第16話

「頼むからもうちょっとで良いから持ってくれよ、ずぶ濡れで風邪っぴきになるのは勘弁だからな」


 雨が降る前の独特の香り——土や草の匂いが混ざり合ったような、これとは断定しずらい匂い——を感じたガデンは馬を急かせた。


 宿場町を出発してから早数時間、村まではそう遠くないところにまで自分たちが乗る荷馬車は来ていた。


 遠くには微かにだが村らしき建物の集まりも見える。 


 だが、匂いだけでは無く、はっきりと聞こえ始めた雷鳴がもう間もなく大雨が降るであろうことを知らせていた。


 荷馬車が村に着くのが早いか、雨が降り出すのが早いか、どちらが先かは五分五分と言ったところだ。


 しかし、荷馬車と黒雲のレースは熾烈を極めたものの、一歩早かったのは黒雲のようだ。


 村に入った途端、黒雲は雷鳴を轟かせながらバケツでもひっくり返したのかと思う量の雨を降らせ始めた。


 一分も経たぬ内に水に飛び込んだ並みに全身が濡れてしまう。


「だー、クッソ。後は教会と家に行くだけだってのに。ついてねーなー」


「ガデンさん、汚い言葉はいけませんよ」


 雨とイレイナに怒られたことでがっくりと肩を落としたガデンはそのまま荷馬車を教会へと走らせた。


 幸いにも村に入ってからは左程走らずに教会へと到着した。


 既にびしょ濡れなので手遅れではあるのだが。


「ありがとうございました、ガデンさん。奥様によろしくお伝えください」


「おう、また次帝都まで行く時は声掛けるから。じゃーなー」


 自分たちを教会に降ろしたガデンはもう気にするのを止めたとばかりに、髪から顔に滴る水をものともせずに良い笑顔で去っていった。


「お帰りなさいシスター。そのままでは風邪を引いてしまいますから早く中に」


 イレイナが扉に手を掛けようとすると、タイミング良く古くなっているせいか少しきしむ音をさせながら扉が開き、キャソックを着た青年が出てきた。


 促されるままにイレイナとイージスは教会へと入る。


 片田舎の村だけあってか、帝都の大きく豪華な教会と比べると小さく質素ではあるが、清掃が行き届いていることが一目見て分かる綺麗な教会だ。


 神父らしい男は濡れて帰ってくることを予期していたのか、ベンチに置いていたタオルを渡してくる。


「貴女がシスターが雇った代行者さんですか? 随分お若いですね」


 少しごわつくタオルでワシワシと頭を拭いていると男は、物珍しそうに見てきた。


「そうです。イ、じゃなくてキュエルと言います」


 またもイージスと言いかけてしまい、自己紹介に詰まってしまった。


 案の定、神父に訝しげな眼で見られてしまう。


 どうにか誤魔化そうと思うが、そういうことに慣れていないせいで上手く言葉が出ない。


「神父様、そんな風に年頃の女の子を見つめては委縮してしまいますよ」


 そんな自分に、委縮して言葉が出ないのではとイレイナが気を使ってくれたのか助け舟を出してくれた。


「これは失礼、私はこの教会を任されている司祭のハヴェット。シスターが迷子になってご迷惑をお掛けしませんでしたか?」


 自己紹介をしたハヴェットは二十代そこそこに見え、オールバックにセットした髪に一切の乱れが無い。


 キャソックに染みや汚れの類が一つも無く、真面目さが全身から滲み出ている。


 正に絵に描いたような敬虔な司祭だ。


「それは……そのですね」


 どうやら、イレイナの方向音痴は周知のものらしいが、素直に大変でしたと言えるはずも無く返答に詰まる。


「私のことよりも、皆さんの様子はどうですか」


 迷ったことがバレるのが恥ずかしいのか、誤魔化すようにイレイナは無理やり話を変えた。


「あまり良くはありませんね。せめて熱さえ引いてくれればと思うのですが。薬の方はどうでしたか?」


「それが帝都でも薬が不足しているらしくてこれだけしか」


 イレイナは申し訳なさそうに、少しでも雨に濡れないよう布を被せたバスケットから取り出した袋をハヴェットに渡す。


「やはり帝都でも流行っているのですね。ここ二、三年はあまり病が流行りませんでしたから油断していました」


 多くの人が集まるせいか、帝都やその周辺で時折病が流行ることがある。


 流行る病はその年で違い、腹を下すものから咳が止まらなくなるものまで多種多様で、その度に医者が対策でてんてこ舞いになり、薬が不足するのが恒例となっているのだ。


 今年の流行りは熱が出るものらしく、罹ると一週間ほど高熱が続く。


 体力のある若い世代が罹る分にはそうそう命に係わることは無いのだが、年寄りや幼子は話が違う。


 この村でも帝都と人の行き交いがあるせいか、それなりの人数が罹患してしまっているらしい。


 この村には医者がいないので、医療の知識を持つハヴェットが代わりを務めているのだが、治療しようにも肝心の薬が不足してしまい手の打ちようが無いのだ。


 しかし、幸いにも近くの森には熱さましの薬の原料になる薬草が自生している。


 ただ、それらを薬にするには少しばかり時間が掛かる上に採りに行こうにも医者の代わりをしているのが災いしてしまい、ハヴェットは村から動けない。


 村人たちも熱が出て動けない者が働き盛りの世代にも出ているせいで仕事に人手が足りず、森まで薬草を採りに行くことが出来なく、にっちもさっちもいかなくなってしまった。


 そもそも、必要な薬草は知識が無いと見分けづらい物なので誰でも気軽に採りに行ける代物でもないのだが。


 だから今回は、イレイナが薬を求めて帝都まで行ったのだが、残念な結果に終わってしまった。


 ただ、イレイナが帝都に行ったの目的は薬を買うことだけでは無かった。


 薬が必要量買えなかった場合の対策として、イレイナと薬草採取に行ける知識を持つ代行者を雇おうと協会に募集を出すのも帝都行きの目的だったのだ。


 そうして雇われたのがキュエル、もとい、イージスだった訳だ。


「今は薬が不足するくらい病が流行っているんですね」


「おや、帝都に居られたのにご存じないのですか」


 自分はしまったと思った。


 特に何も考えずに言ってしまったが、帝都に居れば病気が流行っているのを知っていて当然のことだ。


 国の制度などは調べていたが、一都市の流行り病についてまでは調べていなかった。


 完全に調査不足で自分の落ち度だ。


「さ、最近帝都に来たばかりなもので」


 咄嗟に嘘を付いてしまった自分が嫌になるがここはどうにか誤魔化しかない。


 いや、よく考えれば自分が帝都に来たのは数日前だったのだからあながち嘘ではないか。


「そうだったんですか、それならば仕方ありませんね」


 帝都が人の出入りが激しい場所なのが幸いして、ハヴェットは納得したのかそれ以上追及してこなかった。


「とりあえずこの薬は子供たちに優先して処方しましょう」


「そうですね。明日雨が止んでさえくれれば薬草を採りに行けるのですが」


 そんなイレイナの願いを余所に、教会の屋根に打ち付ける雨音はより激しさを増していくのであった。

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