第8話 執筆者からのラストメッセージ

 その年の12月、あたかも忽然と、いや、ファースト・メモリーまでを書ききった上でのことだから事前の計算通りにという方が正確なのかな。

 いずれにしろ、ユリさんの海辺のブログは放置状態となり、その後一切の更新がなされなくなるのです。

 しばらくの間、何度も彼女の逆行性半世紀を読み返しては、相も変わらず不思議な気持ちになる私でした。

 時空を越えて、船橋市立松川小学校という舞台で、一瞬の交錯があった不思議な因縁、だからこそ彼女のブログには余計思入れが強かったのだと思います。

 自叙伝というものは、よく考えれば論理の積み重ねのような気がします。

 原因と結果との間に幾多もの華を添え心地よい線を描ききる、もっとも、これは自叙伝に限らず、どんな小説にあっても必須なセオリーなような感じがします。

 しかし、彼女のブログ記事というものは、結果から原因へと遡るものでした。

 とりたてて文学的連関性があったわけでもなく、単なる歴史的事実の羅列と言ってしまえばそれまでですが、その羅列の組み合わせに音が奏でられているような気もしたわけです。

 これは文芸における新しい表現方法なのだろう、そう思っては納得したい私です。

 ブログ記事の構成や隙間に漂う文学的香気とは別に、しばらくの間、気になってならないユリさんという謎の無名ブロガーの属性について推理を試みた私です。

 私が最初に想像したのは、このブログ記事全編は、ユリを名乗る者の、小説というか妄想日記だったのではないかということです。

 多感な思春期の少女が理想の人生というものをブログで空想絵巻のように創作的に描いてみたということです。

 しかし、一記事ずつをみるに、非常に具体的な描写が多く、例えば、OL時代の細かい記述やら新婚時代の話などは、体験者じゃなければ書けないような迫真性に富んでいるわけです。

 そうでないなら、老女による妄想的創作か、それにしては、時代背景に嘘というものがないわけで、これは同年代の私にとってもよくわかるところなだけに、どうも違うような感じがする。

 やはり、穏当な推測は34歳頃の人生において、ユリさんは絶望的な運命に陥ったということでしょうか。

 どうも執筆当時の彼女の神経になんらかの異変が生じているのは、なんとなくわかるような気がするのです。

 未来を捨て、ひたすらに過去へと向かい続けるということは、現在における絶望が前提にあるような気がしたわけです。

 そして、最初は旦那さんとの仲のよい記述から始まって、どんどんと、その描写が薄くなっては、やがて、旦那さんと知り合う以前の記述へと進む。

 その方がずっと豊饒な記載に圧倒されるわけでして、事実ゲレンデでの出逢い以前に旦那さんが出てくるということは一ミリたりともなかった。

 ましてや、短大時代の恋人の話やら十代の少女時代の夢を必死に書き綴るあたりには、どうも現在の旦那さんとの関係を想像してしまうものです。

 現在、ふたりの仲は冷却状態にあるのではないだろうか。

 静岡での新婚時代を経て、彼女たちふたりはどこか海辺の街へと引っ越した。

 その街で、ふたりの関係は悪化した。

 原因は、旦那が秘密で借金を300万円位抱えているのが発覚したとか、地元のフィリピーナに惚れ込んでしまった。 

 もしくは、彼女の方が、暇をもてあまし、地元の男性と不倫関係に陥って、今後の身のほどこしようを苦しんでいるのではないか。

 最後に更新された人生のファースト・メモリーの記事から一月ほどが経った正月明け、私は、この不思議なブログに一つの結論を下しては、サヨナラすることにしたのです。

 海辺のマンション・・・。

 これは、ユリさんの不倫相手のマンションなのではないだろうか。

 月に何度か旦那の留守の間に、密会しては、秘めた哀しい愛を楽しんでいる。

毎日逢えないもどかしさが逢っては歓喜に覆いつくされ、別れるときに再び哀愁のシンフォニーを奏でる。

 私が、きっとそうであるに違いないという結論を下したのは、一年にわたって続いた海辺のブログにおけるコメント欄に理由がありました。

 文章が旨く、ユーモアにも富み、そして逆さまながらも女性の人生の発達的側面をピントに合わせて描いているような点、要するに魅力溢れるこの海辺のブログには、きっと私のように熱心な読者もいたことかと思います。

 しかし、読者登録者は営利宣伝目的のブログ以外にさほど多くなかった。共感の足跡ボタンを押す者もしかりです。

 ただ、この海辺のブログ、たかが一年弱にわたって続いただけですが、投稿記事数もその文字数もかなりのボリュームだったわけです。

 だから、そのアップされた記事たちにコメントを残す者もそれなりに散見されたものです。

 何人かコメントを残すブロガーはいたものの、おそらくユリさんの方から返信もなかったわけだから、きっと応答のコメント返しもなかったものだと推測できます。

 その証拠に、二度続けてコメントを残す者は殆どいませんでした。

 そんな中、ユリさんからのコメント返しがないにもかかわらず、頻繁にコメントの足跡を残している者が二人ほどいたのです。

 この二人、一人はケイ子というのだから女性なのでしょう。もう一人は太一と名乗る男性でして、この両者からのコメントが目立つ程頻繁になされていたのです。

 ここで気づいたのは、この両者、名前部分をクリックしても、彼らのブログに飛んではいかない、つまりブロガーではないということです。

 おそらく、両者とも実社会でユリさんとつながりのある友人だったのだと思います。

 二人とも、やたらユリさんのブログ記事に賛美のコメントを残しているわけでして、とりわけ太一の方がとても優しい抱擁的なコメント内容であることに気づきました。

 でもちょっと変だぞと感じたのは、太一のコメント内容に時々平仄が合わないような点を覚えるところでした。

 たとえば、ユリさんが新人OL時代の楽しい思い出を語っていたり、短大時代の青春謳歌を筆に流すとき、そんなほのぼのとした記事に対して、妙にユリさんを慰めるようなニュアンスのコメントが時々散見されるのです。

 特に多かったのは、前向きに生きようとか健康に気を付けてね、それに睡眠は十分にとってねという彼氏が恋人の身体を労わるようなコメントです。

 このような生を前提とした内容のコメントがあるということ自体、最初に私が推測したユリさんの寿命云々というのは却下されることでしょう。

 だから、私が最終的に結論を下したのは、この海辺のブログというのは、ユリさんと太一との悲しい恋の物語を意味するのではないかということです。

 過去に遡る奇妙な法則性は、もしかして、なかなか逢えない太一に対する大がかりな暗号のようなものだったのではないか、海辺の見えるマンションというのは不倫相手である太一の部屋なのではないかとの推理的結論を下したのです。

 いずれにしろ、妙な因縁を有したユリさんと、このバーチャル空間においてではなく現実世界で一度お会いしてみたいものだと願ったわけですが、それも叶わぬ大海の雫となってしまいました。

 もう、すっかり更新はなくなってしまったのですからね。

 しばらくの間、私はその文章を何度も噛みしめては味わいたいという気持ちやら謎のベールに対する好奇心やらで訪問を繰り返していたのですが、時が経つにつれ、その訪問回数も徐々に減っていきます。

 そして三か月もするうちに、私はいつしかユリさんの海辺のブログ、その存在自体を忘れてしまうようになりました。 

 最後の記事で最初を描いて終わった海辺のブログが更新されなくなって半年位の歳月が経った頃でしょうか。

 日本列島梅雨入り宣言の時季、春と夏との境目に木々の息吹の勢いが少しだけ休憩しているかのような頃でした。

 当時、私は仕事でプロジェクトリーダーの役を担うことになり、そして夜はブログにおいて新小説の下書きを何作も発信するという快感に酔いしれていた。つまり、公私にわたって充実と前進に満ち溢れた毎日を送っていたのです。

 或る晩、日課となって久しい、ブログ記事アップのためにPC前に鎮座したときでした。

 自分のブログのホーム画面を目にした時です。

 タイムラインで読者登録している方のブログ更新情報がオープニングクレジットのように縦に流動しているのを確認しました。

 うんっ・・・。

 お馴染みの縦に流れる各ブログのアイコンに交じって、久方ぶりに目にする懐かしいブログを発見したのです。

 海辺のブログ・・・。

 綺麗な向日葵のアイコンと、なぜか小さな文字で記されている更新日時が私の視線を奪ったのです。

 そして、そこにある「ご挨拶」という記事のタイトルだけで私は胸が揺さぶられる気がしたのです。

 すぐに思い出したというか、そもそも一時的に記憶の忘却装置に仮のスイッチを押していただけだから、私は、一瞬間でユリさんからの久方ぶりのブログ更新記事だと気づいたわけです。

 早速、私は、半年以上ぶりに更新されたユリさんのブログ記事に飛んでみました。

 昨年、夢中になったユリさんの海辺のブログ、それは不思議な人生逆行性の記事であり、かつ私との船橋市内における一瞬の交錯もあった記事であることをあらためて思い起しては噛みしめたものです。

 そして、「ご挨拶」というタイトルに、私は言い知れぬ響きを覚えたのです。

 その晩、私は、ユリさんが久しぶりにアップした「ご挨拶」という記事を興味深く読み始めました。

 読み始めて、すぐに嘘偽りなく、全身に鳥肌が立つような衝撃を受けたのです。

 私が最終的に想像した不倫相手に対する暗号であるという推理やら、これは先行き短い闘病日記であるとか一つの小説なんじゃないかという推理。

 自分の創作能力に対する自信が一挙に瓦礫のように崩れ去っていくものを感じたものです。

 事実は小説より奇なり。

 まずは海辺がみえるマンションについての事実に驚愕した私です。

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