例えあなたが持ち得たとしても

 スマートフォンから過去の自分の断片を拾っていく作業にも、限界が見えてきた。

水気を含んだ食べ物が好きだがきゅうりは例外、友人関係は太く短くというタイプで連絡先を交換している人数こそ少ないがその連中とは割とまめに連絡を取り合っているらしい、時々送られてきていたっぽいみどりさんの自撮りがかわいすぎて行き場のない愛おしさに襲われ無性に声を聞きたくなって困る、など。

連絡を取るようなチャットアプリ以外にSNSアカウントを作っていた形跡がないから、あまり自己顕示欲はなかった方なんだと思う。


 手作りのお弁当(とても美味しそうな出来栄え)、帰りしなに見つけた野良猫、友だちとふざけて撮られた写真、夕焼け。

写真には必ず一言なにかコメントを添えて、みどりさんは日常のよしなしことをつぶさに教えてくれる。

それにおれもなにか簡単な反応を返して、時にはこちらから何か写真を送ったりもする。

こっちはベッドとたまに廊下や別のフロアを散歩するぐらいで行動圏が狭いから、みどりさんから送られてくる写真ほどバラエティ豊かなものではないけど。

特に代わり映えのない、穏やかで小さな日常を共有している日々だ。

そこには終わらせたくないと願ってしまうような倖せがあった。


 精密検査の結果、脳にも身体にも異常はなし。

退院の日は、選択の時はすぐそこまで迫っていた。

読書するか寝ること以外何もできない病室の中で、日毎に申し訳なさ、後ろめたさが募っていく日々だった。


 全てを失った抜け殻みたいな、そんな人間にいつまでもみどりさんを付き合わせてしまっていいのだろうか。

みどりさんはちゃんと今を生きてる、時を止めてしまったおれとは違う。


 気付けば今日も日が暮れてきて、いつも通りみどりさんが病室まで足を運んできてくれた。

ありがとうって伝えれば、先輩はいつもいつも律儀ですねえ、なんて微笑を浮かべてくれるみどりさんが何より大切だから、言うことがある。

そのうちきっとじゃきりがない、今声を上げなければ意味がない。

だから言い出さなければいけない、大切な人を手放してから訪れる喪失感に怯える身体に喝を入れて。

震えた声しか出せなくとも、どれだけ情けない醜態を晒すことになるとしても、切り出さなければ。


 そう強く思うほど、声が出せない。

要約してしまえば、さよなら、なんて簡単な言葉にいつまでも詰まっていて、この期に及んでみどりさんの目を見つめたり少し逸らしたりして戸惑わせてしまっている。

みどりさんの吸い込まれてしまいそうな大きな瞳はいつ見ても神秘的で、おれの醜い意地とか虚勢なんてものは全て見透かされているんじゃないかと思わせるような知性を宿していた。


 みどりさんはいつまでも言い淀んでいるおれの手を取って指を絡ませて、何を言うでもなく、ただ目を細めて花のようにふんわり笑った。

そういえば怒ったり悲しんだり、みどりさんのそういうマイナスな感情を見たことがない。

いつもニコニコ朗らかで楽しそうに振舞っていて、それが人前、あるいは恋人の前だからと意識的に振舞っているのか元来の穏やかな性質が滲み出た無意識的なものなのかは判断しかねるけれど、おれにとっては救いになっていた。

穏やかなみどりさんと居ると、自分も穏やかでいられる。


 どうしてみどりさんがボディタッチを好きなのか、少し分かった気がした。

手を繋ぐ、ただそれだけのことで安らぐこともある。

伝う人肌の温もり、同じ温度を二人で分け合うことで見える景色。

それだけでさっきまでの躊躇いは嘘みたいに消えて、本心がスッと口を衝いて出た。


「おれ、みどりさんのことが好きだよ。 だから、足枷になりたくない」


「……??」


 取り留めのないことを言いたくなくていきなり本題から入ってしまったから、何のことか全く分からずにみどりさんは首をかしげて疑問符を浮かべている。

美人なのに所作がかわいいのって反則だと思う。

だからここ数日ずっと悩んでいたことを、極力簡潔に、端的に心掛けてその要旨を説明した。






「順番なんですよ、先輩」


「大袈裟な話じゃなくて、先輩は私の命を救ってくれたんです。 ほんとですよ?」


「だから、今度は私が先輩のお役に立つ時。 それだけの話です」


 そうしてみどりさんは、要点をかいつまんで俺達の出会いからこれまでの経緯を語って訊かせてくれた。

これは……過去のおれ、中々やるじゃんその3だな。

それでも実際同じ場面に立ち会えば同じようなことをしたと思うし、おれは単純に昔からみどりさんに好意を寄せていたんだなあ。


 そんな話を聞いてしまえばこそ、やっぱり記憶の有無は意識せざるを得ない所だった。

だっておれたちは、同じ記憶を同じ熱量では共有できない。

みどりさんにとってそれは掛け替えのない大切な記憶で経験なんだろう、それでもおれには仄聞で、自分は何もしてあげられないのにただ捧げられるだけの生活を送るような理由にはならなかった。


「ふふっ、納得できませんか? 先輩、不安って顔してます」


 やっぱり杞憂なんかじゃなくて、みどりさんはその両の眼でおれの内心を見透かしていた。

先輩はご自身で思うよりずっと分かりやすい人です、かわいいからそのままでいて下さい、って優しい声音で笑うから、誰よりも愛しい。


 そのまま、みどりさんは端正なかんばせを寄せてきて、鼻が触れ合うほどの至近距離で見つめあう。

みどりさんの瞳の天球の中、そこには動揺を露わにした情けないおれの姿があった。

おれの姿、だけがあった。

なんだ、最初から迷うことなんてなかった。

この人の瞳はおれしか映していない。

意識しなければ足元になんて注視できない、だからずっと気付けなかった。

焦がれたその場所には、既に立っていたのだった。

おれは鏡写しの自分にずっと嫉妬していたのか、なんとも恥ずかしい話だった。

そのまま、触れ合うだけのキスをした。

慈しみを帯びた瞳がおれをずっと優しく見つめていた。


「例え先輩が記憶を持ち得たとしても、私には関係ないんです。 これからも、お傍にいさせてくれませんか」


 間近で見つめ合っているから、瞳が揺れたのが分かった。

おれにとってみどりさんは柳に風で、物腰穏やかながら常に泰然として動揺したりしてるのを見たことがなかった。

そんなみどりさんが、こんな答えの分かり切った問いに少しでも不安を覚えて、それでも勇気を出してくれたことがどうしようもなく愛おしくて、想いを込めて再び唇を寄せた。

なんだか、みどりさんと初めて会った時の気持ちを思い出しながら。


 


 


 


 


 


…………


 


 


 



 目が覚めたら見慣れない天井だった。

無機質なトラバーチン模様……役所?

いや、消毒液か薬品か分からないけど独特の匂いがする、多分病院だ。

清潔なベッドで寝かせられていたみたいで、身体には見たことのないような医療機器が沢山くっ付いていた。

腕に刺さっている点滴の感覚が酷く不快だった。

どうにかならないだろうかと、誰かを呼び込むつもりで声を出そうとしてみた。

口腔から空気が漏れたような掠れた音しか出なかった。

声帯が上手く機能していないようで、何度試みても声未満の掠れた吐息しか出てこない。

もしかして自分は結構長い期間寝たきりだったんだろうか。


 首元を触ったり喉元をぽんぽん叩いてみたり試行錯誤しながら周囲を軽く見渡してみると、手元に『呼出』と書かれたボタンを発見した。

押してみる。

1分程待っていると、すぐさま血相を変えた看護師さんとお医者さんが複数人で訪れてきて結構な騒ぎになってしまった。






 医師から病状についての説明を一通り受けた後、おれは病院の入口脇に生けてある生花を眺めて和んでいた。

ある種の現実逃避である。

何せ、実感が湧かない。

まるきり何も覚えていない状態でいきなり知らない世界に放り込まれたみたいで、何もかもが敵に見える、なんてことは実際にはないけれど、全てが床材のリノリウムのように温度のない硬くて無機質なものに見えた。


 生花はいい。

花を植える、水をあげて育てる。

そんな簡単なことなのに、素朴な愛がなければ続けられない。

誰かが毎日慈しんでいるんだ。

プリザーブドフラワーなんて花の美しさを閉じ込めた便利なものや造花だってあるのに、それでも病院から生花は無くならないことが、なんだか嬉しかった。

この世に生花より美しい花なんて、人が育てた自然より美しいものなんてないのだと思える。


 ややあって、やっと病室まで戻ってこれた。

大きな大学病院は構造が複雑で迷ってしまう。

病室のベッド脇には場違いなくらい華やかな雰囲気を纏う綺麗な女性が立っていて、まさか自分の知り合いだなんて思わないから、病室を間違えてませんか、と声を掛けた。


「えっと……こんにちは! わたし、鷲見 翠 って言います」


「実はあなたの彼女なんですよ、『らぶゆー』ってことです……えへへ」


 瀟洒で怜悧な女性は、その浮世離れした美しい容姿からは想像も付かないような茶目っ気を見せながら名乗ってくれた。

みどりさんと言うらしい、声に出したくなるような綺麗な名前をしている。

元々おれに近しい人だったらしいのに、記憶のないおれに特に動じることなく対応してくれているから、多分担当医にでもおれの病状を訊いていたのだろう。

今丁度見にいった、この病院に生けてある生花のような落ち着く香りがして、その場で調べた花言葉を思い出した。


『清潔』『優美』『あなたを待っています』


 まさにこの女性そのもののような言葉ばかりで、花みたいに人に歓びを運んでくれる人なんだと思った。

そんな様子のおれにみどりさんは首をかしげて、それから、目を細めて花のようにふんわり笑った。

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溺愛してくれる彼女のことを思い出せない カボチャの豆乳 @pumpkin_soy-milk

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