第09話:今すぐ君に会いたい
MHKホールでのコンサートを終えた私は一人、自宅の高層マンションに戻っていた。東京の事務所と契約してからずっと一人ぼっちの夜。大悟がいない一人ぼっちの夜。大悟を思い出すことができるものといえば、この
窓の向こうに見えるのは、星一つない夜の空、漆黒の夜空。月さえ見えぬ新月の夜。そんな暗闇の中、私は必死に希望の欠片を探す。心の海から、記憶の海から、必死に希望を探す。そして、やっとの思いでそれを見つける。
そう言えば大悟、絵の購入を検討しているお客さまがいるとか言っていた気がする。もしかして、もしかしてるかも……。そんなかすかな光を見つけた私は、慣れないストッキングを脱ぎ捨ててピアノの前に座ると、すぐに大悟に電話をかける。
「もしもし、大悟。今、大丈夫?」
「あぁ、俺は大丈夫だが、ゆきこそ大丈夫なのか? コンサートが終わったばかりで疲れているんじゃないのか?」
第一声で私の体を心配してくれる大悟。もうそれだけで愛情が伝わってくる。でも、今の私の心はそれだけでは満たされない。大きな穴が開いたバケツのような私の心は満たされない。
「うん、体は大丈夫。でも、心は落ち込んでるの。だから明るいニュースを聞きたいなっと思って電話したの。それで思い出したんだけど、ほら、ちょっと前、絵が売れるかもって言っていたじゃない? その話、どうなったかなって思って……」
私がそう言った瞬間、電話口から伝わる大悟のびっくりした気持ちと申し訳なさそうな気持ち。私はこの話題を出してしまったことをすぐに後悔したものの、大悟はちゃんと落ち着いて私の話を受け止めてくれた。優しさに満ち
「ゆき、残念だけどその話、断られたよ。俺みたいな独学でやってきた画家は、どうしても最後の一歩が届かない。実績もない、大先生の後ろ盾もない、芸大を出たわけでもない、そんな画家の絵を買ってくれる好事家なんてなかなかいないものさ。商業的に売り出すことができる画家や賞を受賞できる画家は、いつも大先生の弟子と相場が決まっているんだから……」
大悟から私に伝えられた現実は、お世辞にも好ましいと言えるものではない。しかし大悟の声は明るく、私が落ち込んでしまわないような配慮に満ち
「なにそれ、おかしいじゃない。大和展は日本で一番権威がある美術展の一つじゃない。大悟はそこで内閣総理大臣賞まで取ったじゃない。これ以上なんの実績がいるというの?」
私は自分の心から漏れ出してくる憤りを隠すことができず、思わずそれを大悟にぶつけてしまう。しかし大悟はじっと押し黙り、私の言葉を黙って受け止めてくれる。
大悟っていつもそう。つらい気持ちや無念の気持ちを
「そもそも俺が大和展で内閣総理大臣賞をとれたことがおかしいのさ。俺みたいにまともな絵画教育を受けていない、画壇にも属していない、そんな独学の画家が、絵を好きだから描いていた画家が賞をとること自体奇跡に近いんだから……」
しばらくの沈黙の後、大悟はぽつりとそう
「そうね、芸術の世界に身を置くものなら自分の先生が賞に影響するなんて誰でも知っている。私のいる世界だってそう。私だってアラン先生の推薦がなかったら、フレデリック国際ピアノコンクールにでることさえできなかったんだから……」
そこまで言って私は一呼吸おく。
「でもね、大悟は違う。大悟は私とは違う。誰の後ろ盾もなく、コネもなく、実力で大和展で内閣総理大臣賞をとったじゃない。これは本当にすごいことだと私は思っているよ。だから元気をだして大悟。私の自慢の彼氏なんだから」
私は自分の中にたまっていた
「そうだな、いつまでもアルバイトで生計を立てるわけにもいかないからな。はやく絵が売れるようになって、絵だけで生活できるようにならないとな」
大悟のこの言葉が私の心に突き刺さる、私は自分の心が張り裂ける音を聞く。
「そんなことない。私がちゃんと大悟の絵を買っているじゃない。確かに、実家に置きっぱなしになってる絵も多いけど、でもでもちゃんと絵は売れてるじゃない。これから私以外のお客さまも増えてくると思うよ。だって、大悟は大和展で内閣総理大臣賞をとったんだから」
私は、できる限り冷静に話していたつもりであったのだけれども、大悟に対する気持ちが、その強い気持ちが心にした感情の
「私はね、大悟の絵は絶対に売れると思っているの。私はね、リヨンのテット・ドール公園で大悟の絵を見てから、ずっと大悟のファンなんだよ。ずっとずっと大悟の絵を好きでいるんだよ。それじゃダメなの? それじゃ大悟は満足できないの? 今の大先生なんて、あと二十年もたてば死んでいなくなるんだし、気にしなくてもいいじゃない。私が大悟の絵をずっと買ってあげる、私が死ぬまでずっと買ってあげる。大悟の収入からしたら微々たるものかもしれないけれど、少なくとも絵を売ったお金が生活費の一部にはなってるでしょ? それなら画業で食べていけてるといえなくもないでしょ? 違う違う、大悟の絵は今売れてないだけなの、大悟の絵の良さを分かる人に巡り合えてないだけなの。フランツ・シューベルトだってその音楽が正当に評価されたのは死んだ後のことだったし、だからね、いいものは必ずわかってもらえるの、今、評価をあせる必要なんて全然ないの」
頬をつたう涙も、張り裂けてしまった私の心も、もう本当にどうでもよくなって、私は、ただ、心の奥からとめどなく
「ありがとう、ゆき。確かにゴッホも絵が売れたのは死んだ後のことだったし、焦る必要はないかもしれないな。でもゆきは、俺の絵は死んだ後にしか売れないっと言っているのかい?」
そう言って大悟は明るく笑ったものの、すぐに「これは俺が悪かった、ごめんな」と謝罪をしてくれた。私は大悟のこの性格が本当に好き。たとえ冗談だとわかっていても、自分が少しでも悪いと思えば素直に謝ってくれる。だから私も素直になれるし、素直に謝れる。だからお互い思いやって生きていける。だから私はずっと大悟と一緒にいたいのだと思う。
「ところで、ゆき。今日はピアノを弾いてくれないのか? 最近、ゆきのピアノが聞けないから俺は寂しくて仕方がないんだ」
短い沈黙を経て、大悟は私にそう話しかけてくる。そしてこれが私の乱れた心を落ち着かせるためのなにかであることを、さすがの私も理解する。
「ありがとう、大悟。私のピアノを聞いてくれるんだ。実は私もピアノを大悟に聞いてもらいたくて仕方がなかったの……。でもごめんなさい。時間が時間だから、ピアノを弾くわけにはいかないの。だから電子ピアノで許してもらえる?」
私は頬に流れた涙をハンカチで拭くと、部屋の隅においてある電子ピアノに移動する。そしてイヤフォンジャックを分岐して、一つをヘッドフォンに、もう一つをスマートフォンに接続する。
「じゃあ、はじめるね」
私はそう言って、今日アンコールで弾く予定であったショパンのノクターン第二十番を演奏し始める。
夜の闇の中、電灯に照らされた部屋の中で、静寂に包まれた部屋の中で、電子ピアノの鍵盤を
「大悟どうだった? ちゃんと聞こえた?」
「よかったよ、とてもよかったよ、ゆき。本当にありがとう。しかも俺の一番好きな曲を弾いてくれたんだから感動したよ」
大悟のこの言葉を聞いた私は、電話口で静かに
私がフレデリック国際ピアノコンクールで弾いたピアノ協奏曲第二番、その練習曲がノクターン第二十番。ショパンの姉、ルドヴィカ・ショパンがピアノ協奏曲第二番を弾けるようになるためショパンが創った練習曲、ショパンの優しさが満ち
「ゆき、今日は素敵な演奏ありがとう。世界一のピアニストを独り占めできるなんて、俺はほんと幸せものだよ」
ふたたび大悟が電話越しにそう
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補足:このお話に対する補足のリンクです。興味があれば読んでみてください。
第09話補足:ショパン-ノクターン二十番「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(遺作)
https://kakuyomu.jp/works/16817330664993422025/episodes/16817330666867011430
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