第2話 夕沈み海
夕沈み海は水平線に少し色が付き始め、空に浮かぶ満月は少しその光に陰りを見せ、この島へ向かう時とは一転して穏やかな表情を浮かべていました。
その一時の平穏を保つ海の港に二つの影ありました。
1人は高貴なる銀の君。美しい貴婦人は白のドレスとその美しい髪を潮風に靡かせ、我が子を見守るような慈愛に満ちた表情をしています。
「いいですね?ドギン、私はこれまで貴方に必要なことは沢山教えました。必ず戻ってくるのですよ」
そしてもう1人は小鬼のドギン。綺麗な茶色の毛を蓄えた毛むくじゃらにそれさえ隠せないほどの長い耳、山人と見間違うほどの樽ような体をしています。ドギンは十分な旅の準備をし、揺るがない決意の目をしていました。
「はい、銀の君。必ずや戻って参ります」
「貴方にはミスリルの鎖帷子を授けます。この神秘の力に溢れた不思議な金属を
薄青の鎖帷子を渡し、その後、銀の君は優しくドギンの耳を触りました。
「貴方の立派な長い耳、遠くを見通せる目は必ず役に立つ事でしょう。よく耳を澄まし、目を凝らすのです」
「貴女が下さったこの封書は?」
「本当に困難な時に力を発揮します。最後まで取っておきなさい」
そういうと銀の君は今度は不安そうな顔をしました。
「本当に朝から出発するのですか」
「ええ、そうですとも」
「この海が最も落ち着いてるのは日が沈み暗くなってからです。それに最も荒れているのは日が真ん中に来る頃ですよ」
より一層不安を募らせる銀の君ですが、ドギンは何のその、といった態度でこう言いました。
「ええ、そうですとも。しかし、気にする必要は無いですよ。少なくとも、あのすべての森人の女王陛下の弟子なのですから、貴女の加護があります。恐れるより一刻も早くの対処をせねば。それに船はいつでも出る訳ではありませんしね」
そういうと水平線の向こうからなんとも立派な帆船がやって来ました。船首には大鷲の象が飾られ、帆はヒンデンブルクの国章が描かれ、船乗りたちはこちらに敬礼しながら、港に船を寄せました。
荷物の搬入や荷降ろしで森人の船乗りたちが行き交う中、1人の大柄な只人がドギン達に近づいてきました。
「奥方よ、久しぶりですな」
軽快な口調でいかにも海の男といった風貌の船乗りは豪気な笑い声を上げながら流暢なエルフ語で話しかけてきました。
「お久しぶりです。デーン卿」
デーンと呼ばれる男は銀の君の前まで来ると膝をつきました。
膝をついていようとその大きさは余り変わらないように見えるデーンは、銀の君の彗星のように白く綺麗な長い指を持つ手の甲に接物し、忠誠の礼をした後、立ち上がりました。
そして、ドギンの方を見た後、小鬼と森人という組み合わせのおかしさに興味深そうな顔をし、銀の君に尋ねました。
「こいつが、アンタの使者とかいう奴かい。なんともまぁ、ちっぽけな奴じゃねぇか、他の奴らは私腹を肥やすのに忙しいってか?」
他の奴とは恐らく上位森人のことでしょう。ドギンは頼りないと思われたのだと思い少しバツの悪そうな顔をします。
「デーン卿、我が森人達を繋げる立派な航海士よ、それは違うわ。ドギンはとても利口で現状、最も信頼のおける者です」
「そうかい。アンタがそこまで言うならこの小太りの
「ええ、そうですとも」
デーンはドギンの顔をじっと、見透かすように見つめます。
傷跡が残り鋭い目付きをしていますが、その目には邪悪さはなく、自直さを感じさせました。
デーンはしばらくするとドギンの方へ身体を向け、膝をついて話しかけた。
「銀の君の使者殿、この航海は、我が海の民と大海原の主、ウルパルノスの名にかけてお前をヒンデンブルクまで快適な旅にしてやる」
そういうとデーンは背を向けて船乗りたちの元へと戻っていきました。銀の君はドギンに優しくこう言いました。
「気を悪くしないでくださいね。彼は粗野ですがあなたを案じてらっしゃるのだと思いますよ」
「大丈夫ですよ、銀の君。何となく分かります。それに貴女のことも心配しているようでしたし、海の民は乱暴者も多いが同じくらい義理堅い者も多いと聞きます。私は彼が後者だと思ってますよ」
そういうとドギンは自分の荷物を背負い、デーンがしたように忠誠の礼を行い、一礼したあとに船へと乗り込みました。
その背中を見送る銀の君は優しい微笑みを浮かべていましたが、少し目の端に涙を溜めていました。
船は出航し、ドギンは暫く戻らない思い出の地の方へ振り返りました。
空と海の間に光が差し、夜の境界線は見えなくなり、月は既に霞んでいました。
神秘の島は徐々にその姿を透かし、消えて見えなくなりました。
それを見届けたドギンは振り返ることを辞めました。いよいよドギンの旅が幕を開けたのでした。
ドギンは森人の船乗りに訝しげな視線を向けられましたが、丁重にもてなされ、部屋まで案内されました。
「こちらになります」と案内された部屋は簡素で、窓と机と寝床はハンモックに毛布が敷かれただけの小さな部屋でしたが小鬼にとって充分豪華なものでした。
ドギンはこの憩いの谷に来た時の船で寝床としていたのは馬小屋でした。馬の糞尿やそれに集るウジやハエどもが飛び回る不浄の部屋に比べると遥かに清潔で快適でした。
「案内してくれてありがとうございます」
お礼にチップを渡そうと思ったのですが、足早に仕事に戻ってしまった為、渡すことが出来ませんでした。
仕方がありません。ドギンは今回のことで森人の間では銀の君の使いとして扱うよう知らされてますが、小鬼というのは邪な種族な故に、皆が必死に無い影を追っているのでした。
ドギンはいつものことに慣れていましたので、そのまま部屋に荷物を置き、机に家から持ってきた魔術についての本を取り出し、広げました。
ドギンが銀の君の元で習っていたことは主に魔術についてのことがほとんどでしたが、そのほとんどが座学ばかりで、その度、銀の君はいつもドギンの耳と目について言及しました。
良く耳を澄まし、目を凝らす、遠くばかりではなくもっと近くも、何度もそう教えられてきましたが、なかなか理解が出来ず、また、銀の君からは安易に魔術を使うことを禁じられていました。
魔術は万能の神秘な力です。それこそ人の為にも脅威にもなる力です。
それを小鬼が使えてしまうのは都合が悪い者も操ろうと企む者も生んでしまうから人前で使うことを禁じられているのです。
また、魔術は力ある言葉です。言葉には責任を伴うのです。無闇矢鱈に使うものでは無いのです。
しかし、使わなければ上達するものも上達しないのではないかとドギンは思う訳です。というのも魔術の基本はマナと呼ばれるエル中に溢れる元素を力のある言葉で従わせる行為を指します。
言葉は使い続けることによって強度を増し、より強力な神秘へと昇華されるのです。銀の君のドギンを思う気持ちはよく理解するところではあるのですが、ろくに魔術のひとつも使わせてもらえないのでは成長しないのではないかという焦りがその優しさとドギンを板挟みにしてしまうのです。
それに魔術は四元素という概念に当てはめて用いることが一般的で、その適正を見つけることは重要な意味を持ちました。
火、風、土、水という4つの霊的領域(四元素)を神々に従う精霊(目に見えないが召喚術という魔術で視認することが可能な霊的存在)達によって運行されており、それが元素という形でエルの自然に影響していると考えられていました。
要するに霊的領域とドギン達の住む領域は分け隔てられたものとして、元素というものを通して影響していると考えられているのです。
マナをこの元素に反応させる事で神秘の力を具体的に用いるのですが、魔術を用いらないとその適性を見出すことは困難だとされていました。
これでは何が使えるのかすら分からなかったのです。それでも勉学を怠ることはしないようにはしたかったドギンは、今もこうして本を開いては勤勉に学んでいたのでした。
船が出て部屋で勉学に励み始めてしばらくの時間が経ちましたが、外の景色はその間、雨が降ったり晴れたりを繰り返し、すぐにその姿を変えましたが、波が荒れたりするようなことはありませんでした。
これも航海士のデーンや森人の船乗りたちのお陰だったのでしょう。
海の民は優秀な船乗りたちの民族であり、彼らはどんな過酷な海だろうと乗り越えてしまうと言われていました。
デーンにもその血は流れており、船乗りの勘が安全な航路を導き出しているのでしょう。
また、森人には精霊の声を聞くことが出来ると言われ、それがより安全な航路にしていたのでしょう。そんなことを思っていると扉を叩く音が部屋に響きました。
「今、大丈夫か」
この喉太い声はデーンでした。
ドギンが部屋に招き入れると雨でぐっしょり濡れたコートを掛け、ドギンの方へ向き直りました。
「どうかしたのですか」
「今は海が落ち着いているから、今のうちに今回の航海について少し説明しようと思ってな。そこの机を使っていいか」
「ええ、かまいません」
そういうとドギンは机に散らかっていた本や紙を仕舞うとデーンは地図を広げました。そこには夕沈み海とその周辺の地形が正確に書かれた使い古された地図でした。
「今俺たちは夕沈み海の北北西に船を進めている」
「北北西ですか、最短距離はこのまま西に進めることですが」
「俺達もそうしたかったんだが、西に進めるってことはこの夕沈み海の真ん中を突っきっちまうんだ。この海の真ん中は一番気性が荒い。俺たち海の民ですら乗り越えるのは難しい」そうなってしまうと最悪、海の藻屑となってしまう可能性があるのでしょう。それなら北北西から迂回することで危険を減らすという目的があったようでした。
「それでも嵐を避け切れる訳じゃない。俺だけじゃなく、森人の二等航海士もいる。万全の体制でこの航海には挑んでいるつもりだ。だがな、針に糸を通すような航海をしているのには変わりは無い」
「分かりました。私もなるべく用心するように致します」そういうとデーンは歯を出してにっと笑みを浮かべました。
「物分りが良い奴は好きだ。奥方の言う通りだったみたいだ」
そう話すとドギンは疑問に思うのでした。
「そういえば貴方は我が師と親しいようでしたが、どういったご関係なのでしょう」そういうとデーンはそんなことを言われるとは思ってもみなかったようで一瞬目を丸くしました。その後、抑えきれず大きく笑い声を上げました。ドギンがどうしたものかと慌てて困惑しているとデーンは話し始めました。
「何でもねぇよ。普段は夜に船を出さねぇといけねぇが、今回みたいにそういう訳にも行かない急ぎの事ってあるだろ?そういう船旅には俺が着いていくんだが、その度に奥方には良くしてもらってるからさ」そういうとデーンはハンモックに腰掛け続けてこう言いました。
「ただの仕事の付き合いでしかねぇが、ありゃ、上物だな。森人といえば、自分たちが森人ってだけでお高くとまりやがるが、奥方は誰にでも労いや感謝を忘れない。お前さんの師匠ってのはいい人だな、と思ってからは会話を交わすくらいの付き合いになっただけさ」そう言われるとドギンはまるで自分のことのように感じて脇腹あたりがくすぐったい気持ちになり、そして、デーンという人物のドギンを特別扱いしない人だと分かると少し心が晴れるような気分になりました。
「はい、師匠は私に色んなことを教えてくださる尊敬できる人だと思います」
「そうかい。そりゃいい師匠だな」
ドギンは思い出したように口を開きました。
「そういえば、デーン卿。貴方はエルフ語を淀むことなく話せますが、只人の言葉だと何語を話されるのでしょうか、やはり海の民ですからジパルド語でしょうか」ドギンはまるで素晴らしい者を見るように目を輝かせて訊ねてくるものですから、デーンも少し気分を良くしたみたいで胸を張りながら「パラメア語だ」と満面の笑みで答えました。パラメア語とはエンギレンの西、エルの中央からやや西、只人の大帝国ルーズフィンから見て中東に位置するパラメシア地方に住む砂漠の民と呼ばれる只人達の使う言語でした。パラメシアの砂漠には西と東を繋ぐ交易の大国パルシェが存在し、パルシェの公用語としても知られていました。
「海の民といえば、極東のジパルドを想像するがな。それは、視野が狭い!そして、この海は広い!他の只人の民が様々な言葉を話すように、海が違えば海の民も違う言葉を話すってもんさ」そこまでを誇らしげに語るデーンの言葉を1字1句丁寧にドギンは書き記しました。その様子を見たデーンはドギンに問いかけました。
「そういやぁ、お前、何故勉強をしているんだ」そう訊ねられると思っていたドギンはデーンに子供の頃の話を聞かせました。その間、デーンは一切詰ったり馬鹿にするようなことはなく、ただ、じっと耳を傾けていました。
「...と、言うわけです。それから学ぶ楽しさを知ったと同時に別のことも考えたわけです」そう話すとデーンは眉に皺を寄せて、ドギンが話し始めてからようやく口を開きました。
「別のこと?」
「はい、別のことです」
ドギンは少し黙ってから口を開きました。遠いところを見つめるように話しました。
「このままでは小鬼は滅んでしまう」
すかさずデーンは問いかけました。
「何故だ」
ドギンは一息間を空けた後に話し始めました。自分の考えを確認するように丁寧に話し始めました。
「憎しみの先にあるのは、人に危害を加えるだけの嫌われ者だからです。あなた達が町に迷い込む狼や熊、獅子に虎、魔物を殺すように」そういうとデーンは考え込むように黙り込み、しばらく熟考した後、口を開きました。
「それは、人を殺すからか?」
「いえ、違います。もちろん、一概にそうだとは言いません。小鬼にしろ獣にしろ街に入り込めば危害を加える存在です。なら何故、獣や魔物を絶滅に至るまで追い込まないのですか?」
「確かに、ならどうして小鬼だけは滅ぶんだ」ドギンは窓の景色を見ました。どうやらまた激しい雨が降ってきたようで、少し波が高くなっているようでした。
「立場ですよ」ドギンの顔は暗く、その表情に釣られるようにデーンの顔も沈みました。ドギンは続けてこう言いました。
「獣と人はお互いが違う存在だと理解しています。だから、お互いが適切な距離感を保って、その距離を違わないように生きています。村の周りには柵や壁があり、そこに入った動物は人に襲われるし、人が山に入れば動物に襲われるのです。人と獣が争いを起こすということはこの暗黙の了解が破られてしまった時なんです。しかし、小鬼には元々そういった概念がないのです。彼らは元来の気質として全てを憎み、全てを壊そうとします。好んで積極的に人を襲う連中には距離感だとか明確の立場の違いだとかの認識なんてなくて、そのような概念は無意味なんです。彼らは文明の破壊者なんです。そんなヤツらを人が放っておくなんて有り得ない。現に冒険者という流行りの影響で少しずつ小鬼が駆除対象になる事もあるのに、今大きな危機がない状況で国が駆除に乗り出すのは遠い未来の事じゃないんです」
「お前は小鬼の未来を考えているんだな」デーンの落ち着きの払った声に自身の言葉に熱が籠っていたことに気がついたドギンは己を恥じるように、落ち着きを取り戻すために1度深呼吸を入れました。
「はい、何かより良い道はないか、憎しみ以外に彼らに生きる道を与えるすべがないか、探究しているのです」そういうと納得したようにデーンは頷き、立ち上がりました。そして彼は一言残して部屋を後にしました。
「健闘を祈る」
デーンが部屋を出てからしばらくが経ちました。何度か嵐に遭遇し、部屋が時々揺れるのを感じ、廊下をドタドタと右往左往する船乗りたちの足音で騒がしかったのですが、その船乗りたちの頑張りにより危機を何度も脱することに成功していたので、何も気にすることなくドギンは勉強していました。
デーンの一言に勇気づけられたようで、いつもよりも勉強が捗り、普段よりもたくさんの紙の山と本の山を作り上げていました。
しかし、結局、肝心な銀の君の言っている意味に関しては分からずにいました。
「耳を澄まし、目を凝らす。遠くばかりを見ず、もっと近くも。かぁ...」
そう呟いた時でした。
部屋中に響き渡る窓を叩く音ともに部屋が大きく傾きました。それに伴ってドギンも椅子から転げ落ち、扉に背を強く打ち付けました。
何が起こったのかと思うと今度は反対側に大きく傾きました。また床を転がるドギンはその時に思い出したのです。憩いの谷を目指し、船の馬小屋に身を潜めていた時のことをです。
「嵐か!」
扉が勢いよく開かれました。そこにはデーンが扉の端に手をがっしり掴んで立っていました。
「おい
「私はまだ大丈夫です!」
そう呼びかけてもデーンの顔は未だに緩ませることなく、ドギンの安全を確認できると続けてこう言いました。
「しくじっちまった。強い嵐の中に突っ込んじまった。俺たちで何とかするから、お前は絶対に外に出るな!」
「デーン卿はどうなさるんですか!」
「俺は一等航海士だ。俺が甲板で指示しなきゃ、この嵐を抜けれねぇ」
「危険ですよ!」
「大丈夫だ。俺は海に生まれ、海に生きる男だ。何とか切り抜けて見せるさ」
そういうとドギンの制止を聞かず、外へ出て行ってしまいました。
ドギンはデーン達のことを信じ、ハンモックに掴まりながらこの嵐を抜けることを待ちましたが、どんなに待てど、待てど、一向に止む気配はありませんでした。むしろ、揺れは強さを増し、窓の景色は黒い波で殆ど何も見えなくなっていました。
もはや廊下の喧騒と部屋のランプだけが、唯一、ここがどこなのかを示すものと成り果てていました。その様子を見てドギンは胸がざわつくような感覚に陥り、嫌な予感を感じとっていました。デーンには止められていましたが、外の様子を確認しようと思い、部屋を飛び出し、甲板への扉を開けた瞬間、雪崩込むように海水が入り込んできました。危うく押し戻されそうになりましたが何とか堪え、外に出ました。
そこにあったのは視界を埋め尽くす今までに見た事のない高く黒い壁が低く重い叫びを上げながらこの帆船を飲み込むように押し寄せ、甲板に叩きつけては全てを奪うかのように引き寄せながら引いていき、それと呼応するように空は暗く、鋭く激しい雨が降り注ぎ、1寸先も見渡せないような闇がそこにはありました。そして、海は何度もこの黒い大波を絶え間なく激しく船に押し寄せました。辺りは雨が甲板に激しく打ち付ける音と恐怖の波の音、甲板で奮闘する男達の怒号や指示の声が耳の中を埋めつくし、中には波にさらわれる船乗りもいました。まさに阿鼻叫喚といった言葉が似合う状況でした。雨に激しく打たれながらデーンが率先して船乗りたちを勇気づけ回りながら細かく指示を出している姿が見えましたが状況が良くなる気配が見当たりません。
「くっそ、雨で何も見えねぇし、この嵐で船乗り共が怯えちまっていやがる。二等航海士、何かわからないか」デーンが近くにいた森人の航海士に訊ねると彼は首を横に振りました。
「ダメです。精霊の声が騒がしく何も分かりません。我々は航路を見失ってしまったのです」その声には絶望の色が込められており、それを見てデーンは顔色は変えないものの眉間にシワが寄り、歯ぎしりしているようでした。
「このままでは、この船は沈んでしまいます!」その森人の航海士の話を聞き、さらに混乱を極める状況となりました。その行動に焦りと恐怖が見られ完全にどん詰まりの状況です。一刻を争う状況だと理解したドギンは、なにか手立てはないかと考え始めました。優秀な船乗りであるデーンやその下にいる二等航海士達ですら上手く抜ける術を見つけれていません。
つまり、ドギンが航海術で彼らに優ることはほぼ不可能です。
では、魔術ならどうでしょうか。もしかしたらなんとかなる術があるかもしれません。しかし、ドギンは1度も魔術を使ったことがなく、また使うことを禁じられています。
そんなこんなしているうちに状況も変化していきます。もちろん悪い方向にです。混乱した船乗りたちが少しずつ波にさらわれ、帆も波に強く打たれ、嫌な音を上げ始めていました。このままではみんな海の藻屑となります。ドギンは焦る心を落ち着かせながら考え込みます。魔術でどうにかしなければいけない状況ですが、手立てがありません。考え込んでいるうちにあの言葉が頭を過りました。
耳を澄まし、目を凝らす。
ドギンは急いで耳を澄ませました。
遠くばかりを見ずもっと近くも。
轟く雷の音、船を呑まんとする波の音、飛び交う人の声、甲板を駆ける足音、ドギンの身体に打ち付ける雨の音、そして、ドギンの身体中に響く心音...よりいっそうドギンは耳をすませました。
その時、エル中にある音がまるでその音を聞くために小さくなるような感覚がドギンの耳を通して全身に走り回り、その音だけの時間がそこにはあったのです。
それはあまりにも膨大な群衆の声、鳴り止むことの無い無数の声に気が狂いそうでしたが、ドギンはより一層、耳を傾けました。全身に血の巡りを感じ、身体は嫌な熱を持ち、集中のあまり、鼻から血を滴らせてしまいました。
それでも、聞くことをやめませんでした。音は視界に映る押し寄せる荒波のように、重厚感のある騒音が耳に押し寄せてきました。段々、目がかすみもはやなんの音を聞いているのかすら分からなくなるほど意識が遠のく様な感覚に陥っていました。
その時、耳はある音を捉えました。
その音は生まれてきた中で初めて聴いた音でしたが、この世のどこにもない美しい音でした。最初はひとつの旋律しか聴こえませんでしたが、耳が慣れ、聞き分けることができるようになった時、それぞれが別の音を奏いましたが、合わさると美しい曲のように聴こえ、あまりの美しさに心を奪われました。
今度は目を凝らしました。波や人ではなくもっと身近なもの、今この瞬間に存在する空気感というものに目を向けました。雨や風、松明から弾けた火花、潮の香り、そうすると突然、辺り一面に存在するものが何か意味のある物のように写ったのでした。雲から雷光が照りつけることにも、打ち付ける雨の音にも、雨を伴った強風にも、甲板が濡れていることにも、松明から火花を散らす瞬間にも、風の向きにも、潮の流れにも、エルを覆い尽くす大気にも、悪いものを運ぶ気配にも、その全てに意味があって、因果性も相関性も今起きていることに関係している。
そう感じた瞬間、ありとあらゆるものが特徴を鮮烈に彩るように色を持つように見えました。松明がメラメラと燃えるのがより赤く見え、水分は青く見え、大気は緑と紫が強調するように彩りました。
ドギンは驚愕のあまりその場を動けずにいましたが、これが何なのか、そして、何が起きているのか、そして、銀の君が伝えたかったことが何なのか、この瞬間を持って全て解き明かしたのでした。
このエル中の自然は霊的領域での運行によって、元素を通して影響されていると考えられていましたが、その実態は違いました。元素として考えられていた物が精霊達そのものだったのでした。
精霊たちはより身近に存在し、より身近にこのエルの神秘と自然を運行していたのでした。しかし、彼らは霊的領域の存在でしたからその姿は魔力を通してでないと実体を得ることが出来ませんでした。
ドギンは魔力を通さずとも、この身体に備わった耳と目をよく使い、実体ではなく霊体を感じとっていたのです。
つまり、霊的領域とドキン達の領域は分け隔てておらず、同時に同じ領域に存在していたのでした。
銀の君はこのことをよく知っており、精霊たちがどこにでもその神秘を宿していたことを伝えたかったのでした。
必要なことは沢山教えました、という言葉が思い出されます。ドギンがこの旅に必要な能力は既に備わっていたのです。
そうしているとデーンがドギンのことに気がついたようで、険しい顔をしてドギンの方へ近寄ってきました。
「おい、部屋で待ってろと言っただろう!」しかし、デーンの歩みをドギンは制止しました。「何とかなるかもしれないんです」そういうとデーンは険しい表情を緩め、驚きの顔になっていました。ドギンは空をじっと見つめ、大気に漂う精霊達を観察しました。よく見ると緑と紫がせめぎ合うように混じりあい、まるで争っているようでした。そしてその争いから逃れるように1部の緑が漏れ出すようにつうっと線を作っていました。それを見つけるとその方角を指さし、デーンにそちらへ進むように伝えました。デーンはまた険しい表情をしました。
「何を言っているんだ。その方角は波と真正面からぶつかる。最悪、この船が沈む可能性すらあるんだぞ」
「私のことを信じてください。デーン卿」ドギンは真剣な眼差しで、この優れた航海士を真っ直ぐ見つめました。その眼差しを受けたデーンは真意を確かめるように睨み返し、お互いの間に小さな沈黙が流れた。そして、デーンは船乗りたちに向けてその方角に進むよう指示しました。的確な指示で万全を期して荒波を正面から突き進みました。ドギンも縄で身体を縛って船の柱に括りつけ、決して流されないようにし、この海に挑むのでした。何度も波が船の正面から叩きつけてきました。波が巻き起こす海流に何度も流されそうになりますが、柱に括りつけた縄のお陰で何とか甲板に踏みとどまることが出来たのですが、柱が波に打ち付けられる度に嫌な悲鳴を上げていました。これ以上大きな波が来たら柱は持たずに倒れ伏し、ドギンは流されてしまいます。そして無情にも今まで一番大きく、山のような黒い波が低く不気味な唸り声をあげ、襲いかかってきました。柱は悲鳴を上げて折れ、その引き戻す力は凄まじく、
その時、鍛え上げられた見覚えのある太い腕がドギンを掴みました。デーンは腰にぶら下げた短剣で素早く的確に縄を切り、ドギンを海中から引き上げてみせたのです。
「大丈夫か、
デーンはドギンを抱き抱え、意識を保てているか確認するように大きな声で呼びかけました。ドギンは少しの間、海中に居たため体内に海水を含んでしまっていて何度も噎せた後に返事をしました。
1番大きな波を突き抜けたことを最後に波は落ち着き始め、雨風も段々弱まってきました。デーンは抱きかかえたまま波に漂う樽に掴まり、その場を動かずに周りを見渡しました。まだ近くにさっきまで乗っていた船の姿を確認することが出来、船乗りたちが一生懸命デーンたちのことを呼びかけていました。荒波を突きぬけた船は帆を失ってしまいましたが、実行時点にいた船乗りたちは何とか全員無事のようでした。ドギンとデーンが引き上げられた時にはみんなあの波と雨でぐっしょりと濡れてしまい、ドギンなんて犬が水をかけられた時のように毛が海水で萎れ、とてもおかしな容姿となっていました。その姿をみんなで笑い合い、最後には晴れ模様を拝むことが出来たのでした。これにはドギンを含めた船乗りたちは大喜びで、この場にいた全員が生を実感し、生きていることに神に感謝していたのでした。ドギンは安堵で気が緩んだのか身体の力は抜け、尻餅をついて、倒れ込みこの光景を見ていました。あの嵐を抜けることが出来たのはふたつの領域が同じ所に存在することに気がつくことが出来たからでした。精霊たちがこのエルの自然を直接運行しているのであれば、それを悪い方向へと導く精霊がいるのも道理でした。あの紫色の精霊たちがそれだったのでしょう。緑は恐らく風の精霊で嵐のあるところはこのふたつが争い、逃げた風の精霊たちの方角は安全地帯だと判断できたのでしたが、森人の二等航海士達がなぜ判断できなかったのかは多くを語る必要はありません。彼らは種族的に神々、霊的な存在から啓示を受ける側の立場で、彼らもまた、霊的領域は分け隔てられたものと考えていたからでした。
銀の君の教えがなければ今頃は海の藻屑となっていたところです。こうやって生きていることの喜びを実感することも出来なかったでしょう。
いつまでも流れる潮風とカラッとした暖かな日照りがドギンを乾かし、日の傾きが早い季節にも関わらず爽やかさを感じさせながら吹き抜けていきました。この瞬間にも意味があることに気が付かされ、ふたつの意味で知識と知恵の大切さを教えられたことに感謝し、この海の上に浮かぶ船にいるこの瞬間に思いを馳せました。
「やるじゃねぇーか、
そう言ってデーンはドギンの肩を組んで頭を乱暴に撫で回しました。歯を出して笑みを浮かべる男は純粋にドギンの活躍を喜んでいるようでした。
「いえ、私は何も」
「海の民である俺や優秀な二等航海士共がどうすることも出来なかったんだぞ。それをお前は成し遂げた誇れ、
その真っ直ぐ見つめる瞳にドギンはくすぐったい気持ちになりましたが、靴紐を結び直すように気持ちを引締め直しました。
「デーン卿が私を信じたお陰です。それに流され沈みそうなところを助けてもらいましたしね」
「海を生きるにはな助け合わねぇとな。海は広い、海の前では全てが平等だ。そして時に過酷な一面を持つ。だから人がこの海と共に生きるってことはな、海と向き合う覚悟が必要なのさ。俺はそれをお前さんに実践してみただけだ」
ドギンは感心しながらも少しいたずらっぽい言い方で話しました。
「そうでしたか、でも私の名前はドギンです。エウケルトの
そういうとよく響く笑い声を上げ、ドギンの背中を叩くと(そうは言っても小鬼にとっては強めに感じる叩き方です)立ち上がり、その場を去りました。
「海の前では平等なんだよ」
甲板に寝転んでどれくらい経つでしょうか、太陽のヘルロスが天の煌めきを運んでると聞き及んでいるのですが、この季節になるとヘルロスも重要な任を怠けたくなるのでしょう、もう太陽は海の向こうに沈む手前まで来ていました。
そのくらいになりますと強い日照りも陰りを見せ、涼しい風は冷気を帯びて吹き抜けるのでした。
しかし、ドギンには身体中に毛が生えているのであまり関係の無いところでしたが、毛むくじゃらを刈り上げ、全てをさらけ出した自分を想像すると寒気のするところです。
少し日が沈みつつある空を眺め何とも言えない
もうすぐで日は沈み、夜の帳が下りる。そして眠りについたらあっという間に日が昇りそれが巡り巡ることにあまり実感を持たないまま、それを得る前に過ぎていくのです。
成長の1歩を踏み出したのですから焦ることも無いでしょうにドギンは不安にかられ、だけど今出来ることも特にないこの時間への焦りがドギンを憂鬱にさせたのでした。
「おーい、陸が見えたぞ」
船乗りたちが呼び合い、身を乗り出していました。ヒンデンブルクに着くという喜びともう着いてしまうのかという焦りが同居しますが、ドギンは起き上がって様子を見ることにしました。
確かにエンギレンの鬱蒼とした森とヒンデンブルクの綺麗な城と町が姿を現したのですが、見えたというのは森人や小鬼の尺度での話でして実際の距離としてはまだ遠いものでした。
少し拍子外れな気持ちになりましたがどこか安堵するような気持ちにもなりました。ヒンデンブルクに到着するのは夜頃で、その間に大きく変わることも期待されないでしょうに安堵しているのです。
そこへ両手に酒の入った木製のマグを持ってデーンがにこやかな表情で現れたのでした。
「夕日が綺麗な海の絶景で一杯やるってのはどうだ?」
「良いですね。私も一杯頂こうかと思います」
そう言ってデーンからマグを手に取ると2人で夕沈み海の絶景を眺めながら語らいあったのです。
「仕事はいいんですか?」
「もうこの時間になればこの海も穏やかなもんさ。あとは二等航海士達に任せれば無事到着。俺の仕事といえば使者様への持て成しさ」
少しおどけた拍子で話すデーンに釣られてドギンも話を弾ませました。
「とは言ってもこれが綺麗な装いの森人の使者であれば貴方もそんな
「そうかもな。昼にお前さんには言ったがな、海の前では平等だ。だから助け合うことも大事なんだが、俺は俺なんだって言うことも当然の権利としてあるのさ。俺はさも権威のあるように気取る理不尽なヤツらが嫌いだからな、そいつらを持て成すくらいなら1人で黄昏に飲むね」
「デーン卿らしいです。私はこの短い間ですから為人を知ったような口ぶりは失礼に当たるとは思うんですが、貴方は理不尽に対して不快感を示しているのだと分かってきました」
「おう、なんでもない事にチップするやつの方が遥かにマシだな。お前さんはあの麗しい方としばらく共にしていたみたいだからか、森人みてぇな話し方をするが、嫌な奴じゃないのは分かってるつもりなんだ。だがな、上位森人とか言うのは誇りなんてもんはなくて権威を笠に着て歩いているもんだからな。食事はヤタハの木の大きな食卓が良いだとかメシが臭いとか言って貴重な食料をゴミにしたり、気に入らんという理由で船乗りを肥溜めに閉じ込めてしまうような好き勝手な連中さ」と、一気に話すと酒をぐぐっと飲みました。
「お前さんが、麗しい奥方の威光を借りて好き勝手するようなやつで良かったよ」
そう話すとドギンはなんとも言い難い気持ちになるのでした。
「果たしてそうでしょうか」
「どうしてそう思うんだ」
「貴方とて全くの聖人でもあるまい。私は腫物傷物の類です。私がこの体毛の下を赤裸々にしてしまえば、たちまち忌避することでしょう。あまりの痛々しさ、穢らわしさ、醜さは見るに堪えないのです。所詮は
そう言ってドギンも酒を1口飲みました。少し酒の周りが早いようで、口調が少し崩れてしまっていました。
「酒は劣情を誘うと言いますよね。きっと普段の僕であれば飲もうとも思わなかった。酒が毛の下の私を呼び起こしてしまうから、でも今のこの一向に優れない気持ちならむしろ慰めになる。僕も森人や只人、山人に生まれたかった。誰かの光がなければ日の下を歩けやしない」
所詮は
「傷が癒えて、瘡蓋が剥がれる時が来るさ」
「そうだといいけど」
そんなことを交わしたその時、ドギンは嫌な流れを感じ取りました。耳が水の精霊達のざわめきを海の底から聴こえてきたのです。
「デーン卿」
デーンもまた海の民の勘が教えてくれたようでした。
「あぁ、仕事に戻る」
そういうと、船乗りたちの方へ向き直り、大声で指示を出しました。
「全員、武器を取れ。非戦闘員は松明を持て。何かが海からやってくるぞ!」
船乗りたちは急いで剣や刀、松明を手に取り海の方へと構えました。波の音すら耳に入らない緊張の静寂が訪れました。
そして海鳥の鳴き声が聞こえた瞬間、海から巨大な触手が何本も突き出て、海鳥を捕まえて海へと引きづられたのでした。
「船喰い《クラーケン》が出たぞ!」
その声を聞いた瞬間に全員が恐怖と混乱に陥ったのでした。
船乗りたちが恐れているのはエルにおいてふたつでした。
ひとつは航路を見失うことです。船旅は長期間になり、港に寄って荷物の調達を定期的に行わなければなりませんでしたので、航路を見失うことは死を意味しました。
そして、もう一つは海に住まう怪物たちでした。彼の者たちは巨大でとても大きな力を持つ者ばかりで、船だけが生命線の船乗りたちにとっては船旅における恐怖の存在だったのです。
デーンも刀に手を取り、船乗りたちを鼓舞しながら指示を出します。船乗りたちもその指示に従い落ち着きを取り戻しつつありましたが、やはり恐怖を払拭するには至りませんでした。
再度、海から伸びた触手に驚いた哀れな船乗りの一人が斧を投げつけてしまったのです。もちろん、その船乗りは無数の触手達に一斉に襲われ、海に沈んだのでした。
それを機に船喰いは船乗りたちを一斉にその無数の魔の手で襲いかかったのでした。船乗りたちも反撃に出ました。伸びてくる触手を一刀両断したり、油と松明で燃やしたり等様々な対抗手段で善戦しますが、触手が止める気配を見せることはありません。
ある者は剣が抜けずにそのまま捕まってしまい海の藻屑となったり、なぎ払われたり、口から触手が入り、串刺しにされた者もいました。触手の焼ける嫌な煙と血や糞尿の匂い、怒号と悲鳴が飛び交う地獄絵図で混沌を極めました。ドギンもまた船乗りと共に斧を手に取り、襲い来る触手を切り払うなどして必死に抵抗しました。銀の君に剣術やその他武器の取り扱いなどを習っていたお陰で何とか事なきを得ていますが、それも時間の問題でしょう。ついには足を掴まれてしまいました。デーンが近くまで駆け寄って触手を切り落としたことによって難を逃れました。死と隣り合わせの状況にドギンは昼頃の嵐の時を思い出します。
あの時のように脱するには魔術を使うしかないと思いましたが、この怪物にはそんな考える時間を与えてはもらえませんでした。デーンも指示を出しながら迫り来る怪物の猛攻に抵抗しますが、余力は無いように思えました。
ドギンはこの様子を見てか、抵抗をやめてしまいました。諦めて捕まることで考える時間を作ろうとしたみたいでした。そして、触手に掴まれたドギンは海へと引きずり込まれてしまったのです。デーンの声が聞こえてきたような気もしましたが、今はそれどころでは無いのでドギンは必死に考えました。そして、考えた中でもあまり得策ではありませんでしたが、ひとつ答えを出したのです。
精霊たちの力を借りること、つまりは魔術を使うことでした。1度も使ったことがありませんでしたが原理を知ってしまえばなんのことでもありませんでした。精霊たちの姿が見えるのであれば適正なんて必要なかったのですから、あとはマナを使って精霊達の力を借りるだけだったのです。
ドギンの目はしっかりと精霊の霊体と海の怪物を捉えました。
蜂蜜のような黄金色の目をした軟体の生物は細く横に線の入った目でこちらをじっと睨みつけていました。そして、全貌を明らかに出来ないほどの巨大な生物に身震いしたのですが、怯えていては銀の君からの使命を果たすことは出来ません。エル中に漂うマナに意識を集中させ、勇気を振り絞って言葉を唱えたのでした。
潮よ、海を、押し、湧きあがれ!潮よ、海を、押し、湧きあがれ!潮よ、海を、押し、湧きあがれ!と、何度も唱えているうちに自身の言葉に何かとてつもない力が宿るような感覚が全身の隅までに行き渡り、更にマナを感じるために意識を集中させました。言葉はまるで神秘の音のように水中に響き渡り、そして、その視界には精霊たちがマナに誘われ実体を現すのでした。
段々と海中を漂う剣をたずさえる水の乙女達の姿がそこらじゅうに溢れ、そして海上から海中へと風を纏う白いワンピースの少女達が沢山飛び込んできて、船喰いの方へ、更に奥深くへと潜っていくのでした。
そして、最後にもう一度、文句を付け加えて唱えました。
潮よ、海を、押し、湧きあがれ!
潮よ、この邪悪なる者を、海から、押し、湧きあがらせよ!
潮よ、邪悪なる者から、海を、救たまえ!
湧きあがれ!
そして次の瞬間、全てを押し流すような海流が船喰いの下からまるで只人の庭園にある噴水のように海上へと湧き上がったのでした。その海流にドギンも巻き込まれるようにして、この怪物と共に吹き上がるのでした。船上に居た船乗りたちはみんな目を丸くし、何が起きたのか困惑しているようでした。
そして、ドギンもまた、あまりの高さまで吹き飛ばされたものですからびっくりしましたし、船喰いがその粘膜まみれのぬらっとした手を離してしまったものですから、そのまま空中から落ちる事となりました。慌てて何か唱えようと思ったのですが、海鳥が獲物を狙って海に突っ込むように落下しているために、混乱した頭で考えるのは不可能でした。そして、そのまま海へと叩きつけられたのでした。デーンの安否の叫び声以外は静まり返ったのでした。
光は遠くへと、闇は光を覆うように呑み込み、一寸先も見えない暗闇が襲ってきました。ドギンはそこに立ち尽くすしかなく、何度も誰かいないかと呼んだのでしたが声は虚しく響くばかりで、何も返ってきません。永劫に続くと思われる暗闇は虚しさを焦りに、焦りを苛立ちに変えるには十分でした。
そして、闇の先からようやく声が聞こえたのでした。
「その先には何も無い」
ドギンはばっと起き上がりました。既に夜の帳は下ろされてしばらくが経ち、ロウソクと木の香りと毛布の匂いが鼻に一気に入り、その傍らにはデーンが椅子に腰かけていました。どうやら船はヒンデンブルクに到着し、今はどこかの宿の部屋の一室にいました。
「デーン卿、ご無事でしたか!」と、歓喜していたのですがデーンは険しい表情でした。
「おい、
あまりの出来事に驚きを隠せずにはいられませんでした。
「なぜでございますか。私は自分に出来ることをしたのですよ、あれをしなければ危機を乗り越えることが出来なかった。言わば貴方たちを救ったんですよ。それを金輪際使うなと?無礼にも程がありませんか!」
デーンの目からは憐れみの色が浮かんでいました。
「あぁ、
「では何故ですか!」
「
そう言うとドギンは不貞腐れ、デーンに背を向けて横になりました。
「確かな事とは何ですか、私が皆さんを助けたというのに」
「お前さんは、恩を着せるために俺たちを救ったのかい?」
そう言われてドギンは慌ててデーンの方へ振り返ります。その目には憐れみが色濃く現れていたのでした。宥めるようにこう言いました。
「なぁ、小鬼の坊や《ドギン》。お前さんは自分の力を誰かに見せつけるために使ったのかい?それとも今までお前さんのことを腫物のように扱った連中に見返したくてあの大きな力を使ったのかい?違うだろ?確かに訳を言わずに生き様を強いる言い方は良くなかった。謝るとも、お前は使命を果たしたいだけなのも知っているさ」その口調は快調でしたが明るさはなく、とても心配しているようでした。
「だけど、確かなことはな、あまりに大きな力は代償を伴うのよ。お前さんにはその気がなくてもな。お前さんは確かに一人で俺には想像もできないような使命を成し遂げようとしているが、その旅の道中にはお前さん一人だけがいるわけじゃない。お前さんの想像するよりも遥かにたくさんの生命がエルにはいる。その一つ一つにどれくらいの影響があるか考えたか?」
そう言うとデーンは目を閉じました。横になっているドギンは目を見開き信じられないといった表情をしていました。
「俺がお前さんの使命がどのようなものか想像つかんように、お前さんも想像つかんだろう。だが、少なくとも俺はお前さんの魔術に誘惑されてしまっているようだ。今でも心の隅のどこかでお前さんの分別の付かない純粋さにつけこんでしまおうなどと野心を滾らせてしまっている。その上で聞いてほしい。今回乗船した船乗りたちは皆辞めさせられた」
ドギンは絶句していましたが、デーンは澱みなく続けてこう言いました。
「ヒンデンブルクの王はあの一部始終を見ていたのさ。大層お怒りな様子で、お前たち船乗りは偉大なる銀の君の御使いを守り通すどころか守られてしまっているではないか、とな。その通りだと俺も思ったさ。俺は俺の使命を果たせなかったからな。さっきも言ったがな、お前さんは魔術の天才なのだと思うし、使命を果たそうとしたし、助けてもらった恩義もある。だから、お礼だとでも思って聞いて欲しいのさ。立場を顧みずに行動することの意味を、そしてそれがどういう結果をもたらすのか」
そういわれるとドキンは大粒の涙を流して、俯いてしまいました。
「僕はなんて愚かなことをしてしまったのか、あれほど立場の違いを語っておきながら、僕自身が理解していなかった!功を焦るばかりに私は私自身の力を理解せずに、周りがどうなるか理解せずに、一人で何とかしようとしてしまっていた。やはり、毛の下の醜悪な
デーンはドギンの頭を撫でました。やはり、少し乱暴ですが優しさが伝わってきました。
「過去に起きた事実は変えられない。だけど、これからの旅路は幾らでも正せるはずさ。大丈夫だ、お前はお前なんだドギン」
その通りでした。まだ、ドギンの旅は始まったばかりなのですから、これからゆっくり彼なりの歩みで進めばいいのです。今日はもう一度ゆっくり休む事となりました。夜はより一層深くなり、天空のアマルカルナ神は夜空を爛々と光る星々を散りばめて、エル中に息吹く生命が安息の一時を過ごせるようにしたのでした。
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