奪い取った場所で得た幸福
甘い香り、と一口に言っても様々ある。
砂糖菓子や綿菓子のような甘味料と糖の香り。
水分を含んだ大地で育てられた果実のような瑞々しくフルーティーな香り。
子ども心を思い起こさせるクリーミーで心地よいミルクのような香り。
みどりさんの香りは、そのどれにも該当しない。
凛と咲く花のように甘酸っぱいフローラルな香りで、香水のようなわざとらしい甘ったるさとは対極にある。
造花には出せない優しい華やかさが香る、そういう意味ではフローラルでありながら瑞々しい。
「首筋、そんな真剣に嗅がれると流石に恥ずかしいです先輩……」
「罰です、甘んじて受け入れなさい」
みどりさんを抱き締めて拘束しているのには訳があった。
あれは先日のこと、大変な不覚だった。
確かにおれが無防備ではあった、繋がれたみどりさんの手や指を触ったり撫でさすったりしていた。
それが意図せずみどりさんのスイッチを点けてしまったようで、あれよという間に抱き寄せられ、耳に吐息を吹きかけられたり言葉攻めされたり耳元で囁かれたり、時間を忘れて二人で顔中にキスの雨を降らせてしまった。
当たり前だが、お見舞いの時間には限りがある。
この病院では原則30分、それが一日の面会で許される時間の全てだった。
先日はその貴重な時間を殆どキスで消化してしまったわけである。
サキュバスかこの人。
今日も快活な挨拶と共にお見舞いに来てくれたみどりさんが、さり気なくおれの唇をずーっと注視しているのは知っている。
彼女は用意された椅子に座り込むやいなや鞄からリップグロスを取り出し、ぷるぷるした瑞々しい唇に塗り始めるなどという暴挙に出た。
ツヤツヤと光沢を放つ唇はあまりに淫靡で、元より浮世離れした美しさのみどりさんをより麗しく彩っている。
自分で強調して視線を誘導しておきながらおれの目線に気付いたみどりさんは、羞恥で僅かに頬を紅潮させながら唇を手で隠す。
その指の先で、口元が弧を描いているのがよく分かる。
「……えっち」
まるでおれを咎めるようなことを口では言いながら、目を細めてより淫靡な表情を形作りゆっくりとしなだれかかってくるみどりさん。
あれ、なんか良い雰囲気では?
いけない、既視感が凄い。
このままでは先日の失態の二の舞を踏みかねない。
もう時間いっぱいまで二人して仲睦まじく乳繰り合うわけにはいかないのだ。
そしておれはみどりさんにこれ以上狼藉をさせないよう、思い切り抱き締めることで拘束するのだった。
以上がこの体勢に至る経緯。
やっぱりこの人サキュバスなのかもしれない。
「……キスがしたいです、先輩……」
「そんな悲しそうな声出しても、駄目なものは駄目」
こうしてみどりさんを抱き締めていると、よく花を思い出す。
病院の廊下ですれ違う見ず知らずの他人の家族が見舞いに持ち寄る、病室で生けるために持ち込まれた生花が酷く羨ましかった。
花のように、綺麗な形を残したまま誰かに手折られることができたら。
鮮やかなまま枯れたいと思う。
それが叶わないなら、せめて誰からも綺麗さっぱり忘れ去られたい。
誰も知らない場所で一から人生を始めて生まれ直したい。
人が本当に死ぬのは、誰かの想い出の中から消えた時だ。
そういう意味で、おれはまだ大切な人の中で生き続けている。
16年の歳月を生きてきた、今のおれと同じ姿をした似て非なる自分。
人は記憶を失ってしまえば人格まで損なわれてしまうのか。
おれは、その通りだと思う。
今まで培ってきた経験が、記憶が人格を形成する。
それら全てを失くしたならそれはもう、同一人物とは呼べないんじゃないか。
家族も彼女も、おれと交わる視線の奥に過去のおれを重ねている。
彼らの願いを叶えることはできない、過去とは記憶に連続性がないから。
おれは自分の知覚しない過去の自分のことを、どうしても同一人物には思えない。
未だに他人の人生を追体験しているような非現実感だけがあって、借り物の身体に生まれたばかりの心が宿っている。
どうしようもなく過去に囚われていた。
今までの自分はこびりついて拭えない油汚れのようだった。
実際には逆なのだと思う。
誰からも望まれてないのはこの自意識で、あるいは今の自分のせいでほんの少し前までこの身体を動かしていた本当の自分が表出できないのかもしれない。
鏡写しの向こう側に今までの自分がいて、それは表裏一体のような感覚。
今死ねば、同じ傷を負えば向こう側の自分に全て戻るならこれ以上誰も悲しまずに済むのに、現実はそう簡単じゃない。
「ふぅーっ……」
刹那、温かな吐息が耳の中を吹き抜けた。
耳だけは特別に鋭敏な感覚があるため身体が反応してしまい、一気に思考が呼び戻される感覚があった。
口元を指で隠して上品な笑みをみせるみどりさんに、なんだか恥ずかしくなってしまった。
ほんとに油断も隙もないな……
曇天から晴れ間がのぞいて、窓から夕陽が差し込んだ。
眩さに目を細めれば、おれを抱きすくめる腕にぎゅっと力が込められたのを感じた。
少し痛いぐらいに。
「こうすることで太陽から先輩のこと隠してます、奪われちゃう」
みどりさんからの好意は素直に嬉しい、身体より心が痛いほど。
それはおれに向けられたものじゃないことを分かっているから、心臓が軋んでいく。
光が強いほど、影は色濃くなる。
空を黄昏色が支配したのはほんの僅かな間だけで、斜陽はすぐに翳りを見せ病室は瞬く間にどうしようもないような夜闇に覆われた。
それが途方もなく恐ろしいものに感じられて、おれはみどりさんを抱き締める腕に力を込めた。
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