
彼らの言い分というのは、その心の闇の奥底にある穢れた者として蔑まれた過去が、骨組みとなり、思考の武装化を強固にしたのだとドギンは考えました。
差別される者が考えることは正義の旗ではなく、審判の天秤だとドギンは強く感じたのです。
そうなればデーンの心象はどうあれ、反論という行いは、闇人から更なる反感を受けることとなります。
その様子に主人は勝ち誇った顔で嘲り笑い、その声は暗闇に響き渡るのでした。
「何も言えぬか、そのロウソクの火に等しい命がそんなに惜しいとみた。やはり先程の言葉は命が惜しい為の戯言であったか」
あまりの侮辱に体を震わせて立ち上がって憤りの様子をみせ、そのまま主人の方へ走り寄ろうとしましたが、すぐさま護衛の者たちに取り押さえられてしまいました。
そのまま、暴れるデーンを抑えながら砦の中へと連れて行かれました。
怒声が飛び交う中、気にもせず主人は群衆にむけてこう言い放ちました。
「皆の者、今のが奴らの本性よ!人を平気で欺き、姑息に逃げ惑って蹴落とす外道、それが森人だ。奴らは力に溺れ、傲慢にも自分達が神にでもなったかのように振る舞う横暴を許してもいいのか、否である!我々は闇人のため、明日のため、友のために、ルーボーン族を代表して徹底抗戦を表明する!」
この力強い声明は群衆の心を煽り、何度も「然り!然り!」と拍手喝采が沸き起こり、興奮のあまりに大地は揺れ、大木達も枝葉で拍手しているようでした。
興奮する群衆と砦に連れていかれたデーンの様子にドギンは、口をだらしなく半開きにし、揺れる枝にしがみつく手の平に汗がじんわり滲み、焦りを顕にしました。
それと同時にこの一連の出来事を扇動したこのルーボーン族の主人に、恐ろしさを感じていました。
兵士たちの他にこの場には砦の中にいた民も集まり始め、おおよそ二千もの人々がこの場にいたのでしたが、その全ての人々の心を主人は魅了せしめ、恐ろしい破滅へと導く魔術の使い手でした。
この扇動者の不敵な笑みは群衆に背を向けて砦に戻る時に消え失せ、その面には下劣さ極まりない感情を顕にしていた。
急いでデーンを助け出し、この場を去らねば愛する友人も偉大な王も尊敬する師匠も失ってしまうような気がして仕方がないといった焦燥を持ったドギンは居ても立ってもいられませんでした。
先程も記しましたが、ここは大勢の闇人が居る少し開けた場所です。
そのため木々と背の低い草むらの境目を歩くと感覚の鋭い闇人達に見つかってしまいます。
ドギンは一度森へと引き返し、自分の持つ優れた目で視界を何とか確保出来る所まで来ると音もなく古木の間を駆け抜け、遠回りをしながら砦の方へと近づいていきました。
最初の関門となったのは、砦の前を流れる川でした。
幅こそありませんが非常に厄介な川で、流れが強く、あぶく姿で川底が見えづらく、オマケに対岸には巡回する兵士が通りがかるのを何度か目にしたのです。
水面自体も低いので一度川に入ると少し岩肌をよじ登らなければなりません。
幅は狭いですが飛び越える事も難しく、ドギンの頭を悩ませます。
一瞬、集落の子供から貰ったシャケ飛び豆を思い出すのですが、すぐに諦めました。
というのも、シャケ飛び豆は確かに高く飛び上がり、遠くまで飛び立つことが出来るのですが、何処まで遠くに行くのか、何処に着地するのか誰も分からないので、今、砦へ向かいたいドギンにはとても不向きな代物でした。
木の枝を伝って川を越えようとも思ったのですが、届きそうな枝もなく、先細ったものばかりで少しの揺れで折れて仕舞いそうでしたし、それに枝葉も多く付いていたので体の重みで揺れる音が騒がしく響きそうに思えたのでした。
そうして枝や川を見つめていると、ドギンは長くて丈夫な木の枝を切って棒にし、それを川底に突き刺し、身体の重みで傾く棒を使って対岸に行くことを思いつきました。
善は急げと言わんばかりに、一度荷物を下ろし、縄を取り出しました。
縄を手よりも少し大きな石に括りつけて、見回りの兵士が通り過ぎたのを確認してから、その石を重りにして縄を慎重に降ろしました。
石が音も立てずに沈むとドギンは縄から手を離し、川底に引き寄せられる縄が止まるまで待ちました。
縄がピタリと動きを止めると、ドギンは縄を手に取って手繰り寄せ、また慎重に引き上げました。
石を引き上げるとドギンは縄の湿ったところを確かめるように触り、川底の長さを知ろうとしました。
川底から水面までは凡そ只人の腰ほどまであり、ドギンが入ろうものなら足が着くかどうかの深さでした。
水面から陸までの高さは人目でわかったので、後はそれよりも長い丈夫な木の枝を探すだけでした。
ドギンは闇人の見回り達に木を切る音で悟られないように、短刀を片手に来た道を戻って狙いの物を探しました。
そう難しいことでもないので、すぐに見つけることが出来たのですが、短刀で枝を切り落とそうと構えると、背筋をゾクゾクとした言いしれない不快感が襲い、そこから体内へ滲み渡って心の臓が不可解なリズムを刻み、激しい動悸で頭は凍えるように冷め、喉の奥から逆流するような、得体の知れない出来事に冷や汗が止まらず、力が抜けるように膝をついてひれ伏しました。
古くを生きる呪いの木達が指先を慌ただしく動かし、枝葉が波打ち、激しい音が劈く悲鳴のように響き渡って鳴り止まず、ドギンの耳の奥から突き抜け、反対の耳まで貫かれるような騒音となって、ドギンは耐えきれずに耳を塞ぎました。
樹皮の欠片さえ切らせまいと古き大樹が、神秘に包まれし森が語りかけてくるように騒ぎ立て、怒りと悲鳴をあげているようにドギンは強く感じたのでした。
エンギレンの木々は、第一世紀よりも、もっと古く、山人や只人どころか、森人すらもこのエルに地を踏む遥か遠くの時代から存在したとされている、と銀の君がいつか語っていた事を思い出します。
ある時、静寂の月夜に銀の君と森について話していました。
「彼の森は、長い間、その根を深くまで張り、天井を隠してしまって、森の中を暗闇にしてしまった」
ドギンは銀の君を見つめながら。
「では、闇の力がエンギレンを恐ろしい場所に変えてしまったのでしょうか?」
すると可愛らしい顔を小さく横に振りながら、銀の君は言いました。
「それだけではありません。暗闇は何も見えないから、何かを隠すのに最適で、暗闇のもうひとつの意味は秘密、秘密に人々は意味を求め、答えがないか、その人が及ぶ範囲で理解しようとする」
ドギンは項を傾けました。
「すると、つまり噂や、あらぬ誤解が、森の木々に何かを与えた、と?」
銀の君は今度は縦に首を小さく振りました。
「あまりにも膨大な時の流れは、闇と秘密で積み重ね続けてしまいます。だからあの森は神秘を帯びて、大木達には生命が宿ったのです」
窓辺に寄りかかる銀の君は外の景色に目を向けました。
「只人は私達のことを森の人、銀細工の民と呼ぶ他に、森の妖精だ。とも言います。しかし、私達からすれば、エンギレンの古い樹木の方が妖精と呼ぶに相応しく思います」
森人は大地に緑を植える役割を持っている話をふとドギンは思い出し、この時はまだ、あの木々達のことを我が子のように思っていることの例え話なのだと思っていました。
その時の銀の君はこの木々たちの事をなんと呼んでいた事か、とドギンは考え込みます。
大木はその歳月を思わすように樹皮は皺が多く、所々に虚も見えてそれまるで、と言った所でドギンは思い出しました。
「
すると恐れ嘶く物音が嘘のように止み、静まり返りました。
「すみません。私には助けねばならぬ友が居ます。だから、その恵みを私に分けてください」
ドギンの懇願が聞き届いたのか、一本の長い枝が頭を垂れたのでした。
ありがとう、と礼を言うと、落とした短刀を手にして、一刀のもとに断ち切りました。
「これでデーンさんの所へ行ける」
ドギンは木から背を向けて走り出そうとして、もう一度振り返り、頭を下げてから再び背を向けて走り出しました。
草むらをかき分け、何度か転びそうにもなりましたが、前方に先程の堀が見え、巡回する兵士の姿も見えないとわかると、そのままの勢いでぴょい!と川底に枝を突き刺して飛び越えてしまいました。
枝はそのまま川に流しました。
引き上げれば、水滴が地面を濡らしてしまい、渡った跡が残ると思ったからです。
そして、ドギンは砦の方へまた駆け出しました。
あれから二十分は経過したでしょうか、古い砦の壁に近づくにつれ、その様子が細部に渡ってハッキリとわかるようになって来ました。
その影を色濃く感じられた石造りの壁は斑糲岩を使い、小さな隙間に塗ってあったモルタルにはひび割れが見られ、おどろおどろしさを漂わせ、ドギンの見ている壁に絡まっているのは茨で、蔓には鋭い棘がある事が見て取れました。
この時のドギンは急いではいましたが焦ってはいません。
短刀を抜いて、足がかりとなる手前の蔓を切ると一度、鞘に収めて登り始め、邪魔な蔓があれば止まって短刀を抜いて払う、それを繰り返しながら壁の微妙なズレに手や足を掛けて素早く登りました。
上を見れば松明が照らす円の縁の外で暗く、また人陰(とはいえ、登っているところは月の光の影となっていて、見える景色全部が影なのですが)も見えず、絶好の機会に恵まれたと言えるでしょう。
一気に登りきったドギンは辺りを見渡します。
向かいの塔と城壁には闇人の兵士たちが見張りをし、ガサゴソと登ってきた音に気づいている様子で、首や体があっちこっち向いていました。
これはまずいぞ、と思ったドギンは床に這うくらい屈んで背を低くし、顔を伏せて身を隠しました。
このままではデーンの元へたどり着く前に捕まってしまいます。
自分の背中より高くならないように亀みたいに首を伸ばして隠れられそうな場所はないかと見回すと、この壁は居館に通じていることが分かりました。
そのまま顔を伏せたドギンは隠れながら這うようにして居館に向かうのでした。
一方堀の方では、ある男が他の兵士を連れて歩いておりました。
銀の短い(森人の基準ではですが)髪、顔の判別が出来るのはその紅を塗ったような甘い唇だけで、後はほとんど仮面に隠された長い耳の男、他の兵士に比べて立派な甲冑を身につけ、軸のブレないしっかりとした足取り、まさにドギンの大好きな絵本に出てきそうな騎士のようでございました。
この男こそ、後の世に"半純血の
しかし、この男の活躍はもっと先の世の中のことでございますので、多くは語らずに、また語るべき時にお話しましょう。
この仮面の男、セブレヒトはあの闇人の主人の右腕で、彼の部下もまた優れた者たちでした。
堀沿いで侵入者の跡らしきものを見つけた、と部下から聞きつけて、自ら出向いた、という次第です。
セブレヒトが呼び出された場所は、先程ドギンが飛び越えた場所でした。
部下の一人が、こちらをごらんになってください、と地面に松明を照らして、指を指しました。
「これは、分かりづらいが足跡のようだな、まるで足裏にも毛が生えているのか、輪郭はぼやけて足型はハッキリとは分からないな」
すると地面を松明で照らす兵士の背の方からもう一人の兵士が駆け寄ってきました。
「セブレヒト様、これを」
渡されたのは水に濡れた木の枝でした。
セブレヒトは手に取り、切り口の方をじっくりと観察しました。
「こいつは折れた枝ではなく誰かが切った跡がある。それに長さもある。それに反対側は川底にぶつかって擦れた跡もある」
「では、やはり」
少し狼狽える兵士にセブレヒトは仮面の中から睨みつけます。
とは言っても嫌な視線ではなく、落ち着け、と諭すような視線でした。
「足の向きとその方向の草が踏み荒らされている。お前たちは先に砦に戻り、他の兵士たちにも伝えて中の警備を強化するんだ。鼠の跡は私が追う」
応えるようにしっかりとした返事をした兵士達はその場を後にし、残されたセブレヒトは足跡に顔を近づけて、匂いを嗅ぎとろうとしました。
皮脂でベトベトした獣のような匂いの中に、微かに木の匂いがするのをセブレヒトは嗅ぎとりました。
「これは...ヤタハの木?」
ヤタハの木はジパルドに生えており、森人の、特に上流階級が家具の木材として使用する貴重な木でした。
「この足跡は見た事ない。獣臭がするのも謎ではあるが、間違いない。裏に森人が関わっている」
セブレヒトは紅を塗ったような唇を噛み締めたせいか、艶っぽくなっていました。
立ち上がり、只人の劇場で歌うテノール歌手のような低く甘い声で囁きました。
「我、闇の、秘密を、暴きし、追手なり、真実の、猟犬を、今、顕さん」
砦に向かう足跡から闇夜にハッキリと映る蛍光色の煙がゆらゆらと上り、そして、それは足跡の主の方へと続きました。
「今、その首をはね、明け星の旗団の勝鬨にしてくれよう」
そう呟くと、まるで秋の荒れ狂う迅風を纏ったように走り出し、跡を追いました。
煙は砦の壁の上からも立ちこめていました。
我らがドギン君は窮地に立たされていました。
あれから見つからずに居館の中へと入り込むことは出来ましたが、問題は中に入り、薄暗がりの廊下を隠れながら歩いている時のことでございます。
皆様は先程の様子をご覧になられたので、お分かりかと思いますが、ドギンの背からはまるで糸が吐かれている様に、蛍光色の煙がゆらゆらと吹かれ始めたのです。
「これじゃ、不味い。急がなくちゃデーンさんと一緒に僕まで牢屋にぶちこまれちゃう!」
頭は暖炉の上に置かれてピューピュー鳴くやかんのようで、あたふたと慌てふためいていると、煙の後を追って兵士たちが、ゾロゾロと現れてきたではありませんか。
「見つけたぞ!」
兵士に叫ばれたドギンは慌ててその場から立ち去りました。
背中の煙は絶えず流れ、それを追って後ろからは、金属がひしめき合う音を廊下に騒々しく響かせて迫ってきます。
「ダメだ、煙を何とかしないと振り切ることすらままならない。きっと、誰かが僕の侵入の形跡に気づいて呪いを掛けたんだ!」
呪いを解こうとして、呪文を唱えようとして、アスラン王との出来事が喉につっかえて、呪文の言葉が出てきませんでした。
しかし、躊躇う訳には行きません。
「地母の女神よ、その名において、迷える、子の、闇を、払い給え!」
すると煙は消えたのですが突然、身体の芯から激痛が走り、あまりの痛みに躓いて、転んでしまいました。
痛みに耐えようとして激しく浅い息と涎と共に苦悶に喘ぐ声が出ました。
間違った詠唱したのか、いや、詠唱に間違いも、何もない、では何故、と考えが纏まらない内に足音はもうすぐそこまでやってきていました。
考えている余裕は無い、とドギンはすかさず呪文を唱えました。
「闇の精霊よ、私の姿を、闇に、隠し、秘密にせよ!」
唱え終えると、ドギンの姿は薄れゆき、すっかり消えてしまいました。
驚いた兵士たちは、辺りを見渡しましたが姿かたちすら見えず、追跡の煙も途絶えてしまっていたので、その場を後にして探し回り始めました。
誰もいなくなった事を確認したドギンは、姿を消したまま、胸を抑えてヨタヨタと歩き始めました。
先程の激痛で上手く呼吸が出来ず、浅い呼吸を繰り返し、壁伝いに歩き、何とか巻いた追手が魔力に勘づく前にデーンを見つけ出そう、と考えていました。
しかし、いつの間にか背後に気配を感じて後ろを振り向く前に、外套のフードを捕まえられ、吊るし上げられたのでした。
「そんな子供騙しの魔術で、バレないと思ったか?侵入者」
低く、甘い、男の声が背後から聞こえてきました。
「その程度で闇人を騙せると、舐められたものだな」
吊るしあげる男の姿を見るために振り返ると、そこには唇以外を隠した仮面の、奇妙な匂いの闇人がいました。
よく見れば口の周りが白い様に見えました。
姿を現し、何度か噎せながらドギンは尋ねました。
「貴方は、森人?」
その瞬間、仮面の下の赤い瞳が殺意で、眼光が鈍く輝くのが見えました。
「私は闇人だ。例え、森人の血、半純血だったとしても、私は闇人だ。次は命は無いぞ」
ドギンはその言葉に、その瞳に、この男の背後にある暗い過去が映って見えました。
「すみません。私の好奇心から貴方のこれまでの日々を否定し、傷つけてしまった」
そういうとドギンはすっかりデーンのことを忘れたかのように肩を落として、眉(毛むくじゃらで、そう言っていいのかは分かりませんが)を下げて申し訳なさそうな表情をしました。
その姿に毒気が抜かれたのか、仮面の男、セブレヒトは、侵入者が自分の発言に悔いて、許しを乞うとは、何がしたいのか、と酷く困惑しました。
「分かってくれれば、良い。私もその件に関しては、水に流そう」
自分でも何を言っているのか、と言った困惑の中、セブレヒトはドギンを見つめて驚愕します。
そう、セブレヒトは小鬼のイメージは、禿げあがった頭に、ナイフのようにとんがった鼻に、不潔な肌と悪臭のする邪悪な顔をした姿なので、ある程度、姿は予想していたとはいえ、こんな毛むくじゃらな種族を見たことがなかったのです。
「君は一体、何者だ?」
これを聞いたドギンは、しめた!と思ったのですが、自分がデーンの友人で、ドギンその人である事を思い返し、小鬼のように振る舞うことに、違和感を覚えて正直に答えました。
「私はドギンと申します。小鬼で、デーンの友人です」
セブレヒトはまるで石にでもされたかのように、瞬き一つせず、固まって動かなくなってしまいました。
しかし、フードを握った手は決して離すことはありませんでした。
しばらく経ってから、セブレヒトは大きなため息をして、もう考えることを諦めたような調子で言いました。
「とりあえず、牢屋に入れるか」
そうしてセブレヒトに吊るされながらドギンは地下牢まで連れて行かれました。
下の階に進むにつれて段々、明かりの数は減っていき、地下牢に着いた時にはセブレヒトの持つ松明と、もう一人が牢屋の前に立って松明だけが明かりとなっていました。
牢屋の前に立つ男はこの砦の主人で、主人の持つ松明の明かりが照らす円の縁、つまりは牢屋の中にデーンがいました。
デーンはドギンの姿に気づくと鉄格子にしがみつき、そいつから手を放せ、と怒鳴り散らしました。
「セブレヒト、その毛むくじゃらはなんだ?犬か?」
主人の端麗な顔は歪み、目に入れたくないと言った気持ちが滲み出たように目を細めてドギンを見ました。
「サラゴン様、彼は小鬼で、デーンの友人で、例の森人の使者、だそうです」
「情報量が多いな。とりあえず、話し合いはさせぬように、ひとつ空けて、隣の牢に入れておいてくれ」
砦の主人、サラゴンもまた、セブレヒトのように困惑と考えを放棄したような調子で話しました。
牢屋に放り投げられるようにしてドギンは入れられ、壁にぶつかって、一瞬、息が出来なくなって、げほげほと咳き込んでいるうちに鍵を締められました。
離れた部屋からデーンが、おい、大丈夫か!と呼びかける声がドギンの耳にも届きました。
「だ、大丈夫ですよ!こんなこと、慣れているので!」
「ンなもん、慣れるんじゃねぇ!」
二人のやり取りを聞いていたサラゴンは考え込むように、ふーむ、と鼻で鳴らすように呟きました。
「セブレヒト、下がれ」
慌ててセブレヒトが言いました。
「いえ、一人にさせるわけには...」
「下がれ、二人と話がしたい。数刻経てば警備が見回りに来るようになっている」
言葉を呑んだセブレヒトは、失礼します、と一礼して、階段を登っていきました。
「いいのかい?このままアンタに襲いかかって、人質にしてもいいんだぜ?さっさと戦士長やら、あのセブレヒトとやらを連れ戻した方がいいんじゃねぇか?」
挑発的な言葉と笑みを浮かべるデーンをサラゴンは冷ややかな目で見ました。
「戦士長はそこらの闇人寄りかはマシだが、セブレヒトに比べれば凡夫よ、アレは私のしもべの中、いや、エルに巣食う闇人達を見渡しても、一線を画している」
「つまるところなんだ?お前のお友達紹介かい?」
デーンの言葉にサラゴンは鼻で笑って一蹴しました。
「減らず口を、そんなセブレヒトも私の前では逆らえないのだ。貴様らなど、虫けらと虫以下だ」
それを聞いたデーンは風船のように頬をふくらませた、と思うと破裂して唇か空気と共に笑いが漏れました。
ひとつ部屋を隔てて聞いているドギンは気が気ではありませんでした。
「どうした、力の差に気でも狂ったか?」
「ハッハッハッ、それは頓智というか、理屈を捏ねて、適当言ってるだけだろう?」
サラゴンは額を手で抑えて、呆れたような表情を浮かべました。
ドギンも何がなにやらで鉄格子にしがみついて、顔を押し付けるように覗き込もうとします。
「屁理屈も何も事実だ」
「ならば、臣下を真に思わないクズのどちらかだ」
二人の表情が変わるのをドギンは見えました。
互いに鋭い目付きをし、方やほくそ笑み、方や眉が釣り上がり、眉間に深いシワが出来ていました。
サラゴンは何も言わず、殺意と共にデーンを睨みつけました。
デーンは鼻で笑い返しました。
「図星だったか、まぁ、何も言えなくても無理はないだろうな」
「黙れ」
困惑するドギンは間を読めずにデーンに尋ねました。
「どういうことなんです?彼は臣下を信じていないということでしょうか?」
「黙るのだ、犬畜生にも劣る下等生物が!」
サラゴンの怒りの矛先は間の読めないドギンに向かいました。
それを聞いたデーンは手をヒラヒラとさせて、サラゴンにではなくドギンをなだめました。
「まぁまぁ、そんな焦んな。数刻は俺たちだけじゃねぇか」
そしてサラゴンに向き直って尋ねました。
「さて、怒れるサラゴン閣下にお尋ねしたき事がございますが、何故、ヒンデンブルクの廃墟の砦なんかを根城にしておいでなのですか?」
ドギンにとっては二人の会話が一体なんの事やら、と皆様同様、首を傾げるばかりです。
サラゴンは言いました。
「ふん、我ら、明け星の旗団は虐げられしルーボーン族の為に森人を根絶やしにする事が目的だ。手始めに森人の砦を、ヒンデンブルクの砦を支配する事で、最初の復讐を」
「根拠が薄い」
デーンはサラゴンの言葉を最後まで言わせずに一蹴しました。
「廃墟を根城にして勝利?今じゃ誰も使ってねぇ誰のものでもねぇもん根城にして何に勝ったんだ?」
この言葉を聞いて、思い出されたのは大衆の前での二人の討論の様子でした。
熱狂する群衆たちと煽り続けるサラゴンの姿。
少しづつドギンの中で点と点が結ぶような気がしてきました。
「群衆への演説も、扇動ばかりで、お前は凄さしか語らず、それじゃかえって、民が、闇人が何も出来ない能無し共みたいになっちまってるだろう」
「そうだ、僕が感じた違和感はそれだ!」
頭の中で全て繋がったと思ったドギンは急に立ち上がりながらそう叫んだので、二人ともギョッとして困惑しました。
「戦士長に対しての評価からも伺えましたけど、臣民に対して"マシ"という言い方は明らかに侮蔑の気持ちがあります。ルーボーン族の長に有るまじき行動です。一見、民衆の過去に寄り添うような素振りも、不安を煽り、その矛先をヒンデンブルクに向ける。過去に悲しみを持つもの、ましてや、群衆の長たる者の行いではありません」
一通り、話し終えたドギンはサラゴンの方へ向き直りました。
「貴方の目的は何なのですか?差別なき世を作ると言った方が、暴力に訴えかける理由は何なのですか?」
その言葉を待たずしてサラゴンは左手に指輪を填めて、ドギンの前に手を突き出しました。
「坊や、何のために人払いをさせたと思う?私は君たちへ尋問をしたくてだ。どんな手を使ってもね。話してもらうのはこちらの番だぞ」
そういうとサラゴンは低い声で何やら唱え始めたのでしたが、その声はある者の手によって止められることとなりました。
そこに居たのは、森の中で出会ったアルスラーン族の男でした。
後ろには呆気に取られるセブレヒトと数名の兵士の姿がありました。
口元を抑えられ、目を疑うと言う言葉が相応しいくらいに瞳孔を開いて、サラゴンは男を見つめましたが、男は抑えた手とは反対の手でサラゴンを殴りました。
殴られたサラゴンは転げて、鉄格子に頭をぶつけて、悶え苦しみ、氷の上に乗せられたバッタのように、足をじたばたさせました。
ドギンとデーンにはさっぱりといった呆けた顔をしていると男が言いました。
「君たちと別れてから、しばらくすると、来た道が騒がしいと思って振り返ってみたら、同胞が粗相をしていたようだから、ちょっとばかし、灸を据えに戻ってきた次第だ」
ハッハッハッとその場に似つかわしくない活力に溢れた笑い声が響きました。
二人が顔を見合わせていると、セブレヒトが咳払いをしてから言いました。
「君たちは自由だ。このお方の御友人でしたのに、知らずとはいえ、無礼を働いてしまい、申し訳なく思います」
ドギンがおずおずと尋ねます。
「えっと、この方は一体何者なのですか?」
セブレヒトは驚いたという感じで口を開いて、少し考え込むように唇に手を当て、もう一度咳払いをしてから言いました。
「この方の友人であれば問題ないでしょう。このお方は星に愛されし"夜の帳大王"、全ての闇人の王、森人にも上級王が居られるように、この方もまた、闇人の上級王でございます」
闇人の男、夜の帳大王の外套が靡いて赤、黄、青様々な星々が輝く、満点の星空を抜き取ったような大層美しい裏地がひらりと見えていました。
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