第3話

「ひいめえさあまあああああああああああああああ!」

 城の外まで聞こえるとは。ミラの声帯、いつか壊れるかもしれない。

「もう少し歩いたら、戻ろう」

 天気の良い日。イズミが来てから、まだ一日しか経っていないというのに、どうも寂しくなってしまった私は、城の周りを囲む森を散歩していた。

 いつだったかこの道を二人で歩いたっけ、なんてことを考えながら……。

「……そろそろ帰ろうかな」

 いつの間にやら、想定していたよりも奥まで来てしまったようだ。

 まだ日の高い時間だというのに、木々に遮られて、辺りは夜のように暗い。

 どこか心細くなってきた私が、ここらで城へ戻ろうと踵を返した。

 その時だった。

「――え?」

 目の前にあったのは、城への帰り道。

 ――ではなく、行く手を塞ぐ大きな獣の腹。

 そろそろと目線を上げると、四つ足の大型モンスターが、後ろ足の二本で器用に仁王立ちしていた。

「あら……ここ、君のお家?」

 ひく、と頬が引きつる。

 そういえば、この時期は獣の気性が荒くなるから気を付けろって、ミラが言っていたっけ……。

「じゃ、じゃあ私はこれで……お、お邪魔しましたー」

 背中を見せないように摺り足で移動しながら、距離をゆっくりと取る。

 しかし、そう上手くはいかない。

 獣は吠えながら、その鋭い爪を私に向けてきたのだ。

「ひっ……!」

 咄嗟に、携帯している短剣を鞘ごと掲げてやり過ごす。

 ガキンとぶつかる音がするも、しかし、腕力に押され、唯一の得物が弾かれてしまった。

「やばっ――」

「頭を下げろ!」

 あっという間もなく。視界を掠めた黒い影は、いとも簡単に大きな獣を気絶させてしまった。

 ドスンと大きな音が響く。土埃が辺りを舞った。

 目を凝らすと、黒いフードマントを目深に被った人物が、倒れた獣と私の間に立っているのが見える。

 突然の出来事に驚いて動けないでいると、彼はこちらへと歩いてきて。そうして、座り込んでいた私の手を取り、起こしてくれた。

「勇敢な姫。怪我は?」

「だ、大丈夫……」

 返事を最後まで聞かずに背を向けたかと思いきや、彼は転がっていた短剣を拾い、戻ってきた。

 差し出されたそれを受け取りながら、礼を言う。

「あ、ありがとう……」

「一人でうろつくと危ない。供は? 誰もいないのか?」

「ちょっと一人で散歩したくて……でも、もう戻るところだったの」

「お転婆だな。そういうところ、変わらない」

「え?」

 まるで私のことを知っているかのような口振り――この人は、誰?

「覚えては、いないだろうな」

 言いながら彼は、ぱさりとフードを取る。

 その瞬間、息を呑んだ。

 少し幼さの残る面立ちはしかし、きりっとした凛々しいもので。

 背は、イズミよりも少し高い。

 ふわふわしていそうな黒髪に同色の瞳。

 表情の読めない顔が、私を見つめる。

 知らない。初めて会う人。

 それなのに、どうしてなのだろうか。

 どこか懐かしさを抱くのは、何故?

 私、この目を知っている……?

「この獣が目を覚ます前に、戻ることだな」

「え、あの……! ……行っちゃった」

 私の言葉など聞かずに立ち去っていく、黒髪の彼。

 多くを語らずに行ってしまった。

 彼は、いったい誰だったのか。

 どうして、こんなにも気になってしまうのだろうか。

 触れた手は、とても温かかった。

「姫様! やっと見つけました」

「ミラ……」

「これは……まさか、姫様が?」

 駆けてきたミラが、そばで倒れている獣を見て驚く。

 私は、首を横にふるふると振った。

「ううん……とある人に助けられたの」

「とある人? とにかく、話は後程。この時期、森は危険ですから。城へ戻りましょう」

「うん……」

 ちらと、彼が立ち去った方向を見て。私は、ミラに促されるがまま城へと戻った。

 あの人は、私の失った記憶――幼い頃に出会ったことのある人だったのだろうか。

 戦争中の一時期、僅かな日数の間に行方不明となったらしい私は、発見された時には記憶を失っていた。

 お父様のことも、お母様のことも、名前も何も、わからなくなっていたと聞く。

 それより前に出会っていた人だったのだろうか。

 それとも、ただ忘れてしまっているだけなのだろうか。

 一切笑わない人だった……それなのに瞳は優しくて。

 どうして、こんなにも私の胸は騒いでいるのだろう。

 彼の顔が、頭から離れない。

「だから、あれほど申したではありませんか。それなのに森へ、それもあんなに奥まで行ってしまわれるだなんて!」

「う……」

 耳を塞ぎながら説教を受けていると、その態度に怒られて、更にお小言が追加された。

「それで、先程仰っていた、とある方とは?」

「それが、名乗らずに立ち去って……」

「国民でしょうか……近くの街の者かもしれませんね。是非、兵士になってもらいたい逸材です」

「そう、だね……」

「……姫様、どうかされましたか? まさか、どこかお怪我でも?」

 心配そうな赤い瞳に覗き込まれて、私は慌てて首を振る。

「全然。この通り、掠り傷一つないよ」

「であれば良いのですが……もしかして、その方に御心を奪われてしまわれましたか?」

「え?」

 ミラは冗談で言ったのだろう。

 けれど、今の私には深刻な問いかけだった。

「え? まさか、姫様……」

「そ、そんなわけないよ。突然獣に襲われて、びっくりしただけだから」

「そう、ですか……」

「うん。少し疲れたのかも。だから、ちょっと休むね」

「承知致しました。リラックス効果のあるお茶を用意させます」

「ありがとう」

 部屋を出て行くミラに小さく手を振りながら、扉が閉じられた瞬間、後方に倒れる。

 ぼすんとベッドに体を預けて、見慣れた天井を見上げながら、目を閉じた。

「黒の君……いったい、何者なの?」

 一般人が荒ぶる大型の獣を、たった一人で倒した。それも一撃で。

 しかし、何か武器を使ったようにも見えなかった。

 謎だらけの人……どうして、こんなにも頭から離れてくれないの?

 振り払うように目を開けて、柔く首を振った。

「心を奪われた? まさか……」

 ごろりと寝返りを打つ。

 ははっと空笑いを浮かべてみるも、ざわざわと心が騒ぎだす。

 落ち着かなくて、溜息が絶えず漏れていた。

 そんな私を扉の向こうで見つめる影になど、気付くはずもなく――

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