第九章 信越盟約

第145話 軍神

 小田原城の落城。これを聞いた又二郎は、重臣たちと詳しく聞くため、後日に改めよと命じて加藤段蔵を下がらせた。疲れ切った体を横たえる。普通なら一瞬で寝落ちするが、この夜だけは目が覚めてしまっていた。仕方が無いので、段蔵の話を思い出す。


『小田原城が落ちた…… つまり北条が滅びたというわけか?』


『いいえ。当主の左京太夫氏康殿や嫡男をはじめ、主だった者たちは落城前に密かに小田原城を抜け、伊豆へと逃れました。現在は、伊豆韮山城に本拠を移しておりまする』


『なるほど。それで、長尾景虎は追撃をしたのか?』


『それが、不思議なことに長尾景虎殿はその場に留まり、小田原城の破壊のみを命じ、自身は鶴岡八幡宮、そして上野へと向かいました。なんでも、北条もまた関東人。滅ぼすには忍びない。武士の情けであると言ったとか……』


『………』


 布団の中で、又二郎は再び溜息をついてしまった。長尾、いや名前を変えて上杉政虎の阿保さ加減に呆れているのだ。


(なにが武士の情けだ。上杉の本拠は越後だ。相模はあまりにも遠すぎる。かといって放っておけば、小田原城の取り合いとなり、第二の北条が出るかもしれない。だから使えないように破壊した。これで関東は中小国人が入り乱れての戦国時代になるだろう)


 史実では、北条家が滅亡後、その土地は徳川家康が領する。家康にとって幸運だったのは、その時には関東の大多数の国人は駆逐され、北条家によって関東平野がある程度、開拓されていたことにある。もし永禄年間あたりの荒れ模様であったなら、関ケ原の戦いはなかったかもしれない。北条がいたから、家康は関ヶ原で勝てたのである。


(関東は乱れに乱れる。民も多くが逃げ出すだろう。出来るだけ新田に呼び込まなければ……)


 北条は滅びたわけではない。氏康は内政家であるが、戦にも強い。嫡男の氏政も、少なくとも凡庸ではない。それに飛び地とはいえ、北条一族の城がまだ残っている。再起を掛けるに違いない。


(義理や信念で戦をするのはいい。だが戦をした以上はちゃんと後片付けをしろよ。上杉謙信は、後先考えずに戦のしっぱなしだから嫌いなんだよ。軍神というよりは、完全な戦闘狂バトルジャンキーだろ)


 毒ついていると、いつの間にか意識を失っていた。余程に疲れていたのだろう。目が覚めた時は既に日が天頂近くまで昇っていた。




 永禄四年卯月(旧暦四月)中旬、長尾景虎から名を改め、上杉政虎となった上杉家当主は、春日山城へと戻っていた。


「御屋形様、この度の御戦勝、誠におめでとうございまする。また関東管領への御就任、祝着至極にございます」


 齢三二の当主に、重臣を代表して家老の直江神五郎景綱が祝いの言葉を述べると、重臣一同が一斉に頭を下げる。口の周りに短い髭を蓄えているが目つきは鋭く、精悍な顔立ちをしている。美丈夫というよりは男前といった顔であった。


「うむ。皆、此度の戦ではよう働いてくれた」


 労いの言葉はそれだけである。無論、上野国を丸ごと領したのだから、戦で働いた者たちには多少の加増はあるが、本来ならば武蔵、相模まで手にすることも可能だったのだ。それを捨て、関東の国人たちに旧領を回復させてやるなど、家中でも疑問を持つ者は少なくない。


(我が殿は、言葉少なしを良しとされる。だがこれでは、家中に不満が溜まる。ここは儂がお尋ねするしかあるまい……)


「御屋形様にお尋ねしたき儀がございます。何故、武蔵、相模をお捨てになられたのでしょう。北条は未だに残っており、関東の国人たちもいずれは争いはじめましょう」


 無論、直江神五郎景綱も理由は大体、察している。だが家老として、敢えて説明を求めた。上杉政虎に面と向かって諫言できる者は少ない。かつて長尾家の筆頭家老であった宇佐美四郎右衛門尉定満も、政虎への諫言が度を過ぎて煙たがられてしまった。


「武田、そして新田への備えだ」


「なるほど。武田信玄めは性懲りもなく、川中島に出るべく割ヶ嶽城を落としました。関東は勝手な国人が多い土地。治めるには時間も手間も掛かりましょう。武田との決戦となれば、相模、武蔵まで気を配ってはいられぬ、ということでございますな」


 主君に代り、家老である直江景綱が家中に向けて説明する。言葉の少ない主君だが、決して暗君ではない。合戦においては神懸かりのような采配を取るし、内政でも越後の青苧座(※麻繊維が採れる青苧を取り扱う商人たちの組合)を手中にし、陸奥や出羽との交易で大きな利を出している。


「陸奥においては、公方様より討伐の令を受けた奥州探題、羽州探題が新田と争っておりまする。遠からず、伏齅ふせかぎ(※上杉家の諜報集団、軒猿とも呼ばれる)から報せが届くでしょう」


「すでに届いている。昨夜だ」


 政虎が片手を挙げると、控えていた小姓が恐縮しながら、一通の書状を景綱に渡した。景綱としては、だったら先に言えと思うのだが、さすがに面と向かってそんな文句は言えない。内心で文句を言いながらも書状を開いて読み始める。そして顔色が変わる。


「こ、これは……」


「神五郎、どうした。何が書かれておる!」


 重臣たちも、主君の言葉の少なさには、やれやれという思いであったが、書状を読んでワナワナと震えている直江景綱の方が気になる。


「……宮城野において、新田と奥州探題、羽州探題の戦があったそうだ。新田討伐の連合軍には、蘆名、相馬、田村、佐竹、天童、延沢など陸奥から関東までの大名、国人が集結し、その数はおよそ五万。新田は四万程の兵を整えたそうだ」


「四万対五万…… それで、結果は?」


「新田の完勝。奥州探題伊達晴宗は討死し、伊達軍は崩壊。最上や蘆名も多く討たれた。佐竹はなんとか無事に逃げ切ったそうだが、連合軍の死者は一万を超えるという。一方、新田の犠牲は二〇〇〇にも届かないそうだ」


 大広間がシンとする。これで奥州は新田によって統一されることが、ほぼ確定した。そして遠からず関東、そして越後に出てくる。関東に兵を割いていたら、瞬く間に越後は飲み込まれてしまう。武蔵、相模を捨てたのは、正に英断だったのだ。


「さすがは御屋形様。まさに神域の御英断。この神五郎、畏れ入りましてございます」


 隣に座る柿崎景家に書状を渡した景綱は、政虎に向かって両手をついて軽く頭を下げた。結果論ではあるが、これで家中も納得する。利用できるものは利用しようという判断であった。


「それで、やはり先に武田と決着をつけますか?」


「葉月だ。だがその前に、出羽に行く」


「……は?」


 景綱をはじめ、重臣たちは目が点になった。「なに言ってるの? アンタ……」という言葉が、全員の中に浮かんだ。




 時は少しだけ遡る。宮城野を中心に、点在する中小の国人たちを飲み込んだ新田家は、伊達と最上の国境をほぼ確定させた。伊達は阿武隈川を越えて逃げたため、柴田城を落としてそこまでを新田領とした。西は蔵王山系近くを治めていた砂金いさご氏が降ったため、そこまでとしている。つまり現在の宮城県で例えるなら、およそ八割を領したことになる。


「検地に刀狩に戸籍の整備、更には街道整備に港湾整備、各村落への農法の指導などなど、とても人手が足りませぬ。これ以上の拡張を図るには、より多くの文官が必要でございます」


 すわ、小野寺攻めと考えていた又二郎を止めたのは、文官筆頭の田名部吉右衛門政嘉であった。新田において、内政は最重要課題である。考えてみれば僅かな期間で、新田領は倍以上となったのだ。旧葛西家の文官たちを吸収しても、新田式に馴れさせるには時間を要する。


「最低でも一年は、時間を頂きたく存じます。どうか一年、御辛抱くだされ」


「一年か…… やむを得んな。吉右衛門の進言を受け、一旦は立ち止まろう。一年で伊達や最上が復活するとは思えぬが、小野寺が不安だ。あと二月はここに留まるが、その後は浪岡に戻る」


 せっかくなので、その二ヶ月間でやることがあった。陸奥国においても南に位置する宮城野以南は、宇曽利や津軽から見れば遥かに温暖である。そのため二つのものが手に入るのだ。梅、そして木綿である。


「種はすでに手に入っている。だが綿花は寒さに弱い。陸奥においては、この阿武隈一帯が北限であろう。鰯を干したものを肥料とし、まずは一年間、試験的に綿花栽培を試すのだ」


 卯月(旧暦四月)上旬とは、グレゴリオ暦にすると四月末から五月上旬である。綿花の種蒔きには最適の時期であるが、陸奥の平均気温は低い。芽が出ない可能性も十分にある。


「卯月から長月(旧暦九月)の末まで掛かるだろう。日当たりと風通しの良いところで栽培するのだ。失敗しても構わぬ。いずれ新田は関東に出る。その時にまた試せばよい」


 室町時代から戦国時代にかけて、木綿は中国からの輸入に頼っていた。三河で僅かに栽培されていたという記録もあるが、本格的な商業栽培が開始されたのは、江戸時代からである。


「木綿が安定的に手に入れば、布団が変わる。着物も変わる。他との格差がさらに広がり、新田に救いを求めて人が群がるだろう。もっと豊かさを、もっと贅沢を…… 人は、妬みと欲望によって動くのだ。クックックッ……」


 永禄四年卯月、膨張する新田家は中身を充実させるべく、一年間立ち止まった。

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