第2話 前提

 ぼくがこうして部屋に籠っている以上、前の段階があったわけで、それは学生生活としてはごく自然なものだったはずだ。

 としか言えないのは、分かっていることがあるのが理由だ。周りの友人はみなぼくに気を遣っている素振りを見せていたことと、ぼく自身彼らに本性を無意識にだが隠していたからだ。

 前者はれっきとした事実——単なる印象だがそう言えて——、後者はさらに確信を持って言うことができる事実だ。

 つまり、お互いが本音でぶつかることがなかった。学生でありながらお互いが大人ぶっている、社会人じみたことをやっていたわけだ。そんな関係では喧嘩も起こるはずはなかった。ましてや、関係が崩壊することもない。

 さらに言えば、ぼく自身の人格や彼らのそれは破綻しているわけでもなかった。お互いがまともに会話をすることができる関係だったのだ。

 それを羨ましいと思う人間もいるだろう。学校に入り、気がつくと周りに流されてとあるグループに属してしまっている人、断り切れずに不本意な関係を続けている人。群れることが好きな人種のなかにも混じっているものだ、それがあまり肌に合わない存在が。そして、彼らは同町圧力と“その場のノリ”などという言葉で軽視される犯罪に否応なく巻き込まれてしまい自身の思想とあまりにもかけ離れた非常識人の事情に巻き込まれてしまうのだ。

 哀れな被害者に気づかない無知な加害者とは関係を持たない人間が集まれば、秩序を理由なく破ることもない。そういう人間のあつまりで、ぼく自身だってそうだったはず。

 こういうことを分かっていながら、ぼくはなぜあんな行動に出てしまったのか……

 これがというのだろうか。

 とにかく、ぼく自身よく分かっていないのだ。

『体が勝手に動いた』とは緊急事態に陥った人間を助けたヒーローのみが口にすることを許される魔法の言葉。

 もちろんぼくはそんなセリフを吐かない。

 だが言えるのは、普段なら効くはずだったブレーキが壊れたのか、不具合を起こしたのか……。

 ぼくに起きた現象は『口が勝手に動いた』だ。

 あんな行動、振り返ってみれば……、実際に要らぬ一仕事をしたのはまさに口だった。今は開くことが不要になった口。

 認めたくない。本当に認めたくない。だがこうしているとどうしても思い出してしまう。

 昨夜、このアパートに戻っていつもの順序で玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩き、電気をつけ、椅子に上着をかけ、パソコンを起動した。

 よどみなく行われるはずの一連の動作がぎこちなかったのも、本当は認めたくないことを認めざるを得ないと分かっていたからだ。それでもやっぱり認めたくなかったからだ。

 しかし、自覚してしまった。ぼくの犯した罪を。

 一発で椅子にかけられるべき上着が床に落ち、それを拾うために屈んだ瞬間に、

 気にしないようにと努めていた意識は、器からこぼれる生卵のようにと脳からこぼれ落ちてしまった。

 その後はもう悲惨だ。誰にも見られない、自分しか観測できない悲劇を悲惨という。

 何度も思い出されては奇声を発し、壁に額を打ち付け、ベッドに横になって体をよじらせる。もがき苦しむ。

 つかみどころのない不安、それも最大級の不安に襲われて思考が乗っ取られてしまう。

 過去にこうした経験は何度かあったのだが、今回のそれは今までのものとは比べ物にならない。

 小学校高学年の頃に感じた不安、高校受験を控えた中三時の不安、大学受験を控えた高校生での不安。あれらはまさに地獄だったが、今回は生き地獄だ。

 死後に落ちる地獄と違って、生き地獄は生きながらにして落ちなければならない。

 苦しみを感じながらも、生きなければならないのが生き地獄の苦しみだ。

 小中高校の苦しみは過去のものなので、今のぼくが観測することで当時のぼくは救われている。

 だが今はどうだ? 過去の自分ではない、今現在、リアルの自分が苦しんでいる。これが生き地獄でなくてなんだというのだろうか?

 さて前置きが長くなった。これはぼくの本当に悪い癖で、なにか自身の意思を表明する際にその前提となる哲学を説明するうちに熱中し出してしまい、なんの話だったのか自分でも分からなくなる。だらだら書くと決めたとはいえ、流れとして不自然な文章はぼくとしても書きたくないものだし、結論から述べよう。ぼくの罪を。それは、


 みんなが沈黙していたことがらを、公の場で、その矛盾を指摘してしまったのだ。


 ——『沈黙していたことがら』とはなんなのか、『公の場』とはなんなのか、『矛盾』とはどんな矛盾なのか。それはこれからおいおい明らかにするとして……ここからは物語形式で話を進めることにしよう。

 読書の効用は他者の実体験を安全な立場から追体験できることだ。

 誰に読まれるかも分からない手記だが、万が一ぼく以外の誰か——それが肉親でないことを祈る——がこれを手に取ったときに最後まで読み通せるような構成にしようというのは、ひとつの祈りである。

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