第18話
「キュエルさん、もう起きていますか? 朝の祈りの時間なので、ご一緒にいかがかなと思ったのですが」
膝を抱えてくるくる空中を回る天使様という、恐らく古今東西この世の誰も見たことの無いであろうものを見てどうすれば良いか分からずにぼんやりと眺めていた私は、ノックの音で我に返った。
ノックの主はイレイナさんのようだ。
返事をしようと口を開けた瞬間、声を発する前にリリスさんが手をバツを作りながら私の口にめり込ませてきた。
「ストップ! ストーップ! キュエルっちのままじゃダメだって」
リリスさんに言われて、私の中にくるくる回るイージス様に入って貰わないといけないことに気付く。
「そ、そうでした! イージス様、早く私の中へ」
催促しながら私は両手を広げてイージス様を受け入れる姿勢を取るが、一向に入って来てくれない。
肝心のイージス様が未だ放心状態で、イレイナさんが来ているのに気付いていないようなのだ。
「リリスさん、どうしましょう。このままじゃ不味いですよ」
わたわた慌てふためくことしか出来ない私を余所に、リリスさんはイージス様の元へと飛んでいくと胸倉を掴んで揺さぶる。
「ちょいちょい、意識ぶっ飛ばしてる場合じゃないって! ヘイヘーイ、聞こえてますかー!」
こんなことをされれば流石にいつものイージス様に戻るだろうと思ったが、私の考えは甘かった。
首の座っていない子供のように頭をぐわんぐわんさせるけで一向にイージス様は正気を取り戻さない。
「あーもう! さっさとしゃんとするし、おマヌケ天使!」
痺れを切らしたリリスさんは片腕を振り上げると、そのままイージス様の頬へと平手打ちをした。
ぱちーんと気持ち良い音がする。
すると、今度こそ正気に戻ったのか、イージス様の目に失われていた生気が蘇る。
「い、痛いじゃないですか悪魔!」
「いつまでもボケっとしてるアンタが悪いんでしょうが! イレイナが来てっからさっさとキュエルっちに入れし」
「え、そんな急に言われても……」
「いいからさっさと入れっての!」
事態が把握できずに混乱して右往左往しているイージス様を見かねたリリスさんは素早く後ろに回り込むと、背中を思い切り蹴り飛ばした。
蹴り飛ばされたイージス様は一直線に私に向かってきた。
大丈夫だとは分かっていても、物凄い勢いで人が自分に向かってくるのは怖い。
思わず目を瞑った私だったが、もちろんぶつった衝撃があるはずもなく、イージス様が私の中へと入って来て体の主導権が失われた。
「キュエルさん、キュエルさん。」
キュエルの耳越しに聞こえたイレイナの声とノックの音ででようやく自分は事態を把握した。
「起きてます! 今、行きますから」
座っていたベッドから転げ落ちながらも自分は大慌てで身支度を整えると扉を開ける。
その最中、イレイナが訪ねて来た理由をキュエルが教えてくれた。
「何か大きな音がしましたが大丈夫ですか?」
「大丈夫です。気にしないで下さい」
訝しむイレイナであったがどうにか押し切り、ハジェットが待つという聖堂へと向かう。
聖堂に着くとハジェットだけではなく、ちらほらとではあるが敬虔な信徒らしい村人たちが集まっていた。
「もうすぐ始まりますからそちらへどうぞ」
イレイナに促されベンチに座ると程なく礼拝が始まった。
祈りの言葉を唱えるハジェットの声は聖堂内によく通る。
村人たちも熱心に手を合わせて祈りを捧げているようだ。
実に素晴らしい光景だ。
自分も皆に倣って祈りを捧げる。
燃やすと気分が落ち着く香りを出すハーブと乳香を混ぜたものが入った香炉から出る煙の香りも相まって、悪魔に蹴られた怒りを忘れて心が穏やかになっていくのを感じた。
礼拝が終わると、村人たちは皆銘々に帰って行くが、数人はハジェットに相談を持ち掛けていた。
少し耳に入っただけでも、病気の家族についてや今度行われる祭りの打ち合わせと相談内容は多岐に渡るが、ハジェットはどの相談にも的確に答えていた。
若いのによく学び、そうして得た知識を的確に使える明晰な頭脳を持っている証拠だ。
彼のような者が司祭を務めるこの教会の将来は安泰だろう。
相談して来た者たち全員に的確な対応をし終えたハジェットは、イレイナを手伝って礼拝堂の後片付けをしていた自分に近づいて来た。
「昨日は眠れましたか? 雨音が酷かったですが」
「はい、よく眠れました。仕事を依頼されている側なのに寝る場所から食事までお世話になってしまって申し訳ないです」
「あまり報酬を出せませんからこれくらいはさせて貰わないと主に怒られてしまいますから。さあ、片付け終えたら朝食にしましょう」
直に片付けは終わり、食堂に移動すると一足先に来ていたイレイナが食卓の用意をしてくれていた。
パンとスープ、質素ではあるが教会で出るメニューとしては定番の物だ。
「それではいただきましょうか」
今日の生きる糧を与えて下さった主への祈りを捧げた後、食事が始まる。
イレイナの手作りらしいそれらは、料理人が作ったと言われても信じてしまうくらいの味だった。
「キュエルさん、沢山ありますからおかわりして下さいね」
スープには村人たちからのお裾分けだという野菜がふんだんに入っていて、一杯食べるだけでもそこそこに腹が満たされる一品であったが、好意に甘えておかわりした。
これまで栄養不足であった成長期の体に、出来るだけ栄養を取らせたいからだ。
決して、美味しかったからだけではない。
もちろん、先日の暴飲暴食の失敗を忘れた訳では無いので、今回はきちんと腹八分目で食事を終えた。
食事を終え、片付け終わると早々にハジェットは出掛けて行った。
流行り病で熱を出している患者の家へ往診に行ったり、近々行われる祭りの打ち合わせにと大忙しらしい。
自分とイレイナも遊んでいる訳にはいかない。
幸いにも雨が止んだので、不足している薬の材料を求めて森へ行く予定だからだ。
用意を済ませた自分が先に教会の入り口を出たところで待っていると、イレイナも背負いかごを背負って出てきた。
手にはバスケットも持っており、中々の大荷物だ。
「大荷物ですね、持ちましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。でも、軽いから大丈夫ですよ。さあ、行きましょうか」
森までは左程離れていないので、歩いていくそうだ。
歩き出してふと思う。
イレイナの道案内で大丈夫なのかと。
しかし、自分の想定とは逆にイレイナの歩みに迷いは無く、自身ありげに進んで行く。
「お、これから森かい? 馬を出してやりたいとこだが忙しくてな。すまん」
途中、これから畑に行くと言うガデンと出会った。
あれだけ濡れたのに、自分たち同様に風邪は引いていないようで元気ハツラツと言った様子だ。
「どうしたんだい嬢ちゃん、不安そうな顔して。ははーん、さては迷わないか不安なんだろ。でも安心しな、イレイナさんはこの辺だと迷わないから」
不安を見破られてしまったことに、自分の思っていることはそんなに顔に出ているのかと少し驚く。
人間界で過ごすならトラブルの原因になりかねないので、気をつけた方が良いのかもしれない。
「ガデンさん、余計なことは言わないで下さい。小さい頃から住んでるんですから当たり前です」
本人はやはり方向音痴を気にしているようで、少しむくれる。
それを見たガデンは悪い悪いと言いながら逃げるように畑へと向かって走っていくのだった。
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