鉄は血の味 戦火の香り
カシシーヴ家の西方、王都近くに領地を構えるザラク伯爵は、第二子のご生誕を控えておられる。そのような情報は貴族の使用人なら把握していなければならないし、ご誕生の際のお祝いも準備しておかねばならない。
だがリュヤージュ・カシシーヴ伯爵は、ザラク伯爵のご子息のお誕生祝いに招かれなかった。
リュヤージュは執務室の重厚な机に腰をかけ、天を仰いで深いため息をついた。ネイズは部屋の隅に控えている。
リュヤージュが少年の頃だったら、机に腰を預けるなんてことをしたらネイズの叱責が飛んだだろう。だが今リュヤージュは「カシシーヴ伯爵」であり、そして大きな窮地に陥っている。
「ネイズ。今後控えている貴族のみなさま方の集まりは」
「2週間後にタイミーク家のご息女の成人祝いがございますが」
「招待は受けていない。そうだな」
「はい。さようでございます」
「みなシグリニーフの側に付いたな」
「おそらく、そうでございましょう」
リュヤージュの復讐宣言から3ヶ月。誰が馬車に細工をしたのかは不明。黒幕に繋がる証拠はなし。
カシシーヴ家の若き当主が不利と見るや、貴族たちは対立するシグリニーフ家に取り入ることに決めたらしい。今まで中立だった貴族たちまでもが、カシシーヴ家とリュヤージュを邪険にし始めた。
目的は鉄鉱石。鉄が欲しくない領主はいない。シグリニーフ家は、その増産と大量の供給を約束をしたのだろう。
鉄は武器になる。その武器が最初に向けられるのは、カシシーヴ領の領民だ。戦火に蹂躙される領地を想像して、リュヤージュはネイズから顔を背けた。ネイズも手紙を確認するふりをして目を逸らす。リュヤージュの瞳から、一粒だけ涙がこぼれた。
父・エスフィヴは偉大な領主だった。もちろん領民たちが父に向ける賛辞のすべてが本心だとは思わない。領主と領民というのは、そういうものだ。だが父は、間違いなく人々に慕われていた。
私もそんな領主になれると思ったのに。「エスフィヴ様に似て聡明でお優しい」という褒め言葉もまた、割り引いて聞く類のものだったのだろうか。私の愚かな振る舞いが、今、じわじわと、着実に、領民の平和な暮らしを蝕み始めている。
どうして私はこうも愚かなのだろうか。そんな弱音を吐ける相手もいない。
馬車に細工をした者が屋敷の中にいる。
他にも内通者がいるのかもしれない。
屋敷の者たちもすでにシグリニーフの手に落ちているのかもしれない。
一人で馬車に細工して、それを隠し通せるだろうか? 何人かで実行者を庇っているから見つからないのかもしれない。
それとも私以外の全員が実行者を知っていて……。
思考がぐるぐると暗く落ち込んでいく。伯爵の地位を失い、路頭に迷う自分の姿さえ想像してしまう。
次に殺されるのが私だとしたら。あるいは妹だとしたら。冷や汗をかきながら、義務のように済ませる食事には味がない。馬車に乗るのも恐ろしい。
使用人が主人の噂話をするのはあまり上品な趣味ではないけれど、カシシーヴの屋敷ではあまり厳しく咎てはこなかった。今はふと使用人の会話を耳に挟むだけで、私を裏切る計画なのではと思ってしまう。
誰も信じられない。ここから逃げ出したい。早く。そんな弱音がふつふつと浮かぶ。
しかし、私は「カシシーヴ伯爵」。
何不自由なく豊かで華麗で気詰まりな「貴族」という人生から逃れることはできない。
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