第6話 エンギレン③ 闇の追手達
朝日の恵みが指の隙間を縫って闇に明るさを帯びさせ、その恵みでドギンは目を覚ましました。
これまでの心身の疲労が嘘のようにどこか抜け落ち、空を舞う小鳥のように軽やかな気持ちで、立ち上がった時、ホントに空へ飛んでしまうような感覚さえありました。
そして、先程までドギンを抱き抱えながら眠りについたデーンも、腕に重さが失せたことで目を覚ましました。
「おはようございますデーンさん!」
憑き物が落ちたような清々しい表情のドギンを見て、まだ寝ぼけ眼だったデーンも意識をはっきりさせ、安堵で頬が緩ませました。
「おはよう、ドギン。朝食の支度をするか」
そういうと二人は消えてしまった焚き火にもう一度火をつけて、荷物入れの中から調理器具を取り出して、賑やかに料理を始めました。
久々に活気を取り戻し、ついつい豪勢に作ってしまったものですから、どこか村に寄らなければ当分は食事抜きの旅になってしまいました。
しかも、あまりにも食べ過ぎたせいでお腹が蛙のように張り、せっかくみなぎっていた活力も翳りをみせ、ダラダラと歩くことになるのでした。
過去に戻ることが出来るのなら、料理に取り掛る前に一度殴って、怠惰と暴食に侵された頭を正常に戻してやりたいとドギンは深く後悔しながら歩き、気を引き締め直すため、注意深く辺りを見渡すのでした。
これまで気づかなかったのですが、森の木々の間をリスの親子がちょうど頭と同じくらいのどんぐりを抱えてせこせこと渡り歩いたり、子鳥のさえずりが微かに聴こえてくるといった事がそこらかしこで起きていたのでした。
これまでの道中の自分がどれほど愚かにも時間を無駄にし、だらしないやつだったのかを思い知り、かつて森人と小鬼では時間の感覚の違いで、小鬼に無駄な時間を過ごす余裕はないと批判的だった自分がその通りの無駄なことをしてしまったと恥じることとなりました。
さて、あれから二日も過ぎたのですが、この辺りに一件も村が見当たらず、とてつもない空腹に陥ることとなりました。
森人の道を通っていたばかりに(とは言っても外れた時にどうなるか保証しかねるのも事実ではあるのですが)、鹿等といった大きな動物が現れず、たまに木の枝を渡るリスを捕まえて皮を剥いで焼いて食べたり、団栗をありったけ集めてお粥を作ったり等をしたのですが、それではお腹は満たせませんし、栄養も足りませんでした。
水も動物や小鬼の糞尿が混じっているかもしれないので、川の水もよく沸騰させねばならず、魔術で出すことも技術的には可能ですが、これまで、特に今は闇人の国や村が近くにあるのでドギンが魔術を使うことはとても致命的な行いでしたので、魔術自体を使うことを避けていたのでこれも大変問題でした。
「恐らくは闇人の国や村があるから、森人の村も町もこの地を遠ざけて見当たらないんだろうな」
デーンは深くため息をついて、腕を組んで片方の手を台座のようにして頭を抱えました。
ドギンの中でふと、あの闇人の男が頭に過ぎるのでしたが、こんな事で呼び出してもきっと彼は助けに来るに違いないと思いつつ、本当に今呼ぶべきなのかどうかを考えるのでした。
これを渡したということは何かもっと宿命的で、その時の為に使わねばならないような気持ちがドギンにはあったからでした。
そう考えているうちに危機的な状況にあるにも関わらず、まるで湖の清涼さのように冷静な自分に驚きを隠せないでいました。
道は徐々に荒廃さが目立つようになり、今まで目印としていた柊の木はめちゃくちゃに荒らされすぎて、道を見失いそうになるほどでした。
苦虫を噛み潰したような顔でデーンは話しました。
「いよいよ奴さんの縄張りに近づいてきてんのかねぇ。あぁ、やなこったァ!とんでもなくやな事だ!闇人共だけじゃねぇ、あの忌々しい不細工な犬っころ共も相手しなくちゃいけねぇ」
それを見てドギンはデーンをなだめようとします。
「まぁ、まぁ、もう賽は投げられたのですから、今はここを抜ける事だけ考えましょう」
それを聞いたデーンは足を止めてドギンの方へ向き、腰に手を当て、背中を曲げて顔を近づけて話しました。
「俺は思うんだ。闇人と森人は仲がわりぃからな、よく争っていることは知ってる。だから、どこかのいくさ好きな闇人がアクマイヌと手を結んでるんじゃねぇかって俺は睨んでるね」
「そんなバカな事は有り得ませんよ。第一、神秘が失われてしまったら闇人とて生きてはいけないでしょう?」
デーンの顔は真剣な眼差しでした。
「いいや、森人は滅んでしまうかもしれねぇが、奴らは滅びたりしねぇ。何故ならな?闇人は自然の神秘が無くとも存在を成立出来るからだ」
ドギンは驚きで大きく目を見開き、口をだらしなく開けてしまいました。
「俺は森人と闇人の事情とやらに深く知っているわけじゃねぇが、闇人は火と闇を熟知して、闇と共に生きる奴らだ。森の影が自分たちにとって都合が良かっただけで、自然とかそういった神秘に依存しちゃいねぇようにも感じられる。要するに俺から言わせれば森人の神秘と闇人の神秘じゃ話が違うわけよ」
デーンが話終わると、向き直って再び歩き始めましたが、ドギンは考え込んでしまいました。
というのも、かつて銀の君に森人と闇人が争うようになった経緯を教わったからでした。
銀の君と出会ってしばらくたった日のことです。よく晴れ渡る日照りの空、憩いの谷では暑い季節も風が森と渓谷の川の冷たい空気を運んできてくれたので、涼しい風が窓から部屋に流れ込んで比較的過ごしやすかったのでした。
ただ、こんな時期にも温かいお茶を飲めるのはこのエル中を探しても銀の君くらいのものでしょう。
ドギンは見ていて暑苦しい気持ちになったほどですが、冬でも変わらず白いドレスだけで過ごす銀の君ですから、ドギンの中では何をしても銀の君成すこととして心の中で自分に言い聞かせて、特に疑問には思わないようにしていました。
この日もドギンは熱心に教わりに来て、日が真ん中に来るまで銀の君の話に耳を傾け、日が真ん中になった時に一度休憩とする次第になったわけです。
草木はヘルロスの御光と豊穣のメネーの恵みでツヤのある綺麗で青々とした姿をして、風に吹かれて長い体を揺らすのでした。
アマルカルナは空を群青色に塗りたくり、空と遠くに見える夕沈み海の間が曖昧で空と海が繋がっているように思えました。
「すっかり夏ですね」
ドギンがボソッと呟くと銀の君はいつもの微笑みを浮かべながら、お茶を少し飲んでから答えました。
「そうでしたか、もう夏でしたか」
ドギンは暑い時期に温かいお茶を飲むお方だからと冗談を口にしそうになったのですが、銀の君の佇まいや所作はとても自然で、まるで外の景色と銀の君が重なって見えるような気がして言葉を飲むのでした。
今思えばあの時着ていた白いドレスは袖口が薄浅葱色で縁取られていたようにも思えました。
その様子を見ていた銀の君は口元を抑えて笑って答えるのでした。
「ふふ、私は魔術で快適に過ごせるように、空気から伝う熱をいつも同じにしているので、普通の人が季節によって肌に感じている熱を私が感じれないのはありますよ」
ドギンは恥ずかしくなって俯いていると、それを見つめながら続けて話すのでした。
「それだけではありませんよ。森人にとって時間は悠久で果てしなく長いのです。私達が『もう』と季節を感じる時には何十年と歳月が経っている。ですが、ドギン。貴方と共に時間を重ね、沢山教えていこうと考えてもひと月なんてあっという間だったのですよ」
そういうともう一度お茶飲んでティーカップを机に置くと、部屋を出て庭の方へと歩き始めました。ドギンもちょうど体を動かしたくなった所だったので、ついて行くことにしました。
外は涼しい風が吹くとはいえ、日の照りが強く、じんわりと汗が吹き出るような暑さで、玄関から門までの石畳の小さな道に陽炎が揺らめくのでした。
庭は草花で生い茂り、熱が籠るような気さえしたので、少し鬱陶しそうにドギンが庭を見つめていると、銀の君は庭の横に立てかけていた鋏を手に取り、この大きな庭の散髪を始めました。
鋏が擦れ合う音が響く度に長すぎた草は短く刈り取られていき、少しずつ整えられていく様子をドギンはぼんやり眺めていました。
どうにも庭の手入れのような自然を美しく整えることが苦手で、それに銀の君の庭である以上、自分の手を加えるような事は何か違うような気もして、ただこうして眺めるだけになるのでした。
「退屈でしょう?」
いつの間にか銀の君はドギンの方に体を向けていました。
いくら暑さを感じないとはいえ、身体を動かしているうちに額に汗が少し滲んでいました。
ドギンは頬杖をついて笑って答えました。
「いえ、銀の君がお作りになる庭がどのようになるのか、出来上がるまでの間も含めて楽しいです」
ただ、と付け加えて話し始めます。
「そんな格好で動きづらくないのか、と思った次第です」
銀の君から陽だまりのような笑みが零れました。
「私にとって、全てのことが自然ですから、お気になさらずとも私は大丈夫ですよ」
ドギンはその所作を一つ足りとも見逃さず、その自然な流れに感心するのでした。
「これだけ広いと私の故郷でやっていた玉遊びを思い出します」
ドギンは立ち上がって、足元に転がっていた箒を手に取り、腰を捻って箒を振るのでした。
「木の棒で、投げた玉を跳ね返すだけのとても馬鹿げた遊びですが、ここに来るまではよく遊んでいたものです」
そう話している間に銀の君は泥を手に取って丸く形作ると、油断しているドギンに向かって言い放ちます。
「こうでしょうか?」
投げ放たれた泥玉は真っ直ぐ飛び、ドギンの顔の真ん中を綺麗に当たり、ぶつかった拍子に放射状に泥が散らばるのでした。ドギンは一瞬何が起きたのか理解出来ず、その様子に悪戯をして怒られた子供のような表情で銀の君が話しました。
「楽しそうに話すものですから、つい私もしてみたくなって」
とても申し訳なさそうにする銀の君にドギンは笑いを抑えきれず、響き渡るのでした。
「はっはっはっ!なんで自分でした事なのに縮こまるんです?私が怒ってから申し訳なくなるなら兎も角、自分で悪戯心を抑えきれずに投げて、怒る前にすぐにそれはとても変な感じがして、可笑しいったらありゃしない!」
そうやって笑うとドギンは箒を握りしめて、いつでも来いと言わんばかりに構えるのでした。銀の君もそれを見て微笑むともう一度泥玉を作り、投げる構えを取るのですが、庭に大声を上げながら駆け込んでくる音が聞こえました。
「大変です、銀の君!我が谷に一大事ですぞ!」
そう言って上位森人の書記長が入って来たのですが、この珍妙な光景に呆気に取られ、言葉を詰まらせてしまいました。
「どうぞ、続けてください」
何事も無かったかのように微笑みながら泥玉を投げ放ったので、ドギンはいつ投げるのか、それとも投げないのかと疑心にかられて力が入りすぎていたために身動き一つ出来ず、また顔に泥玉が直撃するのでした。
呆然としていた書記長もドギンの様子を見ると少し目を細くして、しばらくして銀の君に目を向けました。
「はっ、どうやら我が谷に忌み子が産まれてしまったのです」
それを聞いてドギンは少し眉を潜めました。彼にとっては生まれてきた事は祝われはされども否定される事ではないと考えていましたし、そういった森人の持つ選民意識を嫌っていました。なので、つい口を挟んでしまいました。
「何故そこまで闇人を嫌うのですか。どうせ貴方たちの事でしょうから、その子を産んだ家族をも見捨てるおつもりでしょう、そうやって忌み嫌ってなんの意味があるのですか」
書記長の顔は歪み、嫌悪をドギンにぶつけるのでした。
「小鬼が口を挟むな。これは我々の問題だ。神々は我々を善、奴らを悪と定められた。貴様ら小鬼のようにな、それ以上も以下もないわ」
それを聞いて飛びかかろうとするドギンの前を銀の君が遮り、話し始めます。
「報告に感謝します。貴方には貴方の誇りがあるのも確かなように、闇人にも小鬼にも誇りはあります。書記長としての矜恃があるのは喜ばしいことですが、そのあまりに行き過ぎた行いをするのは矜恃ではなく私情です」
銀の君の厳しい言葉に書記長は何も言えず、項垂れるのでした。
銀の君は書記長から背けると、ドギンの顔に付いた泥を手拭いで拭うのでした。
「しかし、混乱を生んでしまうのも事実です。ですから変異闇人及びその家族には後日、私自らが訪問し、家族らと話し合って今後の事を取り決めますが、恐らく移住することになると思います。オスタリア大陸への移住の手配をお願いします」
下がりなさい、と銀の君がおっしゃると書記長はそそくさとその場を後にするのでした。
ドギンは銀の君の回答にやや不満があったので、少し顔を顰めてしまいました。
「何故、森人と闇人が争うのか、それは一言で表すことはとても難儀なことです」
ドギンの顔に付いた泥を丁寧に拭う銀の君の澄んだ青い目には悲しみを帯びていました。
「森人と闇人、大河の源泉まで辿ればエルがひとつの大陸だったように、私達も同じ存在だったのです。しかし、かつての災いで大神はエル中のものを分かち、中庸の平和をもたらすべく、私たちと彼らに分け、天秤を釣り合わせたのです」
それから銀の君は語り続けました。
「いいですか、ドギン。確かに遥か遠く昔、私がまだまだ未熟で蒼い存在だった頃には明確な争いの原因がありました。しかし、今となってはもう誰も覚えていない。ただ、お互いの憎しみだけが残ったの。森人も闇人も、互いにこう詰り合うのです。
『先にやったのは向こうからだ』と。己の憎しみは正しく、妥当なものだと主張します。でも、誰も一切、真相を知らない。その上、仮にお互いに憎む理由があったとしても、それにどちらが先も何もありません。何故なら山が火を噴いた後の空から灰が積もる景色のように互いの不満の積み重ねだから」
銀の君は微笑むのですが、汚れを落とすために添えていた手が震えているようにドギンは感じました。
銀の君は沈んだ声でこう言いました。
「争いは二つが正義と信ずる心で起こすのです。私は愛する人々がこのような驕りと憎しみで愚行を犯す事に心が苦しいのです」
ドギンは何と言えばいいのか、言葉を迷っているうちに感情が先走りそのまま口にしてしまいます。
「どうか、闇人が生まれた家族を助けることは出来ないのでしょうか?」
その言葉に困ったような笑顔を浮かべ銀の君はドギンに答えました。
「私もその家族を助けたいと考えています。しかし、無理に彼らを庇えばより一層、憎しみの火は強くなり、返って彼らを憎しみの目に晒してしまいます。彼の大戦でエルを陥れた憎悪の魔神は笑うことでしょう。憎しみの根から断つ必要があるのですが、それも今すぐには難しいのです。となると彼らのことを考えると憎しみとは程遠い、闇人にも安らぎとなるオスタリアに住まう夜の帳大王の下で暮らすか、憎しみに晒されながらもここで暮らすか、悲しいことですが親と子、離れ離れになっていただく他ないのです」
ドギンは胸を締め付けられるような気持ちになりました。人の心を変えることは難しい、出来ることは少しづつ、考えを広めて、山も城も支える大地のように整える必要があり、今はその途中で、起きてしまう悲しみをなるべく安らげるようにする他ないのだとドギンは痛感するのでした。
「私のやろうとしている事は無謀でしょうか?」
ドギンはまた言葉にしてしまいますが、銀の君はドギンの頬に両手を添えました。
「私も成しえていません。不安になる気持ちも分かります。しかし、なさねばならないのです。それ以外に道はありません。共に歩みましょう」
力強い目にドギンは迷いながらも頷くのでした。
デーンの大きな声で我に返るのですが、それでも歩きながら想いを馳せるのです。
デーンの言う通りで確かに都合がいいから森の影に住まっているのかもしれませんが、ドギンには納得いかないのです。
なら、何故森人と闇人は光と闇に分けたのかということです。
単に闇があれば生きれるのであれば、光さえあれば、森人とて生きていけるはずなのです。しかし、実際はそうではなく森人は神秘が損なわれ、滅んでしまう運命に瀕しています。
どちらかが滅んでしまえばいいと思うほどの嫌悪が争いを起こしているのであれば、逆にどちらかが滅んでも片方は生き残れるとも考えられるので、この場にある暗雲にやや意識が引っ張られているようにも感じられますがデーンの言うことに一理あるように思えるのです。
しかし、アクマイヌからの妨害を裏で引いてる怪しき者が闇人だとは断言出来るほど強くは言えないのでした。
森人と闇人の在り方、そして彼らの明日について、アクマイヌの真相、水面の泡沫のように次々とドギンの中で疑問が浮かんでくるのでした。
左から枝を踏んだ乾いた音が聞こえました。きっと普段のドギンであれば咄嗟に振り向いていたでしょうが、ほんの少し先を歩いているデーンが見向きもせずに歩いていたので、踏みとどまることが出来ました。
デーンは森については疎いと卑下しますが、それでも優れた冒険家なのは間違いないのです。その彼が先程の音を聞き逃すはずがないので、様子を伺っているのだろうとドギンは思い、気づいていないフリをするのでした。
歩き続けるうちに、デーンはいつでも刀を抜くために腕を振る角度が心做しか刀の方に向かっていました。
短い木の隙間が覗き窓となってそこから漏れ出すように、粘り気のある視線をドギン達に向けていました。それも一つではなくもっと多くの視線でした。執拗に獲物を狙う目だけは感じられ、他は息を殺して、隙を伺い、絶好の機会を逃さないようにしていました。
ドギンがバレないように目をやって、耳を研ぎ澄ませて把握した数だけでも四匹も居ることが分かり、臭いからも間違いなく、あの恐ろしいアクマイヌな事が分かりました。
沈黙の間は柊の木で分け隔てられ、付け入る隙の探り合いが行われていました。
息をする余裕さえ失われたように感じられ、手は汗ばみ、震えそうになる足を何とか踏ん張る他なかったのでした。
森の手は更に重ね合って光を閉ざし、張り詰めた空気をより鋭利にさせ、ドギンの目に映る物をはっきりとさせ、木々とその枝葉の隙間からこちらを伺う獣が八匹も居ることを確信してしまいました。
ドギンは焦りで頭に変な熱を感じ、それを氷水で冷やすように鼻から静かに息を吸って、鼻腔を伝って冷たい空気を届けたのですが、焦りだけでなく、身体は悪寒を感じていたので、寧ろ気分を害しました。
道はどんどん深くなり、鬱蒼とした森は影が水の中に染み渡る墨のように手を少しづつ伸ばして、奥に行くほど色濃くしました。
平行線を辿る緊張感は一陣の風と共に終わりを告げました。
風が吹くと同時に一匹の獣がデーンに向かって舌を出してヨダレを巻き散らせながら飛びかかろうとしたのです。
ドギンが何かを発する前にデーンはすかさず脇に避けたのですが、それを好機と思ったもう一匹がデーンにその短剣よりも鋭い牙を覗かせ、飛びかかりました。
デーンはすぐさま抜刀し、虚をつこうとした獣に何とか一太刀浴びせ、目を傷つけた事で何を逃れました。
斬りつけられた獣はその鳥の鳴き声のようなおぞましく不快な甲高い咆哮を発しながら、その場でのたうち回って、興奮したように暴れ狂うのでした。
こうして姿を現した獣の正体はやはり忌まわしきアクマイヌ共でした。
毛が一切生えていない禿げあがった狼のようなこの獣は、狼よりも大きく、虎のような巨大な身体を持ちますが、畏怖や迫力とは違って病的な見た目をしています。弾力があり、皮膚は垂れ下がっていて、全体的に蒼白な見た目をしていました。それに唇の無い顔はそのおぞましい不浄の口を曝け出し、鋭く反り返った牙とだらしなく開かれた口から舌を力なく垂らして、ヨダレを止める術を知らないようで、目も血走って気狂いの面をしていました。腐臭と獣臭とが混ざりあった酷く不快な独特の臭いは彼らに狙われた物の末路を想像させ、不気味で残忍な捕食者の象徴はその狂った目をこちらに向けていました。
ドギンは急いで短剣を抜き、身構えるのですが、既に三匹がドギンの後ろから姿勢を低くして忍び寄っていました。
それを見たデーンはドギンを持ち上げるように腕を強く引っ張り、ドギンを宙吊りにしてその場から急いで離れるのでした。
それを見てアクマイヌ達はすぐに後を追いました。
デーンは道を見失うことを恐れず、道の外れに出ると、木の根の起伏や、木々の隙間をその図体からは想像もできない身軽さで通り抜けて、まるで軽業師のように森の中を走り抜けました。
アクマイヌ共も恐るべき嗅覚と獣特有の脚の速さで後を追い、追っ手を巻くために複雑で入り組んだ場所を選んで逃げるデーンに対して邪魔な木の根を齧り、或いは体当たりで粉砕し、執拗にドギン達を狙うのでした。
ドギン達の後ろから森の悲鳴が聞こえます。
「このままでは追いつかれてしまいますよ!」
デーンは何も言わず、無我夢中の様子でした。ドギンは改めてその目と耳を使って、この場を何とかするきっかけを探しました。苔や草木が地面と木々を覆い、木々は空を覆う、その木々の指は怒りと怯えで震え、森中が悲鳴をあげるように枝葉が揺れる音や地に巡らされた根が毟られる音が響き渡っていました。揺れる大樹の隙間から光が揺れ動くのを見てドギンはデーンに呼びかけます。
「デーンさん、上です!木を登って上へと逃れましょう!」
そう言うとデーンは何も言わなかったのですが掴んでいた腕を振りかぶって、ドギンを宙へと放り投げました。
ドギンは宙に浮いてすぐ近くの大木の太い幹に捕まるとそのまま枝や樹洞を伝って上へと上へと軽々と登っていき、ある程度の高さまで来ると先程までいた方を見下ろします。
デーンも登り始めて居たようでしたが、まだ十分な高さにはありませんでした。
そして、先程通ってきた場所が騒がしくなり、森を破壊しながら追ってくる蒼白の群れの姿が目に入りました。
「デーンさん急いで!」
デーンも気づいたようでより早く登っているのですが、デーンの登る木は樹皮に苔が多く付き纏い、時々足を滑らせ上手く登れないようでした。
アクマイヌ達はすぐそこまで迫っていました。
「早く!」
デーンは短刀を太い幹に突き刺して腕の力のみで登り、アクマイヌ共が木を這い上がり、デーンの足に噛み付く寸での所で難を逃れました。
アクマイヌはそれでも諦めず、大木にその大きな体をぶつけて揺さぶるのでした。
二人は息をする暇もなく必死に幹にしがみつきました。
ドギンは必死にしがみつきながら上を見上げると光が漏れ出しているように感じたので、しがみつきながらも上を目指しました。
指先の鬱蒼とした葉で視界は埋め尽くされ、掻き分け、擦れる音を騒がしく立て、上へ上へと登っていきます。そして、最後の一掻きでこれ以上にない輝きを一身に受け、あまりの眩しさに目を閉じ、手で遮る素振りをしましたが、少しづつ目を薄く開くと暖かい光が先に入り、そこから日の光と境目がないような茜色の空が目に入り、そして一面に続く森の枝葉がこがね色に彩られ、まるで海の上にぽつりと浮かんでいるような雄大な景色が目に映りました。
ヘルロスの光は陰りつつありましたが、久しぶりにその御光を一身に浴び、ドギンはどこか寂しさを覚えていた心身が満たされ、安心したような気分になりました。
そして、どこから来た涼しい風が吹くと枝葉の間から色鮮やかな蝶々が一斉に飛び立ち風と共に運ばれていくようでした。
「やっと、外に出れた」
ドギンがつぶやき、目を凝らしてみると何と森の端が見えるではありませんか。
嬉しさのあまりに大きな声で感嘆の叫びを上げてから言いました。
「やりましたよデーンさん!あともう少しです。道は見失っていませんよ、この方角を歩き続けたら抜ければますよ。あともう少しで森を抜けれますよ!」
声が自然と喜びで気迫を取り戻し、勇気と希望を与えました。
しかし、デーンからの返事は聞こえません。
「デーンさん、きいてますか!」
下に向かって呼びかけましたが返事は返ってきませんでした。
そういえば先程の喧騒もなくなり、嫌に静まり返っていました。
怪しく思ったドギンは再び枝葉を掻き分けて下へと潜ってみました。
するとどういうことでしょう。アクマイヌ共はどこかに逃げ去った様子ですが、その代わり、別の何かにデーンは囲い込まれ、捕縛されているではありませんか。
呼びかけようとしたドギンは必死に口を抑えて様子を伺いました。
目を凝らすとデーンを捕まえたのは闇人でした。ルーボーン族。変異闇人と蔑まれ、その中でも攻撃的で過激な思想を持つ民族でした。青痣のような肌色に銀色の髪は紛れもなくこの民族でした。それにその数は十人なんてものではありませんでした。三百を超えてから数えるのをやめるくらいには大勢で、全員が軽武装の散兵のようでした。彼らは捕縛したデーンを無理やり引っ張り、どこかに連行していくのでした。
ドギンはその様子をただ黙っている訳にも行かないと思い、木々の枝を渡ってその大勢の後を追うのでした。
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