第5話 エンギレン② ドギンと闇
暗闇はどんどんその色を濃く染み渡り、纏わり付くような湿った空気と、水気を含んで柔らかくなった土が踏む度に泥が飛び散る道は不安と不愉快な気分にさせ、松明も心做しか弱まっているようにも感じられました。
しかし、先頭を歩くデーンは歩く速さは変えず、時々足を止めて周りを見渡しては再び歩き始めを繰り返し、慎重に進みました。
忌々しい吸血鬼の噂がある以上、急いで森を抜けなければなりませんが、闇人の存在にも気をつけなくてはならず、道を見失うと森から抜け出すことは不可能でした。
そのため、慎重に歩く必要があったのですが、仮に休まず歩いたとしても日が昇って沈むのを十回繰り返さなければなりません。
小鬼のドギンだけであればそれも可能でしょう。しかし、デーンは只人で、体に力がある方ではありますが、無理に歩き続けれるほどでは無いでしょう。そうなると十日よりもずっと長い時間をこの森で過ごす必要がありました。
暗闇は終わりが見えない、むしろずっと深くへ潜り込むように続き、ドギンはその闇の中で憩いの谷に住まう銀の君やヒンデンブルクのアスラン王、そして村の森人達の顔が頭に浮かびました。
村の子供達には心配かけてしまったな、アスラン王は元気に為さられているだろうか、師は、今も私の事を待っているだろうな、そう考えているうちに段々寂しい気持ちになって、銀の君に会いたいという気持ちが強くなり、彼らの顔が浮かぶ度に不安や焦りも浮かんでくるのでした。
どれくらいの猶予が残されているのか、森を抜け出したとて、この先似たような出来事に巻き込まれるのならより時間を無駄にしてすべて終わりを告げていたら自分はどうなってしまうのか、答えのない焦燥が花の周りを飛ぶ蜂のように回り、いつしか勇み足になって、デーンの事を追い抜いてしまい、大きな声で呼び止められるまで気づかなかったのでした。
いけないと思い、気を落ち着けようとするのですが、森のどこまでも続く暗闇がドギンの気持ちに掴みかかって引きずり込んでしまうのです。
その様子をずっと見ていたデーンは、腰掛けるのに丁度いい岩を見つけると座り込み、ドギンにもそうするように伝えました。
目と口元が道の先に引っ張られたような渋々とした様子でデーンの方へと戻り、一緒に岩に腰かけました。
「いやぁ、船なら例え嵐だろうと地図と羅針盤さえあれば後は己を信じれば道は自ずとわかってくるんだが、森はそうはいかねぇな」
そうですねと言葉が宙に浮いて消えました。
「こんだけ、
その言葉を聞いた途端、ドギンの中でどす黒い嫌な熱が胸と腹の間にフツフツと温まるような気がしました。
そして先程の不安や焦燥が熱に油を注ぎ、ドロドロと熱は胸の中を溶かすような感じをドギンは覚えたのでした。
熱を冷まそうとするように少し息を吸って言葉を飲み込み、体に冷たい空気が入ったことを確認してからそうっと息を吐きました。
一切の風も吹かず、水の精たちもこの暗闇の森に留まろうとしているかのようにジメッとした空気が漂い、焚き火を起こすのが難しいように思え、何一つも流れを感じさせる物はここにはなく、静止した世界がそこにあるだけでした。
しばらく沈黙の時間を過ごし、隣から大きないびきが聞こえて、デーンが座ったまま腕を組んで寝ていることに気づきました。
ドギンも本当は眠りに落ちて、夢の中を漂っていたいと心底思っていたのですが、一度眠っていたとしても嘲笑うかのように悪夢が襲ってくるような気がしたのです。
暗闇だけでなくその暗闇が囁きかけてくる悪夢に苛まれ、目が覚めたとて暗闇が続くだけ、夢だけでなく覚醒した世界ですら暗闇が語りかけてくるような気もするのです。
何を恐れているのかドギンは自分に問いかけました。答えはすぐに分かります。暗闇がこれまでの洞穴で過ごしてきた日々を思い出させてしまうからでした。その身に流れる血が暗闇の中からじっと顔を覗かせ、洞穴の同胞が吸っていた煙管から漂う煙の匂いを嗅いだ時のような浮遊感がドギンを消してしまいそうになるのでした。
ドギンはそれを恐れていたのです。もしそうなった時に隣人はどんな目で自分を見るのか、小鬼や森人の未来はどうなってしまうのか、銀の君が生きられるのかどうか、容易に想像できたのです。
そして現状と心境の狭間で暗闇が靄となって覆い、心を蝕んでいる事に気づいた事で、更に暗闇を恐れるようになっていたのでした。
早く夜が明けろ、夜が明けろ!
そうやって、心の中で森羅万象全てに祈りを捧げるのですが、時を感じさせない速さでゆっくりと流れ、ミーナールとアマルカルナは季節の変わり目で、気まぐれに機織りをするのでした。
あれから五日経ち、途中で二件ほど村に立ち寄り、幾度も夜を越えたのですが、道はむしろ遠退いているように感じ、先の見えない旅を続けていました。
道中で変わったことがなかったかと言われればそうではなかったのですが、あまり良いことではなかったのです。というのも森人の道が途中で荒らされていたのです。
柊の木がぐしゃぐしゃに折られ、暴れ狂った痕があったのです。よく観察してみると大きな鉤爪や牙で荒らされていたようで、季節を考えれば熊の仕業ではないかと思ったのですが、爪の跡と足跡を見るにあの獰猛なアクマイヌの群れが意図的に荒らしたのだと分かったのでした。
何のためにかは分かりませんでしたが、ドギンの不安が自身で分かるほどに大きくなってきているのがわかりました。
もしや光の宝玉が目的な事が知られていて、よからぬ事を企む輩がそれを妨害しようとしているのではないかと妄想するようになったのです。
こう思うのは無理もないことです。アクマイヌは普段は一匹で行動して、獲物を探すのですが、何かしらの企みによって、悪に与する者と同盟を結んで、集団で行動することがあるのです。
小鬼が軍団を作って町を襲う際にはアクマイヌと同盟を結んで騎乗することもあったのでドギンはアクマイヌに関して人一倍よく知っていました。
誰がなんの企みでこんな事をしたかは分かりませんが、森人の道を荒らすということは森人やそれの類が絡んだ事に対して邪悪を持って行っていることは明白であり、ここ最近の森人にとって重要な出来事と言えば吸血鬼の事か光の宝玉のどちらかしかなく、重要で言えば後者でした。
そして六日目の夜が訪れたのでした。火の番を交代でする取り決めだったのですが、どうせ眠りに就けないのだからと、デーンを起こすようなことはせず、代わりにずっと自分がその役割を担うのでした。
ろくに眠れず、身体が少し間を置いてから動くような感覚と頭は一度白紙を挟んでから考え始めるような感覚があり、心身は共に限界に達していました。
そしてついには現実でも暗闇が囁きかけるではないですか。
おまえは、ごぶりんだ。
ちとこころにしたがえ。
「うるさい!」
噛み締めるような声でドギンは抵抗するのですが、声は豹や虎を思わすような低い唸り声のような嘲笑をし、一頻りに笑った後にドギンの言葉を退けてまた囁きました。
おまえは、みにくいごぶりんだ。
みにくいしゅくめいにあるのだ。
「違う、私はそうはならない!」
なるともさ、なら、なぜそのみにくいからだをかくすのだ。
「それは...」
言葉に詰まってしまいました。いつものドギンであればこのような詭弁はすぐに否定していたでしょう。しかし心身を蝕む闇に抗うことは到底難しく、どこかその言葉に頭に重力を感じるのでした。
なぜ、きづかうとものことばに、
まがさすのか?
それはおまえがこころもからだもみにくいごぶりんだからだ。
ドギンはついに言葉を失ってしまい、暗闇に耳を傾けるのでした。
おまえは、えるふとともにして
めをとざした。いや、そむけたのだ。
しかし、きさまがごぶりんであることにはかわりあるまい。
めをあけてみるのだ。きさまのありのままのすがたをみるのだ!さぁ!
「しっかりしろ!」
いつの間にか起きてきたデーンがドギンの小さな肩を揺らしました。
デーンはいつも起こそうとしないドギンに気づいて、今日は自分から起きてきたのでした。
しかし、デーンの言葉には気にも止めず、その間も暗闇が話しかけてきたのでした。
「いいから、お前は早く眠れ。そうしねぇと大変なことになるぞ!」
デーンの言葉には怒気を含んだ焦りが声から伝わってきましたが、ドギンはそれを拒みました。
「嫌だ、嫌だ、怖い、寝ても、覚めても、暗いのはもう嫌だ。ほっといてくれ」
デーンはすぐに落ち着けるように水を鍋で沸かし、白湯を飲むように勧めたのですが、ドギンの心は萎み、何も受け付けなかったのでした。
デーンの焦りは強さを増し、手に嫌な汗と手が痺れ、小さく震えてきました。
焚き火を囲う混乱の中に何者かが落ちた枝を踏んで折れる音を立てながら近づいてきました。
デーンはすぐに気が付き、腰巻きに挟んだ短刀をすぐに抜いて、音の方へとその鋭利な切っ先を向けるのでした。徐々に焚き火の明かりで靴から足、体を覆う黒い外套、その頭巾に影が取り払われました。
くっきりとした褐色肌と容姿端麗な鋭い目をし、大胆不敵な笑みを浮かべる男は頭巾を上げ、よく晴れた日の海の水面の光が漏れ入れるように綺麗な銀の長い髪がさっと広がって背中に流れ、その特徴的な長い耳が姿を現すのでした。
「闇人か!くっそ、こんな時に!」
デーンの眉は逆立ち、殺意とこれまでにない焦燥で顔を歪めるのでした。
しかし、闇人の男は表情一つ変えず、ここまで来る時とは違ってゆったりと優雅でまるで舞踏会で踊るような気品と歴戦の勇者を思わす大胆な足並みで近づくのでした。
デーンの腕は弓の弦のように張り、短剣を男により力強く向けるのでしたが、虚ろな目をしたドギンが精一杯の意識と力を出してデーンの丸太のように太い腕を掴んで止めるのでした。
「待ってください。彼はアンスラーン族の闇人です。敵じゃありません」
「何?」
それを聞いたアンスラーン族の男は感心するように眉を吊り上げて、その後に拍手を送りました。
「素晴らしい!君はなんと聡明なんだ。
如何にも私はアンスラーン族だ。他の人間には闇人なんぞ同じに見えるであろうに、そのような状態であってなお敵かどうかを見定められるとはなんと冷静なことか!」
濁りのない爽やかな笑い声が響きました。
そして男はドギンをじっとみました。
そしてまた驚嘆で眉を吊り上げ、大袈裟な身振り手振りで話しかけてきました。
「ほう、毛むくじゃらくんは闇に侵されているのだな?」
ドギンに返事をする気力はもうほとんど尽きていたので代わりにデーンが答えました。
「闇に侵されている?あんた、これがなにか分かるのか?こいつを救えるのか!」
「まぁ、待ちたまえよ筋肉ダルマくん。我が同胞達はこのような症状を患う事がよくあるのでそう思っただけで、一緒かどうかは余が確かめねば分からんことよ」
そう言って男はドギンに近づき、手をしっかりと握り、額と額を合わせるのでした。
そして、呻き声に近い不気味な声で囁き始め、そして段々と盛り上がり、最後に力強く言い放ちました。
「開け、開け、余は汝の友なり、余は汝の宝物の管理者なりて、心を交し、鍵を開け放つ者なり。その心を信ずる余に預け、託し、その一切を扉を開け放て。心の部屋を映しみせよ!」
男の目と口から紅玉の雫が滴り落ち、そして額を離し、次に手を離し、立ち上がると、二人に背を向け、鮮血が口から吹き出すのでした。
地に膝をついて喘ぎ、吹き出した血が血溜まりになり、男は血溜まりを覗きました。
デーンは初めて心身が怯えて言葉を失う感覚を覚えました。そして、振り絞る声で話します。
「心解きの呪文か」
男は真剣な眼差しで血溜まりを見つめながら答えました。
「あぁ、余は闇人なのでな、こういった禁忌を犯す事にはなんの抵抗もない。むしろそれで何か良い方向へと転ぶのであれば使うべきだとも思うな」
デーンは息を整えて、ドギンの背中を摩りました。
「しかし、なぜ素性も知れない我々に手を貸す?貴殿には何の意味が?」
男は振り向きもせずに答えました。
「助けを乞われたから、それだけだ」
そして、しばらく純血した目を瞬きもせずに血溜まりを見つめ、少し時間が経つと、立ち上がりドギンの方へと近寄りました。
「毛むくじゃらくん、やはり君は闇に侵されている。そして原因もわかった」
デーンとドギンは男を見つめました。
真剣な声で男は話します。
「君は闇を恐れている。しかし、それは闇を知らないからだ」
ドギンはそれを聞いて、ふと銀の君との問答が脳裏を過ります。
「どうすれば、光さえ隠してしまう闇を抗えばいいのでしょう?」
男は悪戯な笑みを浮かべました。
「闇を見つめるのだ」
そういうと、再び男は奇妙な囁きで呪文を唱えました。
「ミーナールとアマルカルナの加護を、右に母なるセルフォール、左に闇のタルサケスを、哀れな我が子らの床に団扇で扇ぎ、安らぎをもたらし、どうか彼に眠りを」
そうすると、ドギンは瞼が重く感じ、意識はどんどん底の方へと落ちていくのでした。
「睡眠の呪文か、しかし、それでどうにかなるのか?」
デーンの腕の中で眠るドギンを男は満足気に見つめると、立ち上がって羊皮紙を取り出し、何か書き込んだかと思うとデーンに渡しました。
「毛むくじゃらくんなら大丈夫だ。後は彼自身の力でどうにかするさ。それと、何かあった時はそこに書かれた歌詞を歌うんだ。この森の中であればいつでもすぐに助けに行くさ」
そして、膝についた土を払って最後に一言残して後を去りました。
「この先は闇人の村や国がある。気をつけるんだ」
さて、夢の中のドギンはと言うと闇に包まれていました。しかし、これまでとは違ってただ静寂で、雨の日の休日を思わすようなのんびりとした静けさを感じ、体は羽が生えたかのように軽やかで海の上を漂うかのような浮遊感を覚えるのでした。何も見えないし、何も聞こえない。しかし、これまでと違って嫌な感じではなく、どこか安心のため息が漏れ出るような落ち着きと安息を感じずにはいられませんでした。
暗闇をじっと見つめていても、何も見えません。何も見えないということはそこに何か意味がある訳ではなくただ暗いだけでした。
そう、それだけだったのでした。
そう思うと急に気持ちが楽になったのでした。
するとあの不気味な声が囁いてきました。
めをそらすな。
おまえはみにくい。
ドギンはもうちっとも怖くなくなっていました。
「そうだな、僕は醜い。どこまで行っても小鬼なんだろうな。それも僕なんだろうな、だけど、友や師や人間が好きなのも僕なんだ」
暗闇の声は沈黙してしまいました。
ドギンはそれでも続けました。
「僕はみにくい自分とそうじゃない理想の自分がいる。それを知ってるからみにくい自分を隠して、嫌われないようにしてる。それって現実を放棄しているように感じるけど、それは他人を通すから変なことになるんだ。僕は僕が好きな僕でいるために隠してるんだと思うと気が楽になった」
言葉にする度、ドギンの頭の中で散らばったパズルが揃っていくような感覚を覚えていき、自信に繋がりました。
「そうやって自分の好きな自分に近づくためには自分の嫌な部分を知って、嫌な自分を消してしまえばいいんだ。直ぐにとは行かないから最初は隠す必要があるし、難しい事だけど、そうやって闇と向き合って、闇を上手く付き合っていけば、闇を恐れる必要も無い。ほら、今みたいに眠りがもたらす闇は僕に安らぎを与えているじゃないか」
話しているうちに、夢の中なのに眠気がドギンを誘う感覚に襲われ、大きな欠伸をかくのでした。
「もう話し疲れた。僕の眠りの邪魔はしないでくれ。僕にとってもう暗闇は怖くない」
そう言うとスーッと寝息をかいて眠ってしまいました。
声の主はその寝顔を見つめます。
あんまりにも気持ちよさそうに寝ていたので、そっと静かに抱き抱えて、寝台に寝かしました。
そして、声の主の隣に我が子を見つめうっとりとした表情をする地母のセルフォール神の姿がありました。
「貴方は本当は優しいのに、私の子供たちにいじわるしちゃダメじゃない」
声の主、豹の頭を持つ闇のタルサケスは答えました。
「安らぎも堕落も闇だ。この者だけでなく平等にそれは訪れる。あの阿呆な上級王が余計なことをせねば堕落の宿命にあったものを」
セルフォールさまはドギンの頭を優しく撫でながら、タルサケスさまを諭すのでした。
「確かに闇人の上級王は宿命を捻じ曲げてしまいましたが、あの者はこれまで宿命に背く事はしませんでした。それに、宿命を変えたことでむしろ良い方向へと変わったかもしれません。一度や二度の過ちなんて見逃してもいいじゃありませんか」
タルサケスさまは黙り込みました。
「大神さまは少なくとも人間たちを(一際只人は特に)そうお作りになられたのですから」
陽だまりの静寂はいつかは終わりを告げてしまい、ドギンが目を覚ました時にはこの光景はなく、きっとヘルロスさまが朝日をエルに与えることでしょう。しかし、その時には生まれてきた時のように生命の力を感じ、活力に溢れんこととなるでしょう。
その時までドギンは夢の底で安寧の暗闇に身を任せ、揺りかごに揺られるのでした。
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