暗闇の鬼 それとも人か

 リュヤージュの復讐宣言から3ヶ月、屋敷の中には怯えと疑念が渦巻いていた。屋敷の中に、馬車に細工をした者がいる。シグリニーフ伯爵の内通者がいる。リュヤージュ様のご手腕をもってしても、未だ特定できていない。

 疑心暗鬼。使用人たちは、互いにいぶかしむ視線を向け合うようになった。

 告発しなくては。

 自分が濡れ衣を着せられる前に。


 屋敷の異様な雰囲気を最も肌で感じているのはシルだった。人々は、シルの謎の多い生い立ちを思い出したのだ。


 やはりシルはエスフィヴ様のお子だったのでは。

 まさか、嫡男として育てられなかったことに不満を持ち、エスフィヴ様を……?

 シグリニーフ家と縁のある赤ん坊だったのでは。だから素性の知れない子どもを屋敷に入れるなど……!


 ぱちぱちと静電気を浴びるように、シルは人々が自分を怪しむのを全身で感じた。

 大丈夫。いつものことだ。こんな生い立ちだから仕方ない。使用人として立場をわきまえていれば、いずれ人々の関心は移っていく。

 シルの職務は淡々と正確だった。あげつらって笑い物にできる隙がなかった。だから人々は19年前、門の前に置き去りにされた赤ん坊の話題を繰り返し、くすくすと意地の悪い笑いを漏らした。

 シルはそれで構わなかった。慣れていた。自分はつまらない男だ。笑い物にされても仕方ない。


 ——リュヤージュ様が、シルにお命じになったのでは。当主の座を奪おうとして。シルはあれほどリュヤージュ様と親しいのだし……。


 この邪推を漏れ聞いた瞬間、シルの中で何かがぷつんと切れた。


 執務室をノックする。黄昏の淡い光が暗闇に移ろう時間帯だった。まだランプに火は入っていない。若き当主は椅子に斜めに身体を預けて、ふっとシルを見上げた。

 シルはリュヤージュの姿を痛々しく思った。リュヤージュは痩せた。アメジストのように光を湛えていた瞳も、今は疲労と焦燥に濁っていた。

「どうした、シル」

「リュヤージュ様。私を下手人として処刑してくださいませ」

 言いながら、シルは口がカラカラに乾いていくのを感じた。どうにか言い切って、全身に力を込めて直立の姿勢を保った。

 窓の外で、太陽は最後の弱々しい光を放って地平線に沈んだ。

「シル? きみがやったのか?」

 憔悴を隠さず、リュヤージュは目を見開いて唇を震わせた。

「めっそうもございません。しかし、屋敷には疑心暗鬼の空気が満ちております」

「私は濡れ衣で人を殺さない!」

 抑えた声ながら、リュヤージュは激昂をシルにぶつけた。シルは勢いに押されてふらりと一歩下がり、カラカラの口のわずかな唾液を飲み下した。

「リュヤージュ様が、私に細工をお命じになったとの噂がございます」

「……私が? 父を?」

 今回、衝撃に眩んだのはリュヤージュだった。椅子の背に身体をどさりと預け、手で顔を覆った。

「僭越ながら、使用人たちは、ご想像よりもはるかに疑い合っております。このままではカシシーヴ家は内側から崩壊しかねません」

「……!」

 内憂外患。リュヤージュは、シグリニーフ家と取り巻きの貴族たちしか眼中になかった。シルの言葉はリュヤージュにとって、あまりにも衝撃的で、残酷で、自らの力不足を痛感する進言だった。浅く乾いた息を漏らして、リュヤージュは両手を膝の上で強く握った。

 シルは全身が震えて、何度も「もう立っていられない」と感じた。それでも執事の務めとして姿勢を保ち、主人への敬意を示した。

 もう一押しだとシルには分かった。リュヤージュ様のお心は瀬戸際にある。


 自分の命など構わない。どうせ最初から捨てられた命だ。リュヤージュ様を、敬愛する主人を、そして——密かに思うことが許されるのならば、大切な友人を——救うために捨てても構わない命だ。

「私を処刑なさいませ。リュヤージュ様」

 リュヤージュの目に、ぎらりと光が宿った。極度に渇いた人間は、いけないと理解しながら海水を口にしてしまう。リュヤージュの目の奥にくすぶる火は、そのたぐいの渇望を宿していた。

「シル、それでも私は……。言葉を違えるようだが、どうか今は、『リュイ』と呼んでくれ」

「……!」

 シルは感情を大きく揺さぶられて、深く深く息を吸い込まねば倒れてしまいそうだった。まだ、友人として呼ぶことを許されるのならば……。

 主人と使用人。弟と兄。黄昏を過ぎてなお、二人の青年の関係は、グラデーションを描いて二人の間に揺らめいた。

「リュイ。僕を処刑するんだ」

「……シル。きみをもう一度『友』と」

「細工をした者が見つかれば」

「シル!」

 言葉を遮ったシルにリュヤージュは抗議の声を上げたが、シルは構わずに続けた。もう心残りはなかった。友のために、身を捧げることができる。

「見つかれば、使用人はお互いを疑う必要がなくなる」

「……ああ」

 アメジストと讃えられたリュヤージュの瞳は、日没を過ぎた暗い部屋の中で、魔性の宝石のようにぎらぎらと光を放った。

「下手人が処刑されれば、屋敷の人々はきっと平穏を取り戻す」

「……」

「使用人として、リュイとカシシーヴ家を守りたい。それが大切な友のためならば、なおさらに」

「『大切な友』と言ってくれるならば、余計にそんなことはできないと分かるだろう?」

「友だからこそだよ。僕に貴族の方々とのお付き合いは分からない。ただ、屋敷の中の不穏は身に沁みて分かる」

 リュヤージュは、また自分の見過ごしを悔やんで両手を握りしめ、唇を噛んだ。

「僕にできるのは、屋敷の安寧を取り戻すことだ。このお屋敷が僕の世界のすべてだから。命と引き換えにこの世界を守らせてほしい」

 シルが「世界のすべて」と言った瞬間、リュヤージュの瞳に涙の膜が張った。

「ああ。ありがとう、シル。少し考えさせておくれ」

 かさかさに乾いて掠れた声で、リュヤージュは呟くように言った。あまりにも細い声だったから、シルは危うく聞き逃すところだった。


 執務室を退出したシルは、壁に手をついてずるずるとへたり込んだ。心臓がばくばくと打つ。

 この心臓が止まるかもしれない。もう戻れない。

 死にたくない、まだ生きたい、と主張して心臓は暴れる。そうではない、人間には命を捨てるべきときがある、とシルは自分の身体を叱りつけた。手足が全部バラバラになったように立ち上がれなかった。

 取り返しのつかないことを言った。引き返すことはできない。あとはリュイ、いや、リュヤージュ様のお考え次第。自分の命の行く末は今、リュヤージュ様の手の内にある。シルは長い間、よく磨かれた床を見つめて呆然としていた。


 曇りの日が続いた。シルは窓の外、丹念に刈り込まれた庭を歩くリュヤージュを見た。俯いて、後ろで腕を組んで、一歩一歩踏みしめるように歩いている。

 広い庭園の周囲を、高い塀が巡っている。そこに正門がある。植物の意匠とカシシーヴ家の紋章で飾られたものだ。外には警備の衛士が立っている。そこに自分は置き去りにされたのだという。その外は森に囲まれている。森を越えた土地がぼんやりと見える。

 この塀の内側で人生を過ごした。次に敷地を出るのは、処刑場へ連行されるときだろうか。

 そう考えると心臓がヒュッと冷えて、シルは外を眺めるのをやめた。

 すごくすごく昔、あの塀の外に出たいと思っていた気がする。時間が記憶にも熱意にもかすみをかけてしまった。シルはあと少しで浮上しそうなその記憶をもう一度、丹念に封じ込め、次の仕事に意識を移した。


 カシシーヴ家の長女・ティルフェットの結婚が後ろ倒しになった。許婚の家からの申し入れがあったのだ。理由は明らかだった。カシシーヴ家には、吹き飛ばされるほどの向かい風が吹いていた。

 ティルフェットは兄を愛していたし、兄の苦悩を自分のことのように悔しく思っていた。心優しい少女だった。だから思い悩む素振りは誰にも見せなかった。

 それでも、リュヤージュの罪悪感は彼の心を貫いて引き裂いてしまうほどだった。政略結婚とはいえ、ティルフェットは許婚とよい親交を持っていた。許婚からの手紙が届くと、ぱっと明るい顔をして、頬を染めてはにかむ妹をずっと見てきたから。


 復讐が完了したことにすれば、カシシーヴ家の名誉の一部でも取り戻せるだろうか。

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