第36話 伊織ちゃんの過去 前編
次に気がついた時、私は何も無い真っ暗な空間の中にいた。
「ここ、どこ? 私、どうしちゃったの? まさか、死んだ?」
死んだことなんてないからもちろんわかんないけど、死後の世界って天国か地獄か、でなきゃこんな風に何もない寂しい空間ってイメージ。
嫌な想像をしたところで、急に、目の前の何も無い空間に、パッと伊織ちゃんが現れた。
「伊織ちゃん? 今のなに? ここってどこなの?」
「驚かせてごめん。ここは、夢の中。瑠璃ちゃんにもまだ見せたことがなかったけど、これも僕の使える魔術のひとつ。相手を眠らせて、夢を見させる術だよ」
魔術のことなんてさっぱりわからないけど、衝撃波や結界なんてのを見てきたんだから、夢を見させる術があっても不思議じゃない。
そう思ったところで、真っ暗だった世界に、急に光の塊が現れた。
「な、なに?」
現れた光の中には、見たことのない場所が映し出されていて、まるで映画のスクリーンみたいになっている。
そしてそこには、知らない人たちが映っていた。
大人の男の人と女の人。それに、小さな子どもが一人。
ううん。よくよく見るとその子どもは、私の知ってる人にそっくりだった。
「あの子、もしかして、小さい頃の伊織ちゃん?」
「うん。瑠璃ちゃんに初めて会った時より、さらに前の僕だよ」
やっぱり。
小さな伊織ちゃんを見て、思わず可愛いってはしゃぎそうになるけど、私の隣にいる今の伊織ちゃんは、どこか複雑そうな表情でそれを見ていた。
「あの、男の人と女の人は誰なの?」
「女の人は、僕の母さん。隣にいる男の人は、そのお兄さん。僕にとっては、伯父さんになる」
伊織ちゃんのお母さん。言われてみれば、整った顔立ちの綺麗な人で、同じく綺麗な顔をしている伊織ちゃんと親子だってのは、いかにも説得力がある気がした。
「この頃僕は、初めて瑠璃ちゃんに会った時みたいに、普段はずっと家の中ですごしてた。けれど、渇きの症状が落ち着いてる時は、たまに外に連れて行ってもらうこともあったんだ。この日は母さんと二人で、伯父さんの家に遊びに行ってた」
伊織ちゃんがそう言うと、その時の記憶を再現してるのか、目の前の三人が動き出す。
小さい伊織ちゃんは、私が知ってる時よりも少しやんちゃっぽくて、伯父さんの家の中を珍しそうにあちこち眺め、うろちょろしてた。
やがて帰る時間になったのか、伯父さんは、伊織ちゃんとお母さんを車に乗せ、走らせる。
ここでも伊織ちゃんは楽しそうで、平和なお出かけの一コマって感じ。
だけど、楽しそうなのはそれまでだった。
伊織ちゃんの伯父さんが運転する車の前に、突然、別の車が飛び出してきた。
伯父さんは慌ててブレーキを踏んでハンドルを切ったけど、そのせいで、乗ってた車は大きくスリップし、そばにあった電柱に激突。その車体を大きく凹ませた。
「──っ! なにこれ! 大丈夫なの!?」
思わず声をあげるけど、それを静めるように、隣にいた伊織ちゃんが言う。
「落ち着いて。これは夢。それに、僕が経験した昔の出来事なんだ。何をやっても、過去は変えられない」
そうだった。
伊織ちゃんがこうして生きてるってことは、小さい伊織ちゃんも、助かったってことだよね。
だけど、そう言われてもまだ不安はなくならない。
壊れた車の中では、乗っていた三人とも気を失っているのか、みんなグッタリして動かない。
中でも伊織ちゃんは、どこかにぶつけたのか、頭からドクドクと血を流していた。
(これって、本当に助かるの?)
吸血鬼が人間より生命力が強いってのは知ってるし、ここで死んでたら、私と会うこともなかったってのはわかってる。
けどそれでも、このあまりに酷い光景を見ると、どうしても心配せずにはいられない。
三人の中で最初に意識が戻ったのは、伊織ちゃんのお母さん。
それでも相当痛みは激しいみたいで、苦しそうに顔を歪めていたけど、すぐ横で伊織ちゃんが血を流してるのを見て、悲鳴をあげた。
何度も何度も伊織ちゃんの名前を読んで、頭から流れる血を止めようと、自分の服を押し当てるけど、それでも止まらない。
ほんの少しだけ、伊織ちゃんの目が開いて、かすかに意識を取り戻したのがわかる。だけど、相変わらず危険な状態は続いてる。
伊織ちゃんのお母さんも、呼びかける声はだんだんと涙声になっていき、血を止めようとする手は、ガタガタと震えていた。
(本当に助かるの? このまま死んじゃったらどうしよう)
見てるだけで、どうすることもできないのが歯痒い。
すると伊織ちゃんのお母さんは、何を思ったのか、急に伊織ちゃんの体を抱きかかえた。
そして自分の首元に、伊織ちゃんの顔を押し当てる。
「何をしてるの?」
思わず声に出すと、隣にいる伊織ちゃんが答えてくれた。
「自分の血を吸わせようとしているんだよ。そうやってたくさんの精気を得て、ケガを治そうとしているんだ」
言われて思い出す。大量の精気を得た吸血鬼は、致命傷みたいな大きなケガでも治ることがあるんだって。
小さな伊織ちゃんは、目を開けてはいるものの、まだほとんど動けずにいる。だけどかすかに、ほんのかすかにその口が動いて、お母さんの首を、少しだけ噛む。
お母さんは、一瞬その痛みから声をあげるけど、それから、伊織ちゃんの口が自分の首から離れないように支え直した。
その姿は、早く自分の血を吸ってと祈っているようにも見えた。
そして伊織ちゃんは、コクッ、コクッと、お母さんの首から少しずつ血を吸い取り、飲み始める。ゆっくり時間をかけて、お母さんの血を吸っていく。
するとどうだろう。頭にできた傷からドクドクと流れていた血が、みるみるうちに止まっていく。悪かった顔色が、あっという間に良くなっていく。
これが、血を吸った吸血鬼の生命力。知ってはいたけど、こんなに凄いんだ。
「これなら助かるよね」
期待を込めて、隣にいる伊織ちゃんに聞いてみる。
だけど、返事はなかった。伊織ちゃんは、死にかけの自分を見ていた時よりも、ずっとずっと険しい様子で、この光景を眺めていた。
「……伊織ちゃん?」
その時、伊織ちゃんのお母さんが苦しそうな声をあげ、その場に横たわる。
そうだ。吸血によって精気をとられるのは、凄く危険なんだ。
伊織ちゃんのお母さんは、既にかなりの量を吸い取られてるはず。もうやめないと、今度はお母さんが大変なことになるかもしれない。
なのに、伊織ちゃんは全く口を離そうとはしない。それどころか、さっきよりもさらに勢いを増して、お母さんから血を吸い上げていく。
お母さんは、時折苦しそうな声をあげるけど、それでも伊織ちゃんは止まらない。
そしてとうとう、お母さんの声がだんだんと小さくなっていって、その場に横たわる。
元々グッタリはしていたけど、今は、指の一本だって動かなくなっている。
それが何を意味しているのかは、私にだってわかる。わかってしまう。
そうなってようやく、伊織ちゃんは血を吸うのをやめた。そして、コテンと横になると、すぐにスヤスヤと眠り始める。
その寝顔はとても穏やかで、とてもさっきまで死にかけていたなんて思えなかった。
そこで、目の前に映し出された映像が、一度途切れる。
伊織ちゃんは、相変わらず険しい表情を崩そうとはしなかった。
「ねえ。この後、お母さんは……」
どうなったの? そう聞こうとして、途中で言葉が途切れる。
わざわざ聞かなくても、今のを見ればだいたいの想像はつく。そしてそれを伊織ちゃんに言わせるのは、あまりに残酷だと思ったから。
だけど伊織ちゃんは、途切れたその言葉に、しっかりと答えを返した。
「死んだよ。僕が血を吸ったせいでね」
やっぱり。
こんなこと、聞くんじゃなかった。伊織ちゃんに言わせるんじゃなかった。
後悔するけど、もう遅い。
「大ケガをしたことで、僕の中にある、命の力とも言える精気もなくなって、渇きを発症してたんだ。そんな時に血なんて吸わせたものだから、止められなくなった。ううん、きっと普通の吸血鬼なら、こんなことにはならなかった。けど僕には、渇きによって引き起こされる吸血衝動を、抑えることができなかった」
その時、また目の前に光が集まって、さっきとは別の場面が映し出された。
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