煌めく謎と旅の夢
夕食が済み、キッチンメイドたちが食器を洗う音の響く時間帯。シルはメイドに「リュヤージュ様が裏口でお待ちです」と告げられた。サッと顔から血の気が引いたのを、不審がられただろうか。
裏口と言っても重厚な扉である。草花と果実が彫り出された、自然の実りに感謝を込めた装飾。カシシーヴ家はこのように、自然に対して謙虚に、人々にも謙虚に、そして博愛の心をもって接してきた。
それが一代で崩れ去る様を見るくらいならば、自分の命と引き換えに……。シルは乾いた唇を舐めた。
裏口の外に、ランタンを二つ持ったリュヤージュが待っていた。その一方がシルに渡された。
「シル。今夜は『リュイ』で頼むよ」
オレンジの
「きみは勝手だ……リュイ」
「うん。ごめん。僕は自分勝手で愚かな男だ」
「……ごめん。でもきみは勇敢だ」
リュヤージュはくしゃくしゃっとした笑顔を作ったけれど、泣き出しそうなのだとシルには分かった。
「今夜、きみをリュイと呼ぶよ。何の用事かな」
「うん。先に言おう。きみを処刑などしない」
リュヤージュに呼び出された瞬間からずっと、シルの心臓は警鐘のように打っていた。それがふっと楽になり、全身の力が抜けた。くらりと頭から血が下がって、思わず手を額に当てる。リュヤージュが労るようにシルの肩を叩いた。
「すまなかったね、シル」
「いいんだ」
シルにはこの言葉を絞り出すのが精一杯だった。
二人はランタンを持って、夜の裏庭へ歩き出した。裏庭は小径と垣根を巡らせた造りで、表の庭より素朴な花々で彩られている。
「僕はずっと間違っていた。間違えっぱなしだ。自分の力不足を認めなければ。伯父に助力を仰ぐよ」
リュヤージュはからりとした声で言った。さあっと吹き抜けた風に低木の葉がそよいだ。
伯父というのは、リュヤージュの亡き母の兄である。現在の関係は親密とは言えないが、カシシーヴ家の庇護者となりうる人選としては正しい。
「それがいい。きみは賢明だ」
「やっと気づいただけだよ。それにネイズもよく動いてくれている」
老執事長の地道な根回しが、カシシーヴ家を支えているのだ。シルは改めてネイズに敬意を感じた。
「リュイ、ティルフェット様も聡明な方だ。頼りにしていいと思う」
「ああ……。確かに。だが妹には悪いことをした。ドレスも揃えていたのに。顔向けができないよ」
ランタンに照らされたリュヤージュの横顔は、伯爵家当主のそれではなく、唯一のきょうだいを案じる兄のやわらかな表情を浮かべていた。
「エスフィヴ様が亡くなった翌朝、ティルフェット様に『兄をよろしく頼みます』と言われたよ。そのお気持ちは変わっていないと思う」
「……そうだったのか。あの子は僕より気丈でしっかりしたところがある。頼みにできる人たち全員に助けを請わなければね」
「ああ」
青年二人の間に沈黙が下りた。裏庭に灯りはなく、二つのランタンが頼りだった。けれど、少年の日々を遊び回って過ごしたこの裏庭だから、二人は迷いなく小径を進んだ。
「ねえ、僕たちの隠れ家はどこだっただろう」
リュイが悪戯っぽい目を向けた。リュイの方が背が低い。異国の血がそうさせるのか、シルは背の高い部類だった。少し上を向く形のリュイの顔は、穏やかな輝きに満たされていた。
「隠れ家は、たくさんあったね」
「忘れてしまうものだな。あんなに大切にしていたのに。あちらへ行こう」
リュイは小径を逸れて、まだ若いカエデの下に腰を下ろした。シルがチーフを地面に敷くよりも素早く。これはリュイの侍従に叱られるな、とシルは苦笑しながら自分も座った。
「きみにだけはっきりと言おう。カシシーヴ家は、沈みゆく船だ」
「……くれぐれも僕だけにしてくれよ」
「僕はこの泥舟から、きみを逃がしたい」
リュイはシルの目をまっすぐに覗き込んだ。シルは狼狽えて、顔を逸らしてリュイの視線から逃げた。
「僕……私は、生涯をかけてカシシーヴ家を」
「そういうのはなしにしてくれないか。僕はきみの友として、きみを屋敷の外に送り出したい」
「僕を屋敷の外に放り出して、どうなるっていうんだ!」
シルは自分の出した大声にひるんで、ますます身を固くした。
「きみには旅という目的があるじゃないか」
そう言われて初めて、遠い日に憧れた「旅」がシルの脳裏に蘇った。旅への希望をリュイに語ったあの日の新緑の輝きと、雨上がりの下草の香り。
「旅? あれは……子どものたわごとじゃないか。僕はそんな人間じゃない。悟ったんだ。つまらない男だよ。いつも誰かに笑い物にされてる。だからこんな命、捨てたっていいんだ」
シルの荒々しい自己否定を、リュイは寂しい顔で聞いた。シルの心中を知りたいと思ったから遮らなかった。「処刑してくださいませ」という重い言葉の裏に、リュイの知らない、シルの濁った過去がある。
「シル。すまない。ごめん。僕はきみが、そんな風に思っているなんて……」
「『そんな風に』って、なに。これが僕の人生だ。リュイとは違う。リュイとは違うから、もうこれからは身分の差を……」
リュイがシルの右手を取ったから、シルのいら立ちは尻すぼみになった。
リュイは身をかがめ、シルの右手の甲に額を寄せた。それはこの王国において、最大級の敬愛を表現する仕草であった。
「兄さん。……それとも、お兄ちゃん、かな」
「……!」
「シル、僕は一度きみを拒んだ。愚かだった。僕を許してくれ。きみは僕の大切な友人であり、兄弟だ」
「そんな、もったいない振る舞いを……」
確かにリュイの行動は、伯爵として咎められるべきかもしれない。それでも二人の青年の心を繋ぐには、これが必要だったのだ。若く美しい二人は、涙を浮かべて顔を見合わせ、どちらともなく微笑んだ。
「シル。僕も今、人生の旅に直面しているよ。この崩れかけのカシシーヴ家を立て直す、長旅にね。どん底から始めなければ。……シル。立場できみを縛るのはやめたいんだよ。僕たちは、それぞれの旅に出よう」
「それぞれの、旅」
「きっとどちらも険しい旅だ」
「リュイならやり遂げる。僕はその力添えをしたいし、この家を守り抜いたリュイの姿を近くで見たいんだよ」
シルは言い募った。リュイの誠意を受け止めてなお、この青年は外の世界が恐ろしかった。
「ねえ、シル。きみを送り出せるのは、本当に、一生でこの一度きりかもしれないよ。『泥舟から逃がす』という口実がなければね。今だって本心では、僕はきみという友人をそばに置いておきたいんだ」
「僕だって」
「でも、この輝きがきみを呼んでいる」
リュイは懐から、黒い貴石のペンダントを取り出した。二つのランタンの火が揺れ、青年たちの顔にオーロラのような反射光がきらめいた。
美しい品だった。貴石は寸分の歪みもなく楕円に磨き上げられている。虹色に輝く薔薇は、貝の内側の光沢を丹念に埋め込んだものだ。花の中心から外側へ向かって色が薄くなり、花びらの重なりを表現している。
「呼ばれていると思わないか? 迷いながらこれを手にしたとき、きみには切り拓くべき運命があると悟った。そこで馬鹿な考えは捨てたよ」
「運命が、僕に」
「きみは特別な人間なんだよ」
「……ああ」
掠れた声でリュイに応じてから、実感がシルに追いついた。なぜ生まれたばかりの自分はこのペンダントを持たされていたのだろう。魅惑的な謎。解き明かさないまま人生を終えるには、あまりにも強い光を放っている。
「これはきみのだ。貸してくれて、ありがとう」
リュイが差し出し、シルが受け取った。
シルは生まれて初めて、この貴石の重みを手のひらできちんと受け止めた。シルの心を後押しするように、虹色の薔薇がきらめく。
「お守りのつもりだったんだ。贈り物じゃなく」
シルが言い、リュイは春の陽射しのようにあたたかく微笑んだ。
「ありがとう。では、これからはきみを守ってくれるよう、祈るとしようか。そしてこれを」
シルの手に、大きなヒスイの指輪が乗せられた。
「これは……?」
「母のものだよ。カシシーヴ家所有の宝石リストには載っていない。足がつかない金が欲しいときに、売るといい」
「そんなもの……! もらえるわけがない」
ヒスイはこの王国では貴重なもので、交易でしか手に入らない。白くミルクが混ざったようなグリーンは、王国の霧雨が続く気候に似合うとよく言われ、貴婦人なら一つは欲しいと願うほどの品である。
シルに手渡されたのは傷ひとつなく滑らかに磨き上げられた大粒のヒスイで、装飾の控えめな銀の台座に据えられている。リングは華奢な女性の指の細さだった。
リュイは2歳で母を亡くした。母の記憶はほとんどないという。しかし形見の品を大切にする様子を、シルは子どもの頃から見てきたのだ。生前の母の指を思い起こすような、それほどの形見を、自分に……。
「僕の気持ちはこれですべてだよ。僕は沈みかけたカシシーヴ家を立て直す。でも……きみを旅へ送り出したい。これは僕の夢でもあるんだ。僕の勝手だろうか?」
「リュイはやっぱり勝手だ」
「……ごめん」
「でも、僕がリュイの立場だったら、この3ヶ月でもっと取り返しのつかない状況を招いていた。リュイは立派だ」
「……父のような領主になる」
「うん。きみは偉大な領主になる。そして僕は旅に呼ばれている。リュイが思い出させてくれた」
「……シル」
「なに?」
「僕はこの屋敷を離れられない。きみは自由だ」
リュイの顔に滲んだ諦めと嫉妬に、シルは不意を突かれて動揺した。屋敷に縛られているのは自分ではない。リュイだ。
「シル。それぞれの場所で、それぞれの旅をしよう」
「……うん」
鼻声の返事にリュイは笑って、シルの肩を叩いた。でもリュイもこっそり目尻を拭ったのだった。
「シルメノー。僕の本当の名前」
「ああ。いい名前だ」
「そうかな」
「綴りを書き留めておきたいな」
リュイの一言には名残を惜しむ情が込められていて、シルはまた心臓を掴まれたように苦しくなる。でも今度は、優しく温かい感覚だった。
夜の庭はしんしんと冷え、二人は屋内へ戻った。リュイはシルの部屋の簡素な椅子に座って、シルは持ち物をまとめながら、二人は夜通し語り合った。
「きみが馬に乗れるのは、旅をする上でラッキーだな」
「リュイのおかげでね。『シルと一緒じゃなきゃ練習しない』ってきみがゴネるものだから」
「……そうだったかな!?」
「そうだったよ!」
シルの部屋に、初めて笑いが溢れた。
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