第17話
今日は使っていないと言うベッドが置かれた空部屋を借りられたので、一安心とばかり自分はキュエルに体を返した。
「あ、あれれ、体が——」
ここ数日は殆ど自分で体を動かしていなかったキュエルは、ベッドまで歩こうとするもおかしな声を上げながら足を縺れさせてしまい、体が前のめりに倒れてゆく。
ただ、運の良いことに柔らかなベッドが彼女を受け止めてくれた。
「ありゃりゃりゃ、大丈夫?」
「か、体が上手く動かせなくて……」
よく聞かなければ分かり辛いが、呂律も少し怪しい。
「まさかこんな弊害があるとは。予想外でした……」
恐らくキュエルの異変の原因は長時間の憑依だろう。
自分たちが憑依して肉体を操ることに、こんな支障が出るとは思わなかった。
そもそも、過去にこうして天使や悪魔が人間の体に長時間乗り移った事例は殆ど無い。
神託を下す為に、主からの命を預かった天使が聖職者や選ばれし者に乗り移った事例ならばそれなりにはある。
しかし、それはあくまでほんの束の間のことだ。
悪魔の場合は一度体に入ったら二度と持ち主に返すことは無いので、前例などあるはずが無い。
なのでイージスがこの事態に思い至らなくとも仕方がないことだろう。
「やっぱ普段は基本キュエルっちに入んないのがアンパイっしょ」
「そうなると、私が協会でのやり取りをしたのは失敗だったかもしれませんね」
読み書きが出来ず、代行者や協会について一切知らなかったのだからあの場では自分の判断に間違いは無かったと思いながらも、今後帝都の協会に行く時は必ず自分がキュエルに入らなければならないことを考えると自信をもって正しかったとも言えない自分は頭を悩ませる。
「そこまで気にしなくていいんじゃね。あんだけごった返してるとこの職員が一回二回くらいしか見てない顔なんかそうそう覚えてないって」
「ですが顔立ちに肌と髪の色、声まで違うんですよ」
憑依が肉体に及ぼす変化は決して微々たるものでは無く、別人と思われても当然なくらいの変化だ。
少しでも自分が憑依していた時の姿が記憶に残っていれば、怪しまれるのは必至だろう。
「顔はそもそもキュエルっちがベースだからそこまで違う訳じゃないし、髪はイメチェン、肌は日焼け、声は喉痛めていたって言っときゃイケるイケる」
適当なことを言うなと思う反面、確かに悪魔の言うことにも一理あるとも思ってしまう。
案外悪魔の言う通りに今度協会に行く時、自分がキュエルに入らずともすんなりとことが運ぶかもしれない。
「案ずるよりも生むがやすし、と言ったところですかね」
ここでうだうだ悩んだところで意味は無いだろう。
実際どうなるかなどその時にならないと分からないのだから。
それよりも、明日のことを考えた方が建設的な気がする。
明日も恐らく朝から晩までイレイナと一緒に過ごすことになるのは確実だ。
どうにか少しでも良いから体を返す時間を作らなければ、またキュエルが体の使い方を忘れてしまうかもしれない。
一人そんなことを考え唸りながら頭を悩ませていると、寝息が聞こえ始めた。
「とりま、悩むのはアンタの勝手だけど黙んなー。キュエルっち寝たから」
またもキュエルへの気遣いが足りていなかったことを恥じながら、自分は唸るのを止めたのだった。
ふと耳を澄ますと、雨音が少し小さくなったような気がする。
翌朝、キュエルは窓から差し込む朝日の余りの眩しさで目を覚ました。
体の使い方を思い出したキュエルがベッドから起き上がり窓を開けてみると、雨が空気中のゴミを全て洗い流したのだろうか、とても澄んだ空気が風となって部屋に入ってくる。
どうやら雨は夜中の内に止んだようだ。
「おや、もう起きたのですかキュエル。昨日と違って今日はとても良い天気ですよ」
窓から入ってきたのは風だけでは無く、大きく綺麗な白い翼を羽ばたかせたイージス様もであった。
一瞬白鳥でも迷い込んできたのかと思ったが、窓に収まりきらない羽が壁をすり抜けるのを見て私は現実に引き戻される。
いや、この光景が現実と言うのもおかしいのだろうが。
「あーダメだった。こんな時間まで粘ったのに何も無しとかマジ時間無駄にしたし」
一方、イージス様に少し遅れて、窓とは反対咆哮のドアを開けることなく入って来たリリスさんは何やら悔しそうにしている。
「貴女、気付いたら居なかったですが何処へ行ってたんですか」
「え、神父のとこ。あんな美人でボインなシスターと一つ屋根の下って何も無い方がおかしいっしょ」
刹那、イージス様の拳が唸りを上げながらリリスさんの顎にめり込んだ。
そのままリリスさんの頭は天井に突き刺さった。
正確には天井板に刺さったというよりは、そんな風に見える辺りで止まったのだろう。
すぽっと音が聞こえてきそうな勢いで頭を抜いたリリスさんは、勢いそのままにイージス様目掛けて蹴りを放つ。
「急に何すんのよこのバイオレンス天使!」
「ぐぬぅ! 中々鋭い蹴りですが甘い」
両腕をクロスさせて防いだイージス様はそれをはじき返した。
リリスさんは弾かれた勢いを利用してくるりと猫のように空中で一回転して体制を立て直す。
距離の空いた二人は、そのまま視線をぶつかり合わせて火花を散らし始めた。
お互いに出方を伺っているようだ。
「ちょっと覗きやったくらいでそんな怒んなくてもいいじゃん!」
「ちょっとだろうがいっぱいだろうが犯罪行為には違いないのですから裁きを与えるのは当然の行いです。そもそも聖職者同士が貴女の思い描くような淫らな行いをする訳ないでしょうが!」
こめかみに血管を浮かび上がらせながら怒るイージス様にリリスさんは何を言っているんだ、とでも言いたげな不思議そうな顔をする。
「神父とシスターがイイ仲になるとかよくあることじゃん。てか、神父同士とかシスター同士とかもあるらしいし」
「……どういうことですか? 意味が分からない」
リリスさんの言葉は火に油を注ぐのと同じようなことに思えた私は、イージス様の怒声が来ると思って身構える。
だが、イージス様は急に静かになってしまった。
恐る恐るイージス様の方を見てみると、怒るどころか困惑した顔をしていた。
「いやだからさ、いくら聖職者だからってパーペキに禁欲してる奴なんてそんなにいないって言ってんの。聖職者だって人間なんだからさ、そっちの欲に悪魔が唆さなくても流されることくらいあって当然っしょ」
イージス様は余程ショックを受けたのか、その場で膝を抱えて無表情になってしまう。
「ありゃりゃ、自分の固定観念崩れちって頭がパーになっちゃったっぽいね。制度だ何だお勉強する前にもうちょい人間を知るべきだったんじゃない? ま、それこそ純粋培養の天使様には無理な話か」
呆れたような口ぶりのリリスさんはイージス様に近づくと額にデコピンを一発お見舞いした。
それでもイージス様は無反応で、デコピンを食らった勢いで膝を抱えながら空中をくるくる回り始めるのであった。
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