第21話
「仕方ありませんね。覚悟!」
ほんの少し掠っただけでも肉が抉り取られそうな爪が生えた前足の片方でイノシベアは攻撃して来た。
偶然か本能的に狙ってなのかは分からないが、自分の首を目掛けて迫りくる攻撃を大きく跳躍して避ける。
そのまま、落下の重力を利用して威力を上げたかかと落としをイノシベアの頭に決めた。
直ぐに頭の上に手を上げて掴みかかってきたイノシベアの頭を足場代わりにして、自分はもう一度空中へ飛び上がると一回転して着地する。
「やはり大して効きませんか。脳震盪でも起こしてくれれば儲けものだったんですが……」
予想通りではあるが人間相手ならば確実に頭蓋骨をかち割れた威力があったはずの攻撃は、イノシベアには毛ほども効いていないようでダメージはおろか怯んだ様子さえ無い。
攻撃したはずのこちらの足が痛むほどの毛の硬さに自分はどうしたものかと考える。
どこを狙えば効果的にダメージを与えられるのか。
良い案を捻り出す間も無くイノシベアが再び前足で攻撃して来た。
普段は四足歩行で巨体を支えているだけあってか強靭な筋肉を持つ前足の一撃を一発でも喰らえば、生身の脆弱な人間の体では助からないのは必至だ。
例え身体能力が上がるの同じようにキュエルの体の肉体強度も上昇しているとはいえベースが人間である以上限界があるので、当たってしまった場合の結果は普通の人間と左程変わりはないだろう。
決定打に欠ける攻撃を無闇にしたところで意味はないので、自分は回避に徹することにした。
再度攻撃が避けらたのにイノシベアは苛立ったのか、前両足を我武者らに振って攻撃を繰り出して来るが、動きが単調なので避けることは容易い。
「全く、これは中々に厳しいですね」
攻撃の威力が足らない自分と攻撃が当てられないイノシベア。
互いに決定打が無く、戦いは泥沼化の様相を呈し始めた。
もしかしたらこれは主からの試練なのかもしれない。
それならばこの試練、必ずや乗り越えてみせねば。
決意を新たに自分は拳を握り直す。
避けられているにも関わらずひたすらに攻撃し続けたイノシベアはスタミナが切れたのか、荒い息をしながら攻撃の手を止めてこちらを睨んでくる。
(今なら逃げられるんじゃ)
「甘いですよキュエル。興奮している獣に背を向ければどうぞ襲ってくださいと言っているようなものです」
蹴った感触からすると、やはり手に持っている安物のナイフ程度ではあの硬い毛の鎧に簡単に弾き返されてしまうかポッキリと折れてしまうだろう。
まあ、並の剣や弓でも歯が立たないのは知っているので期待はしていなかったが。
斧かハンマーでもあれば一撃必殺で倒せなくは無いのだが、薬草採取にそんな物が必要になるとは思わなかったので用意が無い。
せめて今の攻防の間にイレイナが逃げてくれていればと思うのだが、彼女は困ったことに逃げるどころか恐怖のあまりただただ震えていた。
やはりイノシベアをどうにか退けるか倒すしか無いようだ。
改めて覚悟を決めた自分は、こうなれば先手必勝とばかりにイノシベアに向かって大きく跳躍した。
全身が鎧のような毛に覆われているイノシベアの唯一の弱点、毛がない眼球を狙う為だ。
これならばナイフでも致命傷とまではいかないだろうが、確実にダメージを与えられる。
恐らくこれが今自分に出来る最善手なはずだ。
跳躍の勢いをそのまま威力に変える為に、ナイフを持った手を突き出す。
イノシベアは反射的に避けようとするがもう遅い。
ナイフに柔らかい物に刺さった感触が伝わってきた。
よりダメージを与える為にナイフの持ち手を捻って目玉を抉り取ろうとしたのだが、それがいけなかった。
激痛と共に片目の視界が消えたことでパニックになったいののめちゃくちゃに振り回す腕が自分に近づいて来ることに気づくのが遅れてしまったのだ。
普段の、羽がある状態ならば苦も無く避けられただろう。
だが、今自分はキュエルに憑依している状態だ。
当然、ただの人間であるキュエルの体に羽が生えているはずがない。
空中で動く術が無い自分は、イノシベアの振り回す腕に真面に当たってしまい、吹き飛ばされてしまう。
そのまま風に吹かれた枯れ葉のように錐揉みしながら飛んでいき、避けようも無く木に激しく打ちつけらて地面に落ちた。
全身に痛みが走る。
幸いにも両足が折れてはいないらしく、どうにか立ち上がるが左手に違和感を覚え、半狂乱で吠え叫ぶイノシベアに注意しつつも横目で見てみると、二の腕の辺りから血が流れていた。
痛みからすると恐らく骨も折れているだろう。
いや、あの怪力と爪で負った負傷なのだから、腕がどこかへ飛んでいないだけでも幸運と言えるかもしれないが、状況は芳しくない。
全身ボロボロ、左手は完全に使い物にならないのに加えて血が止まらない。
おまけに唯一の武器であるナイフもイノシベアの目に刺さったままときた。
「失敗しました。やはり欲をかくのはいけませんね。キュエル、大丈夫ですか?」
肉体の感覚は共有状態という痛覚も共有しているということ。
かなりのダメージを体に受けたにも関わらず、何も言わないキュエルが心配になって聞いたのだが、キュエルからの返事は返ってこず、代わりに堪えるような呻き声が聞こえてきた。
相当な痛みに襲われているはずなのに、彼女は泣く訳でもパニックになるでもなく、ただ耐えているのだ。
自分の存在がイージスの妨げにならぬようにと。
それに、耐えていたのは痛みだけではなく恐怖にもだ。
体の自由が効かないせいで、恐ろしい獣が繰り出す攻撃を強制的に見せられ続けたのだから、ただの少女にとっては最早拷問と言っても過言では無い。
それでもキュエルは悲鳴一つ上げなかった。
自分はキュエルの痛みと恐怖に耐える強靭な精神力と自己犠牲の精神に感心する。
「キュエル、貴女は立派で——」
(もう、嫌だよ)
いや、違う。
どうしても耐えきれずに漏れてしまったのであろう、消え入りそうな一言で自分は気付く。
キュエルは耐えているのでは無い、自分を殺しているのだと。
長い奴隷生活のせいで、どれだけ怖かろうと、どれだけ痛かろうと、彼女はそれらを主張出来なくなってしまっているだけなのだ。
呻き声に混ざるほんの小さな本音——もう、嫌だ——これが全てを物語っている。
「すみませんキュエル、もう少しだけ我慢して下さい。この試練を生きて乗り越え、貴女を真の意味で奴隷から解放する為に!」
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