第2話

 この国、ソレイユの隣国には、アクアという平和条約を結んでいる国がある。

 水がとても美しく、豊かな自然に囲まれた、水の神に愛された国。

 その水と盾の国、アクアの第二王子、イズミ・アクア王子が、私の婚約者だ。

「え、イズミが来るの?」

「先日お伝えしておりまし――やはりあの時、私の話を聞き流しておられましたね? 聞いておられますかと、確認を致しましたのに!」

 とある日、小鳥のさえずりを遠くに聞きながら起こされた私は、半覚醒の頭に彼の名を聞かされ、驚いていた。

 目の前の神官は、怒っている。

 あー、このままだと説教コースだ。

 朝からそんなの嫌だ。ここは回避せねば……。

「そ、そんなことよりも、イズミはいつ来るの?」

「……。本日です」

 そんなこと呼ばわりされたことが、不服だったらしい。

 ジト目が物語っている。

 しかし、ミラは間を置きつつも、答えてくれた。

 ――というか、何だって?

「今日? だから、こんなに早く起こしたの?」

「そうです。ですから、お早くご準備なさってくださいませ」

 呆れ顔のミラに急かされ、慌ててベッドから飛び出す。

 まさか、イズミが来るなんて……。

 嬉しすぎて、そわそわする。落ち着かない。

「ねえ、ミラ。イズミは、何のために来るの?」

 デートできるかな。何時間くらい会えるのかな。

 そう期待を込めて問えば、しかし真面目な神官は、しれっと何ともないような声で「外交のためですよ。姫様に会いに来られるわけではありません」と事実を告げた。

 まあ、当たり前か。イズミが来たところで、ミラには関係ないのだから。

 だからって、そんな風に言わなくたっていいのに。

 思わず気のない声が出た。

「……ふうん」

「そんなに残念がらずとも、あの方のことです。必ず貴方にもお会いになられますよ」

「べ、別に残念がってなんてないけど!」

 侍女たちに着替えさせてもらっている私を、少し離れたところで見守るミラ。

 顔は見えないけれど、くすくすと笑っている声が聞こえてきた。

「もう……」

「そのように拗ねたお顔をなさらないでください。可愛らしいお顔が台無しですよ」

「美人に言われたくない」

「そんなことを仰って……」

 彼女の顔なんて見ずとも、苦笑をしている様子がありありと浮かぶ。

 しかし、こうしてミラと共にいられるのも、あと一年をきってしまったのか。

 こんな日常の光景も、いつまでもは続かない。

 イズミのことは好きだ。

 アクアの人たちはとても優しいし、結婚は嬉しい。

 だけど、ミラはこの国の神官だ。

 国を守護し加護を授けてくださっている太陽神、金烏きんう様。

 その神から直々に仕えることを許された、稀有な天才。

 いくら影武者だとしても、侍女ではない彼女を連れて行くことはできないのだ。

 ミラは、そんなワガママを言っていい立場の人間ではないのだから――


「姫、今日も変わらず愛らしい……お会いできるこの瞬間を、心待ちにしておりました」

「イズミ王子……私も、お会いできて嬉しいです」

 夕方。お父様との話が終わったらしく、彼は庭園にいた私の元を訪ねてくれた。

 スラっとした体躯。サラサラの銀髪は風に靡き、澄んだ水色の瞳は美しい。

 四つ年上のイズミは、聡明な頭脳を持ち、いつもふわりと優しい笑みを浮かべている人。

 国内外問わず、人気のある王子だ。

 まあ、それが表の顔だということも知っているのだけれど――

「ミロワールさんも、変わらずお美しいですね」

「恐縮です」

「ああ、他の女性を褒めていては、怒られてしまいますね。お許し願えますか? 姫」

「……あの、王子?」

「何でしょう?」

「侍女たちも下がらせましたし、そろそろ良いのでは?」

「そうですね……では――」

 スッと、にこやかな表情が鋭くなる。

 涼やかな目元。精悍な面立ち。少し不服そうな顔。

 これが本来の、イズミ・アクア王子の姿だ。

 ほんの一部の人間だけが知る、彼の本性。

「愛想を振りまくのも、疲れるな」

「でしょうね」

 あはは、と苦笑すれば、目が合い微笑まれる。

「やっと力を抜くことができるよ」

「それは良かった」

「シャイン」

「何?」

「もっと近くへおいで」

 いつもより低めの声に優しく囁かれながら、すっと手を差し出された。

 どきりと、私の鼓動が跳ねる。

 幼い頃から結婚するのだと言われていた相手。

 当時は、一緒に遊んでくれるお兄ちゃんというだけの印象だった。

 いつからだろう? こんなにも意識するようになったのは。

 ドキドキするようになったのは。

 隣にいたいと思うようになったのは。

「はい……」

「いい子だ」

 手を取ると、ぐっと引き寄せられた。

 腕の中に閉じ込められて、彼の匂いに包まれる。

 こうして愛されるのだろうか。

 共に暮らすようになったら、ずっと一緒にいるようになったら。

 甘く、時に鋭い瞳に射抜かれて。

 心を囚われて、奪われて、そうして――

「ミラ、こういう時は気を利かせるものでは?」

「恐れながらイズミ様、そういうわけにはまいりません。姫様は、まだソレイユ国の王女ですので」

 安易に手を出されては困ります。その言葉に、イズミがやれやれと肩を竦めた。

「頭の固い神官だな」

「何とでも」

「まあ、そういうのも嫌いじゃないけどな。では、仕方がない」

 流れるような仕草で顎を固定され、軽いリップ音を立てて、小鳥の戯れのようなキスをされた。

「――!」

「今日のところは、これで我慢しておくさ」

 ぺろりと唇を舐める仕草に、くらりと目眩がする。

 ミラが呆れたような顔をしていることになんて、気が付く余裕もない。

 初めてでもないくせに、火でも噴いていそうなほどに顔が熱い。

 ニッと意地悪な笑みを浮かべているイズミは、大変機嫌が良さそうだった。


「次は一日、貴方のために参ります」

「では、その日を楽しみに時を数えます」

 太陽が沈む前にと、従者を連れてイズミは、城を後にした。

 彼は、とても忙しい。

 次期アクア国王として、様々なことをこなしている。

 一年前に戦争が終結したばかりのアクアの各地には、未だ爪痕が残っている。

 そんな中で、復興と王位継承の準備を同時に急ピッチで進めているのだ。

 本来ならば、次期国王にはイズミではなく、彼の兄王子である第一王子、ナギサ様がなられるはずだった。

 いつも穏やかに笑っているような、温和な方だった。

 しかし、彼は戦争の犠牲になってしまった。

 普段は涙など見せないイズミが、初めて私の前でだけ悲しんだ。

 この人を支えてあげたい。そう思った瞬間だった。

 ミラは、こっそり想っていたのだろうか……何も言わなかったが、一人静かに泣いていたのを私は知っている。

 九つも上の、優しいお兄さん……私が初めて経験した、身近な人の死。

 大地は荒れ、緑は焼かれ、命が奪われた。

 このソレイユでも、昔起こった光景なのだろう。

 十一年も前のことだからほとんど記憶にはないけれど、当時のことを思うと、恐ろしく悲しい感情が胸を支配する。

 二度と、ナギサ様のような人を生んではならない。

 だから、気を抜いてはならないのだ。

 彼らは、いつだって突然にソレイユとアクアをそれぞれ襲ってきたのだから。


 望月もちづき国――月の女神の加護を受ける、海の向こうの大国。


 月と魔法の国と呼ばれる望月国は、魔法という不思議な力を使って、森を焼き払った。

 悲惨な戦いを繰り返し、一年前にアクアとの争いに幕を閉じたのだ。

 ナギサ様という犠牲を払って。

 その代わりにと差し出された望月国の第二王子もまた、犠牲者と呼ぶに相応しいだろう。

 一度だけ会ったことのある、とてもいい子。

 十三歳にして家族から離され、アクア国へと送られた哀れな王子。

 望月国とアクア国間の友好を結ぶための誓い。その名のもとに選ばれてしまった人質だ。

 いくらあの温和なアクア国であろうとも、ナギサ様を奪った国の王子。

 どのような待遇を受けているかは、想像に難くなかった。

 きっと、私がアクアの城に入れば会うこともあるだろう。

 その時は、一緒に平和について考えたい。

 二度と、彼のように寂しい思いをする人間を生まないように。

「姫様、お体が冷えてしまいます。そろそろお部屋へと戻りましょう」

 門の向こうへと消えていく王子一行を名残惜しくも見つめていた私に、ミラが声を掛ける。

 私は一つ頷き、ちらともう一度彼らを見て、踵を返した。

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