君の欠落が愛しい

 買い物に出掛ける度、父親に連れられて歩く子どもが羨ましかった。

自分の周りには全幅の信頼を寄せて隣を歩ける、頼れる大人など一人もいなかったから。

母親に買って欲しいお菓子をねだる子どもが妬ましかった。

私は母親から必要最低限の生活費しか貰えなかったから。


 父親の顔を知らずに育った、私が生まれる前に蒸発したと言うから、碌な人間じゃなかったんだろう。

物心が付く頃から家事は一通りこなすことができた。

自分でしなければ生活が立ち行かないからだ。


 典型的な機能不全家庭で育った私は、母親の死後親戚中をたらい回しにされている内に取り繕うことを覚えた。

外で人と会う時の母親のように明朗快活で溌剌とした人間を装った方が他人からの覚えが良いことを理解してからは、強固な外骨格は手放せなくなっていた。

幸いにも私は容姿の作りが良いらしい。

築いたコミュニティ内で揉め事が起こりそうな時は毅然としていれば、黙っていても周囲が私のために尽力してくれた。

生まれて初めて、少しだけ親に感謝した。

嘘だ、ありがたいと思えたのは親が繋いだ遺伝子だけ。

私に無関心でいた彼女から受け継いだ優れたX染色体だけが役に立っていた。

興味がないなら、必要のない命だったらどうして私を生んだのだろう。

死ぬ前についぞ直接訊くことの叶わなかった疑問が、脳裏をずっと覆っている。

鏡を見遣れば母親譲りの童顔が、処世のために覚えた薄気味悪い愛想笑いを浮かべていた。


 何親等なのかも分からないような遠縁の元へ預けられて、そこの家庭のご厚意で高校に通わせてもらえることになった。

流石に申し訳なくて、幾度か話し合いをした。

他人にこれ以上迷惑を掛けてまで生きていたくはない。

くだらない愛の結果で生まれ落ちて、誰にも望まれていないのにこれ以上呼吸を強いられるのは苦痛だった。

あなたはもう家族なのだから何も気にすることはない、と言われて脳が理解を拒んだ。

だって、この世に無償の愛なんてものは存在しないと私は身を持って知っている。

人付き合いとは損得勘定でするものであって、見合うメリットを提示できない私には進学なんて選択肢はない筈だった。


 身の丈以上の平穏には代償が必要だと思った。

やがて私は、ずっと自分で自分を許せないでいる自罰的な意識を自傷行為という形で消化し始めた。

自らの身体に傷を付ける行為に耽っている間は、些末な他事に心を奪われることなく澄んだ心根でいられた。

この陰鬱の類いも全て切り裂いてしまえればと、幾度も願った。

誰に恥じることなく凛と立って生きていける自分に変わることができれば、醜い自分のことも少しは愛してあげられたのに。


 きっかけはほんの些細なことだった。

委員会の活動で少し関わった程度の顔見知りの先輩に、油断して手首の傷痕を見られた。

彼は他人のために涙を流していた。

私は何故だかその雫を美しいと思った。

昔から人から寄せられる視線には敏感な方だったから、不自然なまでに彼と視線が合うことには気付いていた。

鳳 千沙 先輩。

おおとり なんて珍しい苗字だなとか、千沙って女性みたいな名前だとか、他の不躾な人たちに比べたら凄く落ち着いていていつでも自然な振る舞いなのに紳士的でまさに先輩って感じとか、その程度の認識でいた人。

他の有象無象よりは少し上の顔見知り、ぐらいにしか思っていなかった千沙先輩のことを知りたいと思った。

私の醜い傷痕に侮蔑や憐憫を向けない初めての人が今までどんな人生を生きてきたのか、関心を覚えた。


 ご飯を食べてる時に話し掛けられるのを嫌う。

お肉やお魚より野菜の方が好きで、なんにでもポン酢をかけて食べる。

甘いものはあんまり好きじゃないけどカボチャと梨は好き。

生まれてから一度も虫歯になったことがなくて、ホワイトニングしたみたいに歯が真っ白で綺麗。

休み時間、時たま教室のベランダで無防備に眠ってるらしい。

人が話したそうにしてる時は黙って目を見つめて言葉を促してくれる。

面倒事を率先して引き受けるようにしているから友だちは多くないのに人に頼られやすい。

騒がしいのがあまり好きじゃないから、楽しそうにしている皆を遠巻きに眺めてぼんやりしていることが多い。


 あなたのことを一つ知る度に世界が広がっていく。

尊敬とか慕情とか、知らなかった気持ちが沸々と芽生えて募っていく。

母が夭逝した理由が手に取るように分かった、この感情は危険だ。

自傷行為で得られる心の静謐が嘘のように、その何十倍もの脳内麻薬が報酬系を満たしているのが肌感覚で理解できた。

だって今や、あなたの欠落すべてが愛しい。

マイペースで人付き合いがあまり上手ではない所も、日中でも時々ずっと眠そうにウトウトしている所も、実は陰でこっそり人気があってあまり活動的ではないクラスメイトからは倍率が高い所も。

瞬く間にあなたに惹かれてしまって、恋人になるまでにそう時間は掛からなかった。


 望んでいたあなたの愛が手に入った、そうなると今度は後ろめたさが私を襲った。

過去の私がどれだけ愚かな行為に手を染めたのか理解した頃には、全てが手遅れだった。

左手首の醜い傷痕は生涯消えない、こんな薄汚れた身体では先輩にも愛されない。

でもあの日の私が理不尽な社会の軋轢から逃避するためには、自傷する他に道はなかった。

前借りしていた罪過と責任を持って対峙しなければならない時が来た、それだけの話だった。

私はどこで道を間違えたんだろうか。

人生はいつもこんな調子だ。

ただ必死にその場を凌いで生きているだけなのにいつまでも不幸が染み付いてしまって、私だけどうあっても幸せには近づけない。


 一度幸福を知ってしまったから、痛みはより増した気がした。

先輩は人数こそ少ないけど友だちもちゃんといるし、経済的に安定している極一般的な核家族の元で毎日幸せに暮らしている。

そのことを恨むつもりはない、大切な人の幸福は純粋に嬉しい。

片や私は上辺だけの付き合いの友人未満に囲まれて、引き取り先の遠縁の親戚とも上手くいっていない。


「どうして、私だけ……」


 今まで敢えて考えないようにしていたことが、涙と一緒に口を衝いて出た。

私が望んで止まない人並みの幸福が世の中には有り触れている。

なんの苦労もせずに食事にありつける人生の方が幸せに決まってる、でも私はそうじゃなかった。

私だけがずっと不幸に曝されている。


 この意味のない苦痛はいつまで続くのだろう。

これからもずっと、惨めな人生を歩んでいくことを強いられている。

耐え難い苦難だった、最早何かしらの意味を見出すこともできず、ここで終わりにしたいと思うほど。


 手首には、二筋の醜い切り傷。

この太い血管を裂いてしまえば、今すぐ全てを終わらせることができる。

在りし日の母と同じように。


 この段になってやっと理解した。

なるほど、生まれてからここまでの道は全てこの遺伝子によって決められていたのか。

そう思えば全部が有機的に繋がった。

どのような過程を辿ったとして結局私も母の後を追って、同じ顛末を迎えようとしていた。

血は争えないとはこういうことを言うのかもしれない。

なんて無意味で無価値な人生。

ほら、ついにX染色体でさえ役に立たなかった。

せめて、私はあなたの胎内から生まれてきたことを呪いながらこの命を終わらせましょう。


 そうして私は常備菜を確認しに冷蔵庫へ向かうような軽率な足取りで、包丁を取りにキッチンへ向かった。

果たしてそこには、先輩が居た。

訊けば、私の遠縁とグルになって私のサプライズパーティーを計画していたのがたった今バレてしまった、と。


 私は動けなくなってしまって、その場で蹲った。

奇遇にも、死のうとした今日は私が生まれた日だったらしい。

勿論誰かに祝われたことなんてないし、生まれてきたことを嬉しく思うこともなかったからそれで良かった。

でも、今日、全部翻ってしまった。

あなたにそんなことを言われてしまったら、無邪気に喜ばれてしまったら、私はきっと大切にしてしまいたくなる。

あなたに大事にされていると思えるから、この日のことを後生抱えて生きていたくなる。

まだ命を続けたくなってしまう。


 私は蹲ったまま、咄嗟に袖を捲って左腕の傷を露出させた。

きっと、心のバランスが保てなくなってしまった。

命を閉じようとした所で望外の幸福に巡り会ってしまって、ただ訳もなく傷付きたかった。

露悪的な行為だった、私そのもののような醜い傷を晒すことで、いっそ悪し様に罵ってもらえれば幾らか安心できたのかもしれない。

幸福に怯えていた。

こんなに素敵な人、醜い私には釣り合わない。

人には身の丈があって、過分な欲望は身を滅ぼすと知っていたから。


「おれ、みどりさんの傷痕が好きになってきたよ。 みどりさんが必死にもがいて、戦ってきた証だから、勲章。 そう思うと、なんか愛しくて」


 この傷は私の罪の象徴だった。

唾棄すべき醜いもの。

それなのに言葉一つで、卑しくも今までの私の人生全てを肯定してもらえたような気がした。

ただ自分はずっと目の前のことに必死で、誰に誹られても一生懸命必死に戦ってきたから、その歩みを誰かに肯定してもらいたかっただけなのかもしれない。

たったそれだけのことも叶わない人生を送ってきたから、ふらつく足で倒れ込むように先輩を抱き締めた。

生まれて初めて、心の底から涙が溢れ出て嗚咽が止まらなかった。

15年間抱えてきた負債を、心に巣食う呪いの全てを吐き出せたような気がした。






 先輩が記憶喪失になったと聞いて、目の前が真っ暗になった。

カラスみたいに、私が先輩に不幸を持ち込んでしまったのかもしれない。

どうしてこんな時ばかり平等に災厄が降りかかるのか、神を恨んだ。

代われるものなら代わってあげたい、空虚で伽藍洞な私の記憶全てと引き換えに先輩の記憶が戻るならいくらでも捧げられるのに。


 何より嫌なのは、それをほんの少しでも嬉しいと思ってしまったこと。

だって、精神にも身体にも致命的な瑕疵ばかりを抱える不良物件もいい所の私をそれでも良いと笑って抱き締めてくれる先輩があまりにも可哀相で。

わたしは先輩みたいに素敵な人の隣を歩くのに相応しくなくて。

だから、薄汚い傷を抱えた私と記憶を失った先輩で、欠落を抱えた者同士どうにかお似合いな形で、これでやっと対等になれたって、そんな醜いことを少しでも考えてしまった。


『先輩のこと、ずっと大好きです』


 私は先輩に想ってもらう資格があるような人間じゃない。

あまりにも浅ましくて低俗で、どうしようもなく惨めだ。

本当にごめんなさい、こんな女あなたの隣に相応しくないのに、それでもあなたのことを愛していて、あなたの前から消えることができない。


 やっぱり身に余る過分な幸福には代償があるのかもしれない。

私が先輩と出会って、恋をしたこと。

それが愛情に変わったこと。

全てが私なんかには過ぎた幸福だった、泡沫の夢と疑うほど。

その幸の代償が先輩の記憶だとしたら、身勝手な自責の念で命を投げ出す前に私は相応の責任を果たす義務がある。


 私は短い人生で遭遇してきた困難の全てに場当たり的なその場しのぎでしか対処できなかったから、いつだって今日明日のことで手一杯で未来を考える余裕なんてなかった。

だから、今がその時だと思った。

順番待ちの時は終わった、次に盤上の駒を動かすのは私なのかもしれない。


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