第9話 ヒデくんのこと

 半年以上の歳月が経って偶然的に再開されていたユリさんの海辺のブログ、ご挨拶という、なんだか正体を明かすようなタイトルの記事は、いきなりこんな台詞から始まっていたのです。

 「今、アタシは海辺の見えるマンションを引き払い、東京世田谷の実家に戻ってきました。だから、こうしてね、現在ブログを書いている場所は、実家からなのですよ。

 アタシは、昨年の12月に最愛の主人を亡くしました。病名は肝臓癌、35歳の短い生涯でした。

 初めて吐血したのは、丁度2年前の5月、あの海辺の街でのことでした。

 主人の生まれ故郷に近い香川県の海辺の街に転勤して1年程の歳月が経った5月の連休の時季です。」

 思わぬ展開に慄然とした私です。

「先生から癌告知を受けたのは、しきりに体調不良を訴え最初に吐血をしてしばらく経ってからのことでした。

 肝臓は沈黙の臓器と言われるだけあって、癌についても自覚症状が殆ど現れないとのことです。頑健でテニスとスキーが得意な主人の、あまりもの急展開な運命に、アタシはどうしていいかわからなくなりました。

 余命一年、まさに無実の死刑判決を受けたかのようで、そのときは心底担当医を恨んだものです。

 日頃は気強い主人ですが、いったん折れると再起に時間のかかるその性格を慮り、内緒にしておこう、それが主人の両親やお兄さんたちの意見でした。

 しかし、すべてを一人で抱え込むことになったアタシです。

 最初は実感が湧きませんでした。しかしですね、その事実は少しずつジワジワとアタシの周囲の景色から色を奪っていったのです。そして真っ暗闇になるのに、時間はかかりませんでした。」

 更に話は続きます。

 「主人の事は最期までヒデくんと呼んでいたので、ここでもそう呼ばせてもらいますね。

 ヒデくんが仕事や病院でいない昼間の時間帯、丁度、先生から余命宣告を受けた頃から、アタシはブログを始めることにしたのです。

 なぜなのでしょうね、この辛い現実から逃れるかのように、暇をみては一生懸命過去へ過去へと逃避していく自分に気づいたのです。

 隣町からヒデくんのご両親やお兄さんなどが頻繁に、アタシたちのマンションへとカオを出してくれたもので、それがなかったら、きっと一人では乗り切れなかったことだと思います。

 特にお兄さんには支えになってもらいました。太一というハンドルネームで、親友のケイ子と一緒に、アタシのブログにたくさんのコメントを残していただきました。

 もう駄目だ、最後の闘いが始まったのは、退院後、再び吐血した昨年の晩夏の頃でした。

 その頃からブログ記事の遡る速度に急展開をみせるようになったのは、やはりアタシもまたヒデくんに寄り添うように生き急いだからなのです。」

 ご挨拶と題するユリさんからの衝撃的な手記に、私は心臓の鼓動が規則正しい秒針のように音を立てている錯覚を覚えたものです。

 いずれにしろ、この長いご挨拶に私の集中力は吸い込まれていきます。

 話は更に続きます。

 「JR高松駅からわりあいと近くて、ベランダからはヨットハーバーも見渡せる素敵な二人の小城でした。

 なんとなく潮風も漂ってくるような雰囲気がアタシ達には幸せなスィートルームだったのです。

 あの朝、いつものように白いテーブルクロスの上で比較的長い朝食の時間をすませました。

 そのときにね、ヒデくんはこんなことを口走ったのです。おそらく、ヒデくんは本能の部分で自分の余命を悟っていたのだと思います。」

 次の文章を眼にしたとき、私は初めて他人のブログを読んで胸に込み上げてくるものを感じました。

 「この間ね、俺、担当の先生に、俺の人生って一体何だったのでしょう、可もなく不可もない呆気ないものだったような気がしますと言ってみたんだよね。そうしたら、先生、何て言ったと思うかい。貴方にだって嬉しくてたまらない時がたくさんあったでしょう。一つ、そういう嬉しくてたまらなかった時を教えてくれませんかだってさ。

 俺は少し考えて、こう答えたんだ。

 それは妻と出逢えて、二人で楽しい生活を送ってきたことに尽きるかなってね。

 照れ笑いを浮かべるヒデくんに、アタシは何も答えることができず、結局、涙をこらえて、ただありがとうの一言だけをいって玄関口まで見送ったのです。

 ヒデくんの体力はその頃が限界だったのだと思います。しかし、余命宣告の時期を越えんとする生命力に、アタシは希望の光を抱いてもいました。

 長期休職に入る直前で最後の整理に会社へ向かう朝の出来事です。

 ヒデくんを送りだし、アタシは、すぐに海が見たくなってベランダへと足を向けました。眼下に疾走する国道を抱擁する青海原は抜けるようなコバルトブルーで、朝海の太陽の光が、アタシに言い知れぬ満足感を与えてもくれたのです。

 幾たびも眺めた大海原ですが、そこには希望も絶望も超越した言辞に表出しがたい何かが水平線の向こうに見え隠れしているような気がしたのです。

 その日の夕方、会社から再度吐血したという連絡が入り、すぐに再入院・・・。

 この状態では、どんなに節制しても三か月もつかどうか、担当の先生の真剣な眼差しに、アタシは遂に来る時が来たのだなと覚悟を決めたのです。

 もう、ヒデくんは精根尽き果てていた、故郷に近いこの海辺のマンションがとても気に入っていた、そして誰よりも最期の数ヶ月、全力疾走したのだと思います。

 それから約二か月の後、波の水しぶきと一緒に遊ぶように、そして白く揺曳するように天高く舞い上がっては、最後に一瞬アタシの方を振り向いてくれては遠い国に旅立ったのです。」

 久しぶりに更新されていたユリさんの記事を読んだときの衝撃というものは、いまだ忘れがたいものがあります。

 最愛の主人が余命宣告を受けた、どうしていいかわからない、この辛い気持ちを誰かに話して発散させたい、勿論、誰か発散させる相手はいたのだと思いますが、ブログをもって、その感情を爆裂させたということなのだろうか、私はそんなふうに考えてみたものです。

 しかし、なぜ、彼女はどんどんと今の幸せから過去へと突き進んでいったのか。

更新されたご挨拶の中、こんなこともいっていたものです。

 「自分でもよくわからなかった。今のヒデくんと離れることはできない、それだけをブログ記事の中で全身全霊に描くうちにね、日が進むうち、アタシの記事はなぜか過去に遡っていったのです。

 自分の人生を振り返った話なんて、意識してできるのは幸せなときだと思います。     

 それに、子供のときの話から始めたら、その時点でずっと彼から離れた状態にあるわけで、出逢うまでにどれだけの時間が必要とされるのでしょう。」

 彼女は結果がわかった人生を書くことによって、絶望の中に一つの慰みを見出そうと必死に努力したのだろうか、私はそんなふうに想像してみたものです。

 結果、それは、つまり彼と出逢い、彼と最期に過ごすことになる海辺のマンションでの幸せ。

 この困難を乗り越えるためには、その結果に至る無数の原因を描き続けることだったのかもしれません。

 どういうことかというと、自分の今までの人生というのは、彼と逢うためにあったのだということを再確認したかったのではないだろうか。彼にまで続く一本道は、何よりも幸せな自分の人生だったということか。

 三段論法というのは、大前提として人間ならばいつか死ぬ、小前提として、彼は人間であるとした場合、彼はいつか死ぬという結論を導くものです。

 これを逆に辿って、彼女はブログ記事を描き続けた、そして最期に辿り着いた大前提は、あの木漏れ日の昼下がり、ファースト・メモリーということになるのでしょうか。アタシは生まれた・・・。

 そして、彼女は更新されたご挨拶の最後に現在の心境を語っていました。

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