屋根裏の手記

そうめん

第1話 屋根裏部屋より

 大学に行かなくなった。


 遺産が入ったとか、パチンコであり得ない大勝ちをしたとか、社会人彼女のヒモになることができたとかではない。そういう、未来に対するなにかしらの、具体的な安心が手に入った結果たどり着いた結論では決してない。


 あるのはただの、なんでもできたはずの選択肢から最悪のものだけをわざわざ選んでしまった男が落ち込み、やる気を完全になくしたというだけの悲惨な状態だ。


 いや、こんな程度で“悲惨”などという言葉を使うとある層にいる人間からは批判を浴びるかもしれない。


「お前が陥った状況など、おれに比べたら全然まったく問題にならない。ほんの些細なつまずきで人生に絶望するのはおかしいし、それはお前自身の弱さに他ならないはずだ」


 こんなことを確かバイト先のギャル先輩(年上の女性ではあるが、適切な表現が思い浮かばないためこんな失礼な表記になった)に言われた気がする。


 パチンコ玉が島を行き来する音と、筐体から流れる演出の音が入り混じる中。それに負けないほどのエネルギーがこの小さな体のどこから出ているのかと不思議になるような低身長のおじさんから怒鳴られていた後、バックヤードでタバコを吸いながら言われたと思う。


 ギャル先輩はいつから働いているのか結局分からなかった。肩まで伸びた金髪の髪と右肩から首にかけて彫られた猫の刺青。舌についている銀色の小さなピアス。パチンコ屋にしては珍しく、喫煙者は彼女だけだった。休憩時間に他の従業員は彼等どうしでソファに座ってなにかのゲームをスマホでやっていた。時折狂ったような叫び声が扉一枚隔てた喫煙所からも聞こえていた。ギャル先輩はいつも喫煙所でタバコを吸っていたし、会話をするためにぼくもタバコを吸い出した。


「……君の話は時系列がめちゃめちゃでものすごく分かりにくいね。まずそういうところからじゃないかな? 自分の思考を垂れ流しながらしゃべるんじゃなくて、頭の中でまとめてから話そうよ。私じゃなかったら途中から聞いてるふりされて一言『そっか……なるほどね~』でスルー。まあそれはいいか。私の意見を言うよ? 君は、」


 それなりに長かったはずの言葉の連続が清流のようになめらかに頭を流れていった。ギャル先輩の言うことはどれもこれも正しくて、反論の余地なんか一切なくって、ぼくのプライドはずたずたにされた。


 体を動かすこともできず、ほとんど吸わなかったタバコは灰をそっくりそのまま残して湾曲している。口をつけることなく役目を負えたそれを灰皿に入れる最中、ぼろっと崩壊して床を汚した。フィルターの部分だけになったそれを捨てて、灰の処理もせずに喫煙所を出た。ギャル先輩はなにも言わなかった。


 ほどなくしてパチンコ屋のバイトもやめた。その次の日に大学で起きたできごとにより、ぼくはどこにも行かなくなった。世界のすべてを敵に回してしまったと思った。世界はぼくが関わりを持つ範囲の小さな世界だが、ぼくにとってはそれがすべてなので、世界を敵に回していたのだ。少なくともぼくはそう思っている。


 自己が世界の一部であることも、中心であることも両立する思考のなかで、世界の外に飛び出すこともできず、世界の中心をこともできずにいる。一歩玄関から外に出れば、センサーが反応して大学のやつらに通知が行くはずだった。


『○○、二日ぶりに外に出る。動きやすい服装で各自集合』


 筒抜けだ。危険人物とみなされたぼくの動向はすべて筒抜けで、ワイドショーではほんの数か月前の人格からの豹変ぶりが取り上げられて『なにが彼をこうさせたのか』について、専門家もどきが適当なことを喧々諤々言っているはずだった。インターネット掲示板ではぼくの個人情報がさらされ、こうしている間もグーグルマップで家の周辺を観察されていて、通学路から見えたマンションの一室からはリビングの閉め切ったカーテンが開くのを今か今かと待ちながら、交代制で監視しているに違いないのだ。


 そういう具体的な恐怖が身を包む。悪夢から覚めた直後、その内容を本気で信じるあの時間がずっと続いている。


 こんなことになってしまった以上、アパートの一室で餓死するのを待つか、決死の覚悟で大学に向かってやつらと対峙するか、屋根裏部屋の住人になるか。どれかしかない。


 いや! もう一つある。連絡をよこさない息子を心配した母が様子を見に来るかもしれない。ぼくの悲惨な現状に叫び声を上げ、母の弟であるおじさんによって部屋から連れ出されるかもしれない。


 そうだ。となると、死ぬ以外は生きるしかない。


 生きるなら、苦痛を伴わずしてここから外にでることは不可能ではないか。にならない限りは。


 これは困った。


 若さを売りにして世界の外側にいる誰かに助けを求めるにも、それはずいぶん前に辞めてしまったし、ネット掲示板には敵しかいない。加えてぼくは男性なので、性を売りにすることを匂わせて誰かに助けさせることも望み薄だろう。


 いずれにせよ、この状況を長く続けることはできない。たった一人の籠城など想定したことはないのだから。


 屋根裏部屋も終わる世界だ。


 仕方がないので、わずかな安寧のとき——静かな終局を迎えるまで——を有意義に過ごし、世界が終わったあとでどう生きるかを考えると同時に、少し振り返ってみることにしよう。


 どうしてこうなってしまったのか。なぜこんな人間が生まれたのかを。

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