第4話 初めての彼氏
時々、磯の香りが当時の私のワンルームマンションにも伝わってきたのは、彼女が、過去のブログ記事の隙間に海の風景を描写するときです。
たとえば、新入社員時代、親友の女性が同期の男性との色恋に悩んでいるような描写記事のとき、こんなふうに呟く台詞です。
いつか彼女にも落ち着いて銀波が揺れゆく海を眺めるときがくるかもしれない、そしてオレンジ色に反射する夕焼けの海をみつめるときに過去たちが手を取り合って、優しく語りかけてくれるときがくるに違いない。
現時点、彼女が海の見えるマンションの一室でパソコンに向かっているからこそ、余計に胸にぐっとくるというわけです。
こういう文章の行間に、素晴らしい大自然の風景に溶け込めたのなら死んでもかまわないという一種の大洋体験を感じさせるわけです。
海・・・。
彼女は今どこにいるのだろう、そんな好奇心も抱いたものですが、話はどんどん過去にすすみます。
何もできないまま老人になることを、何よりも恐れていた当時の私は、時間よ止まれ、彼女のブログを読み進めながら、ついそんなことも心中呟いたものです。
秋の訪れとともに、今度は短大時代に遡っている彼女のブログ記事です。
横浜にある短大の家政科に通っていたようで、授業内容なんかについてもエピソード風に綴っているのですが、横浜といえば、やはり彼女も私同様東京近辺で生まれ育ったのだなという妙な親近感を得たものです。
しばらく続く短大時代の話、ここで生まれて初めてできたボーイフレンドが登場し、興味深く感じる私でした。
しかし、この辺で、私は現在進行中の旦那とのイチャイチャ生活ぶりに思いを至し、少し緊張してしまいました。
これもなんか変だよな。
大体、こういう記事を仲睦まじい旦那が覗いたらどう思うのだろうか。
たとえば、結婚して何年も経ち、子供も成長し、やがて歳月とともに旦那との距離が八の字の末広がりのように遠のきだした時期ならばわかる。
しかし、その年の正月過ぎに始まったこのブログ、夫婦仲はまるで恋人関係のように、いやそんな関係を超越した愛と信頼の日々のシーンからスタートしているわけです。
結局、ブログをやっている主婦というのはたくさんいるわけでして、旦那さんはそれを見ていない、いやその存在すら知らないというのが一般で、ユリさん夫婦の場合もそうだったということなのかなと思いました。
初めての彼氏は他大学の文学部に通う3年生で、彼女が属していたテニスのサークルが横浜の中華街で交流会を開いた時に出逢ったと書いています。
お互い恋人が出来たのは初めての体験だっただけに、結局、肝心なところで意思が通じ合わない素人パントマイムを演じ合うような感じだったともいっていました。
それでも、彼氏は素敵な文学青年のようなところがあり、いつだったか吉行淳之介の言葉を語ってくれたことが今でも忘れられないともいっています。
愛することは、この世に自分の分身を持つことである。
いたく感心したユリさんだったそうです。
しかし、当時の彼氏を振り返って、とても抑制的な人だったともいっていました。
臆病で、アタシに依存していたところもあったけれど、必死に感情を表に出さないように努力する強さがあったともいっているわけです。
それを強さと思ったのは、怖がる感情、怒りの感情、つらい感情、マイナス的な感情をホントは別の場所で爆裂させるとしても、絶対アタシの前では抑えていたわけで、それはアタシのその後の人生観につながったとまでいいきっているわけです。
彼女が卒業する頃、彼氏もまた4年制の大学を卒業する時期で、社会人としてスタートする時期が重なった。
短い交際期間だったけれど、別れの原因は以前に彼が語った吉行淳之介の言葉にあったのではないかしらとも回想しています。
真面目な彼は本当にユリさんを自分の分身のように思うようになり、それがとても邪魔になってきたのは、深い名言を咀嚼できる程お互い人生経験をつんでいなかったからだと思うというふうに話を結んでいるわけです。
二人が出逢った横浜の中華街で、もう二度と会わないという約束をした二人・・・。
そして、その話の続きは、相変わらず時を遡り、短大に入学する前、悩み多き女子高生時代へと進みます。
このようなユリさんのブログを読み進める私の部屋の窓の向こうには、肌寒さが一段と増す木枯らしが吹きすさぶ晩秋の時季となっていました。
女子高生時代の記載あたりから、ユリさんは具体的な出身地や家族などの属性を浮かび上がらせるようになります。
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