02 明智光秀、織田家一の将となる

「明智光秀……」


「そうだ」


 信長は信忠の杯に酒を注ぐ。

 信忠は押し戴いてそれを飲む。


「光秀は凋落ちょうらくした幕府の臣から、まさに裸一貫、そこからの槍働きで、ここまで成り上がった」


 光秀は、永禄の変により主・足利義輝を三好義継に殺害され、その義輝の弟の覚慶かくけいを擁したものの、諸大名に袖にされていた。

 そこを、信長と出会った。

 やがて還俗した覚慶すなわち足利義昭を奉じ、信長と共に上洛し、義昭を将軍に就任させることに成功する。

 ちなみにこの時の義昭の喜びようは尋常でなく、信長に対し、副将軍の位や、管領代の任命、尾張守護である斯波家の家督、さらに斯波家は足利家の分家であることから、足利家の家紋(二つ引紋)の使用を許すなど、さまざまなものを褒美として受け取らせようとした。

 だが信長はそのほとんどを断り、斯波家の家督は信忠に譲った。あとは二つ引紋の使用ぐらいのものだったが、ただその代わりとして、堺、草津、大津の支配権を認めてもらった。


「そこから、光秀の躍進が始まった」


 信長は遠くを見つめるような仕草をする。

 信忠はただ黙って杯を傾けた。


「光秀は、本圀寺ほんこくじにいた義昭を守った」


 上洛した義昭を狙って、三好三人衆が京へと攻め上り、義昭は本圀寺に籠もった。

 そこを、光秀が義昭を守るために奮闘し、その功績から京を取り仕切る役目に任じられ、光秀はその役目をそつなくこなす。

 その後、信長に従い、金ヶ崎の退き陣、姉川の戦い、比叡山焼き討ちといった、さまざまな戦いに身を投じ、大功をてた。


「そして今では、織田家一の将。だが」


 信長は目を細める。

 見つめる先は、信忠ではあるが、信忠ではない。

 光秀だ。


光秀あれも歳だ。そろそろ


とは」


「家康の饗応きょうおう


 それだけで、信忠は理解した。

 信長は先日、徳川家康を安土に招いた。

 光秀はその饗応を命じられたが、その料理に失敗する。


「味もも変だった。光秀あれはもう、そういう勘ちがいをする歳、否、心と体になってしまったやもしれぬ」


 具体的には光秀が味見をして作られた料理は、酷いと味だった。

 さすがにこれは出せられぬと信長は下げるように命じた。

 しかし、光秀は納得しなかった。


「何故料理これが駄目なのか、と血相を変えた。そう来ると、こちらも強く出ざるを得ない」


 何しろ、長年の同盟相手である家康に出す料理だ。

 実際、何事かと家康が様子を窺っている。

 生半可な対応はできない。

 信長は打擲ちょうちゃくした。


「それでも、光秀の面子を保つため、光秀の婿の信澄を家康の接待役に据えた」


 津田信澄である。

 信澄は、安土城の普請奉行として、役割をそつなくこなしている。

 たしかに、義父明智光秀の失敗を成功に替えるには、最適の配置といえた。


「そういえばこの前の甲州征伐の時も、まるで自分が活躍したかの如く言い出し、何を言っているんだと思った」


 甲州征伐において、光秀は何ら関与していない。活躍したのは、主将たる信忠である。

 そのため、信長としては捨て置けず、それはちがうとさとした。


「あの時からだ。光秀が何か変だと思い始めたのは」


 人間、寄る年波には勝てない。

 信長はこれまで、林秀貞や佐久間信盛といった家臣たちの老いていく様、特に彼らが追放される寸前の状況を見て、そう感じた。


麒麟きりんも老いぬれば駑馬どばに劣るという言葉がある。酷い言葉だが、一面の真理ではある」


 戦国策という漢籍からの言葉である。足の速い馬麒麟も、老いると駑馬足の遅い馬にも及ばない、という意の言葉だ。


「そしてこのおれも今、四十九……人間五十年まで、あと一年ひととせ、だ」


 人間五十年。

 信長の好んだ、敦盛の有名な一節である。

 それだけに、その五十を前にした信長は、万感迫るものがあった。

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