第187話 加速する歴史

 永禄七年(一五六四年)神無月(旧暦一〇月)、新田家は蝦夷地および奥州の大部分を支配下に治めた。都道府県で表すなら北海道、青森県、秋田県、岩手県、山形県(※一部、本庄領)、宮城県、福島県(※北部のみ)となる。石高は六〇〇万石を越え、人口数も経済力も他家を圧倒する大大名となった。

 そんな大大名が出現すれば、当然ながら他の地方にも影響を及ぼす。関東では北条氏康、氏政が武蔵国の過半を制圧し、里見、佐竹との衝突が激しくなっている。蘆名は隣接する田村氏を従属させた。上杉は上野国を中心に、東越後の揚北衆に援軍を送り、本庄繁長と本格的な戦となっている。

 だがこの年、新田に次いで大きく躍進したのは武田家、そして織田家であった。


「当家の御嫡男太郎義信様は、太守様(※今川氏真のこと)の義理の兄弟でございます。時勢の流れから、我が武田家と今川家は争うこととなり申したが、これ以上の兄弟の争いは義信様にとっても耐えがたく、叶うならば和睦をしたいと願っておりまする」


 駿河国駿府城において、真田源太左衛門幸隆が弁を奮っていた。今川家の情勢は、一年前とはまるで違っていた。昨年の暮れには三河の松平元康が一向一揆を鎮め、東三河へと侵攻を開始した。東西を挟まれた今川家は、主家を見限る者たちも出始めた。永禄七年春、武田信玄は、嫡男の義信を先頭に二万の軍勢を薩埵峠に向かわせた。同時に、東三河でも松平の攻勢が激しくなり、今川氏真は東西に兵を分散せざるを得ず、薩埵峠には十分な兵を置くことはできなかった。さらに、朝比奈や葛山などの重臣らが離反したことで、戦らしい戦にもならずに薩埵峠は越えられ、ついには駿府城にまで武田軍が押し寄せてきた。


「早川殿を北条にお返しすること。また安部川、小山城までの御引き渡しを願いたい。即ち、遠江にまでお退きくだされ。さすれば駿府の包囲を解き、決して攻めぬことをお約束いたします」


「黙られよ! 武田の約束など信用できるものか! 彦五郎殿、ここが踏ん張りどころですよ? 城の守りは固く、兵糧の蓄えも十分。武田とていつまでも包囲することは叶いません。断固、戦うのです!」


 氏真にとっては祖母に当たる寿桂尼は、高齢を押して駿府城に登城し、武田家の謀臣と相対していた。齢八〇を過ぎている。半生を賭して育ててきた今川家が滅びようとしている。寿桂尼にはそれが耐えられなかった。孫の氏真は、父親である義元ほどの器は無かったが、それでも平時であれば、今川家を存続させることはできただろう。だが時が悪かった。今川氏真に、滅びゆく今川家を立て直すほどの器量はない。重臣たちからも、そう見限られてしまった。


「この真田が人質としてこの城に残りまする。もし武田が裏切るようなことあらば、遠慮なくこの首を刎ねられよ。まずは東を安定させ、遠江一国、そして東三河の総力を持って、松平と当たられませ。松平元康とて、一向一揆で大いに力を落としておりまする。遠江の力を集中させれば、三河を取り戻すことも容易でござろう」


 それは悪魔の囁きにも似ていた。氏真は現状をどう打開すれば良いのか、案が無かったのだ。祖母である寿桂尼は、当主として背筋を伸ばせ、しっかりしろと口喧しいが、なにをどうすれば良いのかは教えてくれない。父である義元には、太原雪斎という指導者がいた。だが自分にはそうした人物がいない。迷い、判断ができない状況で、一つの指針を与えられたのだ。いきなり大大名の当主に据えられた若者が、それに飛びついてしまうのは、仕方が無かったのかもしれない。

 永禄七年葉月(旧暦八月)、祖母の反対を押し切って、今川氏真は駿河国を放棄し、遠江の曳馬城まで兵を退いた。北条氏康の娘である早川殿は、嫡男である義信自らが出迎え、伊豆まで送り届けた。こうして武田家はついに、駿河一国を切り取ったのであった。




 同様に、織田家でも大きな動きがあった。稲葉山城の喉元にあたる墨俣に砦を築くことに成功した信長は、西美濃の国人衆たちに調略を仕掛けた。西美濃三人衆と呼ばれ斎藤道三、義龍を支えた稲葉良通、安藤守就、氏家直元も、稲葉山城と西美濃を分断する墨俣に砦を築かれたことで、主君の龍興を見限った。

 永禄七年水無月(旧暦六月)、織田信長は一万二〇〇〇の軍勢で美濃を攻め、ついに稲葉山城を落城させた。史実よりも四年近く早く、美濃一国を切り取ったのである。


「親父、舅殿…… ついにやったぞ。織田は美濃を得た。これから儂は、天下統一へと乗り出す。日ノ本を束ねて争いを無くす。傷ついた土地を回復させ、様々な産業を振興し、豊かな日ノ本を創るのだ」


 稲葉山城の天守閣において、信長は美濃を睥睨しながら呟いた。その横に、於濃乃方(※帰蝶姫)が立つ。二人の間に子はいないが、信長は正室としての扱いを怠ったことはない。夫婦と言うよりも、同志に近い関係であった。


「ホホホッ…… 父が聞いたら、大言壮語と笑うでしょうね。ですが父もまた、御前様と同じように、ここから美濃を、天下を見ていました。時を繋ぐ者として、御前様を選んだのでしょう」


「で、あるか。ならばいよいよ、儂は大うつけにならねばならぬ」


 信長は硯と大筆を持ってこさせた。墨汁を滴らせた筆を持って、天守閣の襖に向かう。数瞬瞑目し、そして一気に文字を認めた。


『天下布武』


「この戦乱は、武をもってのみ鎮めることができる。ここからが始まりよ。まずは伊勢の北畠、南近江の六角を降し、一気に上洛を果たす。大和、摂津、丹波など畿内を抑えるのだ。時は幾らあっても足りぬ」


「いずれ東は、新田によって統一されるでしょう。殿は西に進まれるのですね?」


「新田とて、武田や上杉には手古摺ろう。そうだな。一〇年と想定するか。一〇年後、新田と雌雄を決する大戦を行う。場所は恐らく、三河か遠江となるであろう。そのつもりで、儂は駆けるぞ」


 信長の瞳は、野望の炎が燃え盛っていた。斎藤道三すらも超える、圧倒的な覇気を背から昇らせる。夫の頼もしい姿に、妻は目を細めて微笑んだ。




 永禄七年師走(旧暦一二月)、新田又二郎政盛は本拠地を米沢城へと遷した。家中の誰もが、その意味を理解している。翌年には蘆名攻めが始まるだろう。猪苗代や田村、相馬はおろか、佐竹まで攻め込むかもしれない。いよいよ、関東攻めが始まるのである。


「それにしても早い。これほど戦を繰り返せば、普通であれば百姓たちが疲弊してしまうが、御当家ではそれがない。富裕といえばそれまでだが、それを作り上げた内政の力は、驚異の一言だな」


「吉右衛門殿にお聞きしたところ、宇曽利三〇〇〇石の頃から、殿は天下を目指しておられたそうです。まだ童の頃からです。某にはとても信じられません」


 米沢城の一室では、領内の検地や刀狩りの手筈を整えるため、伊達総次郎輝宗と遠藤文七郎基信が書類仕事に追われていた。新田家では公式文書はすべて楷書体で統一されており、書類の書き方や保管方法まで細かく決められている。新田に降伏してからの二ヶ月間は、文官の仕事を理解するだけで精一杯の状態であった。


「殿は面白いことを考える。牛を育てよとな。畑を休ませている間に牛を放し飼いにし、また麦や大豆を与えて肥えさせるという。食べるために育てるという考えなど、普通は思いつかんぞ」


「米沢牛はないのかと首を傾げておられましたからな。御当家では各地で、馬のみならず牛や猪、鶏、雉、鴨などを育てております。肉を食べるのが当たり前というのが驚きです」


 新田家で過ごした二ヶ月間だけで、なぜ新田家が富裕で強いのかが嫌というほど理解できた。国造りの根本が違うのだ。新田家の考えは、国造りとは人造りであり、土地造りであった。領民皆に、読み書きと算術を覚えさせ、忠孝や仁義の考えを説く。働き、豊かになれるよう土地開発に力を入れ、街道整備や治水、田畑の整地、集落の統廃合、家の建造などあらゆる賦役を行う。信じ難い程の銭が動く。それを求めて人々が集まり、そして物が売れていく。時が経てば経つほど、新田はさらに豊かになるだろう。


「来年には子が生まれる。伊達家を継ぐ者だ。俺も禄のすべてを子育てに注ぐつもりだ」


 もし嫡男が生まれたら、叶うなら新田家の姫を娶りたい。そうすれば伊達家は末代まで栄えるだろう。妻である義姫は、嫡男が生まれることを願って出羽三山に奉納までしている。輝宗としては、男でも女でも構わないので、健やかに育って欲しいと願っていた。


(もし嫡男が生まれたら、その子は新たな天下のもと、伊達家の未来を担うことになる。神仏の加護を得るためにも、良い名を考えねばな…… 梵天丸とするか)


 輝宗は書類に目を落としながら、悪くない名を思いついたと思った。

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