第22話

 キュエルの為には、もっと早く逃げることを考えるべきだったのかもしれない。


 この怪我では今更、例えばイレイナを見捨てたとしても逃げることは不可能だ。


 そもそもそんなことは何があってもする気は無いが。


 残された道は一つ。


 次の一撃で勝負を決するしかない。


 血が流れ過ぎているせいか、徐々に遠退きかける意識を懸命に繋ぎ止めて残された力の使いどころを考える。


 一方のイノシベアは、半狂乱の状態から立ち直ったらしく、本来の姿である四足歩行に戻ってジロリとこちらを無事な方の目で睨み付けている。


 あの様子では自分を獲物ではなく敵と認識したようだ。


 どうやらイノシベアも次の一撃で自分を仕留める気らしい。


 イノシベアと自分の間に今までにないほど緊張が高まる。


 どさりと、何かが倒れた音がした。


 それを合図とばかりにイノシベアが走り出す。


 その巨体を生かした突進で吹き飛ばす気なのか、はたまた鋭い牙で噛みつく気なのか。


 どちらにせよ、自分はこの場を動く気は無い。


 ビリビリと肌に伝わる咆哮と共に巨体が眼前に迫る。


 それでも自分は動かない。


 怪我で動けない訳ではない。


 一瞬の勝機を掴み取る為だ。


 イノシベアが自分にぶつかるかどうかのところで、スッと体をイノシベアの体の直線状から避けながら渾身の一撃を繰り出す。


 そして避けると同時に自分はラリアットを打ち込む。


 イノシベアの首にではなく、片目に刺さったナイフ目掛けて。


 当たったのは腕だけであったが、それでもあの巨体から繰り出された体当たりの威力が伝わるには十分であり、結局自分は吹き飛ばされてしまう。


 ぬかるむ地面を何度も何度もバウンドしながら転がる。


 どうにか受け身は取ったつもりだが、勢いがつき過ぎていてあまり意味を成さない。


 視界が三百六十度回り続ける。


 永遠にこのままかと思える程長い間転がり続けてような気がしたが、本当はほんの数秒だったのはずだ。


 徐々に回転が弱まり、仰向けで体はようやく止まった。


「誰か……見て、いるなら、この娘を助けて……」


 薄れゆく意識の中、天使の気配を感じたような気がした自分はキュエルを助けるように頼むが返事が返ってくることは無かった。

 

 「ちょいちょいちょい! 起きろしおマヌケ天使! 何があったらこんなボロボロになんのよ」


 耳元でギャンギャンと五月蝿い。


 目を開くと、困惑した顔の悪魔がいた。


「うるさいですよ悪魔。私は疲れているんですから寝かせなさい」


「いや寝たらキュエルっちが死ぬって! ボケたこと言ってないでさっさと回復させろし」


 回復、悪魔は何を言っているだろうか。


 そういえばなんだか体中が痛むような気がする。


 痛みを感じ始めると、それに引っ張られるように徐々に意識がはっきりとし始めた。


「そ、そうでした。私、イノシベアと戦って……」


 急いでキュエルの体を回復させる為に祈りのポーズを取ろうとするが、左手が全く動かない。


 激しく痛みはするものの、どうにか動く右手を左手側に動かして無理やり組み合わせて力を発現させる。


 形は歪になってしまった聖法陣がキュエルの体を通り抜けた。


 完璧に発現出来なかったせいで効果が薄れてしまっているが、とりあえずこれでキュエルが死ぬことはないだろう。


「キュエル、キュエル、聞こえますか、大丈夫ですか」


 自分に聴こえているのだから当然キュエルにも聴こえているはずだが中々返事が返ってこない。


 まさか、痛みと恐怖で精神が崩壊してしまったのでは。


 最悪の事態を考えてしまった自分は、ゾクりと嫌な感覚を覚える。


 (大丈夫です、イージス様。体中痛いですけど)


「良かった、無事でしたか。……いえ、無事では無いですね。私がついていながら本当にすみません」


(謝らないで下さいイージス様。イレイナさんも私も生きているのはイージス様のおかげなんですから)


 いや、そもそも自分がこの依頼を受けなければ、イレイナに見られることなど気にせずに力を使っていれば。


 悔やんでも悔やみきれない判断ミスばかりした自分は責められて当然であって感謝される謂れはないはずだ。


 それなのにキュエルは……


「キュエル、貴女は本当にいい子ですね。ですが、自分を殺して本音を隠す癖は直さないといけませんよ。痛い時は痛いと、怖い時は怖いと言って良いんです」


 自分としては精一杯わかりやすく伝えたつもりであったが、キュエルは言葉の意味が理解出来ていないのか、はあ、と曖昧な返事をするだけだった。


 今はまだ、仕方ないのかもしれない。


 だが、どうにか任務が終わり、彼女と離れる日が来るまでに、自分が何を伝えたかったのかを理解させてやりたいものだ。


「ちょい待ち、先に何があったか説明するし。あそこでくたばってる熊みたいなのと伸びてるシスター見たら大体分かっけどさ」


 そんなことを考えながら、今度こそ完璧にキュエルの体を癒す為に力を使おうとしたが、悪魔に止められる。


 悪魔が親指で自分の後ろを指し示す。


 少しは痛みがマシになっているおかげで、どうにか立ち上がって悪魔の背後を見ると、彼女の言う通りの光景が広がっていた。


 イノシベアが転んだのか、おかしな体勢で倒れている。


 ナイフが柄の端しか見ない程深々と目に刺ささっている上にぴくりとも動かないので、恐らく絶命しているのだろう。


 イレイナの方はと言うと、最後に見た時と同じ手を組み合わせた祈りの姿勢のまま倒れていた。


 急いで駆け寄ってみると胸が上下しているのが見えたので、とりあえずは生きているようだ。


 倒れた拍子に修道服が泥で汚れてしまったらしく、少しばかり分かりにくかったが、目立った外傷は無く、怪我をしているにしても腰を抜かした時か倒れた際の打ち身か擦り傷くらいのものだろう。


 この状況でこう言うのはあまり良くはないのだろうが、キュエルの体を癒した際の様子を見られなかったのだけは幸運だったと言えるのかもしれない。

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