前夜 ~敵は本能寺にあり~

四谷軒

01 織田家の当主、織田信忠

 天正十年六月一日。

 その夜、織田信忠は久々に父・織田信長と酒食を共にした。

 本能寺の変の前夜である。


「おでい


 信忠は、そう信長を呼ぶ。

 尾張言葉であり、尾張育ちの信忠としては自然な呼び名であり、信長もまた、父・信秀をそう呼んでいたことから、そう呼ばれることを好んだ。


「何だ、奇妙」


 奇妙な顔で生まれた。

 少なくとも、信長から見て。

 それゆえ、奇妙丸は信忠の幼名である。

 信忠自身はそんなに変かと思うのだが、信長の嫡男として、初めての赤子であったがゆえのことであろうとひとり納得し、また己の密かな傾奇心かぶきごころ名前ゆえ、気に入っていた。


「本当に、この寺でいいのか」


 この寺とは、本能寺のことである。

 織田家の京における常宿は、妙覚寺だ。

 だが今、その妙覚寺には信忠が泊している。


「いいんだ」


 信長は瓶子を取って、信忠の杯に酒を注ぐ。

 信忠は会釈してそれを受け取って、一気にあおる。

 信長はそれを目を細めながら眺めながら、つづきを話した。


「大体、織田家の家督はおみゃあに譲った」


 ゆえに、正式には信忠が当主である。

 さらに、甲州征伐の成功で、信長は信忠の器量を称賛し、「天下の儀も御与奪」と明言している。


「そろそろ、本格的に譲ろうと思っている」


 桶狭間以来、天下を目指して駆けて行って幾星霜、気づけばもう四十九。

 人生五十年、という敦盛の一節を思い出す。


「おれのおでい、つまりお前の祖父の織田信秀という男はな……」


 織田信秀は英傑だった。だが、病に倒れ、信長と信長の弟・信行にまつりごと任せるようになり、それが信秀死後の禍根を生んだ。


「おれと信行の争い、これは不毛な争いだった」


 信行からすると、われこそが信秀の後継者であるという自負があった。

 信長としても、まつりごとを分担していたという経緯があるため、一度はその信行の謀叛をゆるした。しかし信行は飽き足らず、またそむいてしまう。


「結局、おれは信行を斬った。されどそれだけだ。信行の子は生かした」


「津田どのですな」


 津田信澄。

 織田信行の遺児。

 二度にわたる謀叛人・信行の子であるが、信長は特に差別せず、重臣・柴田勝家に養育を命じ、長じて津田姓を名乗っている。

 そして織田家の中では、信長の子に準ずる扱いである。

 たとえば信忠の補佐役を務めたこともあり、そして今では信長の三男・信孝の副将として、四国征伐に取りかかっているところである。

 また、織田軍団の筆頭、明智光秀の娘を妻として迎えている。


「ふむ」


 信長は一度杯を傾けてから、話をつづける。


「まあ、そういう信行との家督争いのようなものが生じぬよう、形だけでもと思って、おみゃあに家督を譲っておいた。しかし」


 信長としては、そろそろ「事実上の」家督を譲りたいと思うようになっていた。


「おれも歳を取った。下手に死んで、おみゃあに迷惑をかけたくない。かつておでいが死んだ時、おれと信行は相争った。おみゃあの場合は、信雄のぶかつ(信長の次男)と信孝ら兄弟だけではない。力ある家臣とも、争うやもしれぬ」


「…………」


 この頃の織田家は、柴田勝家や羽柴秀吉といった、力ある家臣に軍団を与え、各地方に攻め入らせ、もって織田家の天下一統を成し遂げんとしていた。

 その覇業ももはや半ばを越え、終盤に入ろうとしている。

 ならば。

 その覇業が終焉を迎えた時に、力ある家臣はどうなるか。


「おれが生きてあるうちはいい。おれが抑える。だが、おみゃあはどうか」


「抑えられるかどうか、微妙」


 信忠とて、一個の将である。

 勝家や秀吉らを相手に、後れを取るつもりはないが、もし、彼らが連携をしたら。

 特に。

 そして、彼らのうち、と相対したら。

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