第42話 思い通りになんてならない!

「お願い。死なないで……」


 その言葉が届いたみたいに、伊織ちゃんの口が、微かに動く。

 押し当てていた首に痛みが走って、血が流れるのがわかる。それを吸い上げ、ゴクリとひと飲みされた。


「あっ──」


 前に血を吸われた時と同じように、疲労と苦しさが襲ってくる。

 全身から力が抜け、今までとは逆に、私が伊織ちゃんにもたれかかる。

 命が無くなっていくんだってのが、なんとなくの感覚でわかる。


 前と違うのは、こうなるのを覚悟してたってこと。

 だからかな。痛くて、苦しくて、辛いけど、怖いとは思わなかった。それよりも、とにかく伊織ちゃんに助かってほしかった。


 吸血鬼の本能のせいか、薬で渇きが発症しているからか、伊織ちゃんは、まだ私の首から口を離そうとはしない。

 正気に戻った時、いったいなんて思うだろう。


(ごめんね、伊織ちゃん)


 もう声を出すのも辛いから、心の中で謝った。

 伊織ちゃんに悲しい思いをさせるのが申し訳なかった。


 血はさらに流れて、伊織ちゃんはそれを吸っていく。同時に、私の精気、そして命が吸われていく。

 次第に意識が薄れていって、もうすぐ何もかもわからなくなる。

 そう思った時だった。


「────ごめんね、瑠璃ちゃん」


 耳元で、そんな呟きが聞こえた。

 同時に、伊織ちゃんの口が、私から離れているのに気づく。


(えっ……?)


 そして弾かれたようにバッと距離をとったかと思うと、激しく叫びだす。


「う……うぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


 床に膝をつき、震えるように全身を痙攣させながら、さっきよりもずっとずっと大きな声で、叫ぶ、叫ぶ。


「い……伊織ちゃん?」


 まだ精気の量が足りなかったの?

 私もとっくにフラフラで、体に全然力が入らないけど、それでもなんとかそばに行こうとする。


「こ……来ないで!」


 伊織ちゃんの鋭い声が、私の足を止めた。

 叫びそうになるのを必死に抑えながら、私に向かって言っている。


「ケガはもう……大丈夫。だから……もう僕には近づかないで」


 刺されたはずの伊織ちゃんのお腹を見るけど、服の上からだと、今どうなってるのかよくわからない。

 ただ、血が流れているようには見えなかった。私の血を吸って精気を得たことで、回復したんだ。


 そして私も、フラフラになってはいるけど、生きてはいるし、倒れてもいない。そうなる前に、伊織ちゃんが血を吸うのをやめたから。


 それを見て、久保田先生が叫ぶ。


「バカな。なぜ血を吸うのをやめる! 薬によって、お前は今までにないくらいの渇きに襲われているはずだ! なのになぜやめられる!?」


 その言葉通り、伊織ちゃんは、まだ苦しそうにもがいてる。ケガは治っても、渇きの症状は、全然おさまってないんだ。

 それでも、言い放つ。


「もう、これ以上血は吸わない……瑠璃ちゃんは、絶対に死なせない!」


 それからまた、苦しそうに床を転がりながら、荒々しいうめき声をあげる。

 渇きが発症している限り、本能は刺激され、血を求め続ける。それがどんなに苦しいことか、私には想像もつかない。

 たけど伊織ちゃんは、それに耐えようとしてるんだ。本能を押さえ込むのが苦手だって言われてたのに、それでも必死に頑張ってるんだ。


 それを見て、久保田先生は苦々しく吐き捨てる。


「ムダなことを。いくら痩せ我慢をしても、お前の本性は悪魔だ。今だって、血を吸いたくてたまらないはずだ!」


 そうなるように仕向けたのはあなたでしょ!

 だけど久保田先生の言う通り、伊織ちゃんの苦しみ方は尋常しゃない。どれだけ耐えられるかなんてわからない。


 だけどそこで、伊織ちゃんは急にポケットから何かを取り出した。

 それは、見覚えのある紫色の水晶だった。


「あなたがどんなに僕を憎んでいたとしても、僕はもう、あなたの思い通りになんてならない。だから……こうする!」


 そのとたん、伊織ちゃんの体を、薄くて四角い、光の膜が覆った。


「これって、結界!?」


 伊織ちゃんのお父さんが使ってた、決められた相手を膜の中に閉じ込める魔術、結界だ。

 さっき取りだした紫色の水晶には、その結界の魔術が込められていて、本人でなくても結界を張る事ができる。

 伊織ちゃんはそれを使って、自分自身を結界の中に閉じ込めたんだ。


「これで……あとは薬の効果が切れれば、渇きは治まる。瑠璃ちゃんを襲って……血を吸うこともなくなる」


 そこでまた、ゼイゼイと息をしながら、悲鳴のような声をあげる。

 渇きの苦しみは、まだまだ続いてて、見ているだけで辛くなってくる。


 だけど言ってる通り、渇きの原因が久保田先生の打った薬によるものなら、そんなの永遠に続くわけがない。

 このまま結界に閉じ込められてさえいれば、誰も襲わず、あとは時間さえ経てば、元に戻る。


 久保田先生が迫ったような、ケガで死ぬか、私が死ぬまで血を吸うかの二択じゃない。私と伊織ちゃんの、両方が助かる選択だった。


「ふざけるな! こんな、こんなやり方で、なんとかなろうっていうのか!」


 久保田先生の声が、倉庫中に響く。

 こんなの、到底納得がいかないんだろう。こうなってもまだ、諦めようとはしなかった。


 持っているナイフを、私に向ける。


「知ってるぞ。結界は、本人以外なら自由に出入りできるんだろう。お前、結界の中に入れ! そうすれば、こいつも耐えられなくなって襲うはずだ!」

「もうやめて! こんなことしても、伊織ちゃんのお母さんは喜ばない!」


 ナイフは怖いし、そうでなくても、体中クタクタだ。

 それでも、私だって叫ばずにはいられなかった。


 妹を殺されたって言って、伊織ちゃんをこんな目にあわせているこの人に、どうしても言ってやりたかった。


「お前に何がわかる!」

「わかります! だって、伊織ちゃんに血を吸わせたら死ぬかもしれないって、伊織ちゃんのお母さんがわからないわけないじゃないですか! なのにそんなことをしたのはどうして? 命をかけても助けたかったからじゃないんですか? 私がそうしたみたいに!」


 私だって、さっきは自分が死んじゃうのを覚悟して、それでも伊織ちゃんに血を吸わせた。

 絶対に、助けたかったから!


「そんな思いをしてまで助けたかった人が苦しめられて、喜ぶわけない!」

「くっ…………黙れぇっ!」


 私の言葉を掻き消すように怒号が飛び、ナイフが振り上げられる。

 けれどそのナイフは、急に弾かれたように手から離れ、宙を舞った。


 伊織ちゃんの魔術だ。


「僕は、結界の外に出ることはできない。だけど、魔術なら結界を通して使うことができるんだ」

「なぁっ!?」


 伊織ちゃんが、ヨロヨロと立ち上がりながら、手をこっちに向けていた。

 だけどその直後、またさっきまでと同じように、床に倒れる。


 ナイフで刺されて、渇きの苦しみが襲ってきて、もうとっくにボロボロなんだ。


 それでも、私を守ろうと必死になってくれている。


 なら、私だってできることをやるんだ。


「くそっ! くそぉっ!」


 今の久保田先生には、さっきまでの余裕も狂気的な態度もなく、ただただ焦っていた。


 慌ててナイフを拾おうとするけど、なんとかするなら、これ以上のチャンスはなかった。


 私だって、血を吸われてフラフラ。それでも、残った力を全部使うつもりで、拳を握る。久保田先生に、一気に詰め寄る。


 これ以上、こんなことをさせないために。伊織ちゃんを傷つけさせないために!


「はぁぁぁぁぁぁっ!」

「やめっ──」


 少し前にやめたとはいえ、空手有段者。

 その全力の正拳突きが、彼の鳩尾に直撃する。


 うっと鈍い声をあげて、久保田先生がバタリと倒れる。

 私はそれを、ゼイゼイと肩で息をしながら見ていた。

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