偏心願望

小狸

短編


 立石たていし幸則ゆきのりは、何かになりたかった。


 それは職業であり、しかし職業ではなく、記号であり、しかし記号でなく、夢であり、しかし夢ではなかった。


 結局何なのだよと思うかもしれないけれど、その感情の正体は立石自身にもつかむことはできていない。


 とにかく、「何かになりたい」という欲求が、特に強かった。


 彼にとって何が不幸だったとえば、「何かになるため」の環境については、いつでも整っていたことである。


 両親がいて、家族がいて、家庭内に不和なく、そこそこの世帯収入を得ていて、自分の部屋があり、自分のパソコンがあり、自分の空間があり、自分の居場所があり、いじめや差別とは無縁で――改めて「幸せ者だ」と日々実感することこそないけれど、立石は間違いなく、恵まれた側であった。

 

 ただ、であった。

 

 機材を整えて環境をしつらえてあらゆることに表層だけ手を染めて、それ以上は首を突っ込まない、人生を懸けるなどということはしなかった。


 結局立石は、流れるように高校、大学を卒業して会社員になり、毎日実家から通勤している。


 一応は社会人という記号を得たのである。


 しかしその後でも、立石の「何かになりたい」という思いは、消えることはなかった。


 そして、若くして成功した者、特に同年代で世間から脚光を浴びる者に対する嫉妬心もまた、同様に強かった。


 ――いや、いやいや。


 ――分かっている。


 と。


 立石はそう思い、自らを律する。


 ――若くして成功するということは、それ一つの分野に、それだけの時間を掛けて、努力し続けてきたことの結果に違いない。


 ――もしくは、初めから才覚があり、それを芽生えさせるだけの環境に恵まれたか。


 ――いずれにしろ、どこかで努力は積み重ねているのだ。


 ――だから、そこに嫉妬することは、間違っている。


 ――そうだろう。


 しかし、けれど、だが、だけれども。


 立石はどうしても、己の内に存在する嫉妬心から、目を背けることができなかった。


 それは別段、自身が、同世代の天才達と同じ土俵に登りたいという訳ではない。


 ただ、自分には彼らのような生き方が、できなかったというだけなのである。


 ――いや、違うか。


 ――結局は、ただの承認欲求だ。


 ――楽をして同じ土俵に立ちたい、努力せずに脚光を浴びたい。


 ――実際自分は、機材だけ揃えて、格好だけ整えて、何も手を付けていないではないか。


 立石はそんな自分が、たまらなく嫌いであった。


 一歩を踏み出す勇気を持てない、どころか、観客席に座ることすら初めから諦めている。


 そんな自分に対して、粘性のある嫌悪感を持っていた。

 

 べっとりと、立石にこびりついて離れなかった。


 そんな折である。


 立石の友人が、を浴びたのは。


 小説の新人賞を受賞したという報せを受けたのは、つい先日のことである。


 その友人は、高校時代からの付き合いであった。


 立石が創作、小説の執筆を試みていた時期に、よく創作論を交わしていた知己であった。

 

 友人も同じ歳に社会人となった。


 しかし友人は上司運が悪く、適応障害を発症して会社を退職――その後治療が進んだが、家族からの冷遇、先輩からの詐欺行為などに遭い――結果的に統合失調症を患い、職務不可能と診断され、生活保護と障碍者手帳を給付されながら何とか生きている――そんな限界を凝固したような人生を送ってきていた。


 間違いなく、立石からは考えられない、苛烈な人生である。


 そんな彼が、まだ小説を書き続けていることは、立石は知っていた。

 

 インターネット上にアップしたり、公募小説賞に応募したりしていて、時折立石もその文章を読んでいた。


 中々そう突発的に芽は出ることなく、時折一次選考、二次選考に通ったという報告が来ても、その後は不通となることがほとんどであった。

 

 そんな友人の様子を見ながら、立石は一つの、ある感情を抱いていた。


 それは、こいつには負けないな、という確信である。


 自分には環境があり、一応は執筆にも手を付けている。


 加えて小説家というのは、なろうと思えば誰にでもなることのできる職業である。


 今、自分が、仕事など全てを投げ出して小説を書いたら、確実にこいつよりは上に行くことができるだろうという――ある種の優越感を、友人と会話するたびに抱いていた。


 友人は、そんな優越感を、ほどよく満たしてくれる存在であった。


 のだが。


 今回、その友人が、新人賞を受賞することになったと聞いた。


 小説家として、文壇に立つのだという。

 

 新鮮気鋭の若手作家として、評価されるのだろう。


 脚光を浴びるのだろう。


 それを見て。


 知って。


 居ても経ってもいられなくなり、気が付いたら立石は行動していた。


 友人の住む小さなアパートへと向かった。


 幸い、家からは電車で一時間程で到着する。「直接祝わせてほしい」と言えば、友人は喜んでと受け入れてくれた。


 友人は感情の起伏が分かりやすく、本当に制御しやすい。


 一時間電車で揺られながら、友人を祝う言葉をずっと考えていた。

 

 体感時間で三時間後、友人宅へと到着していた。


 友人は、珍しく笑顔で、立石を迎えた。


 そして、立石は、祝いの言葉を、言――





! ! ! ! に! ! に! !!!!!!!!!!」

 

 *


 こうして。


 香川かがわ県在住の会社員、立石幸則が、殺人の容疑で現行犯逮捕されたのは。


 令和れいわ五年の、十月八日の話である。

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