第94話 酒宴の一場面
三戸城下の屋敷において、奥瀬判九郎は自分の数奇な境遇について思い返していた。外ヶ浜の小さな国人でしかなかった自分が、今では津軽、陸奥、鹿角半分を領する大大名の重臣となっている。
《殿、鉄不足の問題であれば、百姓が貯め込んでいる鎧や刀を買い取るというのは如何でしょうか? あるいは供出した者には、その分の税を免除するなどしては……》
《さすがは判九郎。民を富ませつつ刀狩りを行い、しかも我が軍の増強にも繋がる。すぐに手配せよ》
三年前、評定において鉄の不足が話題となった時に、ふと思いついた意見を口にしたら、当主からベタ褒めされて、自分がその責任者となった。戸籍整備と並行する形で買い取りを行っていたら、気が付いたら新田家全体の行政官をとりまとめる国務次官という立場となってしまった。
「次官。九戸、久慈など新たな集落の戸籍および石高の概算が取り纏まりました。ご確認ください」
こうした新しい統治形態について、最初は戸惑いがあった。特に、行政官の登用は門戸が広く、武家以外からも新田家に登用される。そのため元国人からは不満が出る可能性があった。そこで新田家では「家禄」と「俸禄」を分けている。家禄とは、臣従した国人たちに保障されるもので、基本的には降った時の石高と同石高を与えている。そして、それとは別に、仕事に応じて俸禄が決められている。さらには新田が大きくなり、石高が増えるたびに特別俸禄が支給される。国人衆には「家禄」があるため、元商人や元百姓と比べると裕福なのは確かである。これにより、国人衆の不満は一定以下に押さえられる。
だが家禄は未来永劫に渡って保障されているものではない。基本的には三代までとし、新田家における働きが認められた場合は、そこに一代ずつ加えられる。つまり家禄に胡坐をかいて働かない家は、三代で取り潰しとなってしまうのだ。だがそれほど難しい条件ではない。新田家に二〇年以上奉公すれば次代の家禄は認められるし、戦死や病没、あるいは事故で本人が死去し、二〇年未満となってしまった場合でも、次代が奉公することを条件に一代分が加えられる。
『俺はタダ飯を食わせるつもりはない。一所懸命だって、土地を守るために命を懸けるのであろう? ならば家禄を残すために懸命に働け。無論、これは
齢二歳から奮迅の働きをしている当主に対し、もっと働けなどと言える者はいない。新田家は確かに、日ノ本一の富裕なのだろうが、当主の吉松の生活は質素に近い。少なくとも自分とそれ程変わらない。
「陸奥における移民の数は変わらんな。だが出羽からの移民は減少傾向がみられる。檜山安東の統治が上手くいっているということか」
「それなのですが…… 出羽で大きな戦があると街で噂が流れているようですが……」
判九郎はジロリと視線を送った。それだけで部下は背筋を伸ばし、余計なことを言ったと詫びてその場を去った。だが判九郎の内心は違った。もっと話を聞かせてくれと思っていたのに、なぜか部下が委縮してしまう。自分が五〇近い初老の男だからだろうか。
(殿のお陰で奥瀬家は栄え、子や孫にも恵まれたのだが…… 未だに解らん。儂はなんでここにいるのだ?)
判九郎は知らなかった。経緯はどうあれ、結果的に新田飛躍のきっかけとなった外ヶ浜の戦いには、奥瀬家の臣従が欠かせなかったことを。判九郎は知らなかった。大評定において宇曽利の怪物が「高く評価する」と褒めたことが、若い行政官たちにとってどれほどの憧れとなっているかを。判九郎は知らなかった。胃の痛みを耐え続けたことで、自分の眉間に深い皺が刻まれ、それが凄みとして出ていることを。
「まぁ良いか。次の評定では久慈の琥珀の話も出でるであろう。今のうちに、鉱山計画と売り先について検討しておくか」
本人はただ、良かれと思い考えたことを懸命に取り組んでいるだけなのである。判九郎は数字を確認しながら、次の指示を考え始めていた。
石川左衛門尉高信、長門藤六広益、武田勘三郎守信、蠣崎宮内政広らを連れて、宇曽利郷の保養所である「恐山」に入る。温泉に浸かった後は、歩き巫女たちの中でも美形を厳選して侍らせ、肉や野菜をふんだんに使った鍋を囲む。既に家庭を持っている者たちは、一夜限りの遊びをするし、中には囲う者までいる。もっとも、蠣崎政季は慣れていないらしく、顔を赤くしながら戦の話などをしている。吉松に至っては、侍女のアベナンカを隣に置いて、いつもの牛蒡茶を飲んでいた。
「殿。そろそろ元服をされるおつもりはありますか?」
石川高信の問いに、山椒の効いた肉を喰らいながら、吉松は頷いた。
「ん? そうだな。俺は元服するまで酒は飲まんし、女も抱かんと決めている。来年で一四になるし、そろそろ元服するか」
戦勝での酒席である。他家であれば無礼講であろうが、この世の中に本当の意味での無礼講など存在しない。そこで吉松は「夢の宴」と名付け、そこでは当主に対して何を言っても良いし、何を聞いても良いという場を設けることにした。一晩寝たら聞いた者も聞かれた者も、すべてを忘れる。決して後に残さないというのが決まりである。
「いやいや、元服もそうだが嫁取りはもっと大事であろう。殿が嫁を取らないと、宮内殿がいつまでも独り身となってしまう」
「なっ…… 藤六殿!」
酒に酔ったのか、長門広益が普段より饒舌となっている。その話を聞いて、吉松は笑った。阿保らしい。俺を気にすることなく、好いた女子を娶れと言うと、政広は父に相談すると顔を赤くして言う。それがなんとも若々しく、皆が笑う。
「嫁か…… 俺自身としては、惚れた女を娶りたいところだが、残念ながらおらんな」
「殿…… この場だからこそ、申し上げます」
石川左衛門尉高信がここぞとばかりに発言した。その表情で、他の者たちは何を言いたいのか理解した。武田甚三郎守信が窘める。
「左衛門尉殿、それは……」
「構わぬ。桜殿のことを言いたいのであろう?」
「……ハッ」
南部晴政の嫡女であった桜姫は、吉松と同い年である。食が良かったのか、三年間で童から美少女へと成長し、石川城下でも評判になっていた。だが吉松は意図的に、桜姫とは会わないようにしていた。それは旧南部家の国人衆たちへの配慮でもあった。いらぬ期待を持たせたくないし、主家簒奪とも取られたくなかった。
「桜殿には、年賀の贈り物はしていたが、この三年間、会っておらぬ。聞くところによると、美しくなられたそうだな」
「叔父の贔屓目かもしれませぬが、街を歩けば振り返らぬ男はいないほどでございます。されど、我が兄は……」
「言っておくがな。俺は晴政殿にも南部家にも、なんの遺恨もない。俺がその立場であったら、同じことをしたであろう。戦国の世に生まれ、お互いに必死に生きようとし、そしてぶつかった。遺恨などあろうはずがない。左衛門尉や勘三郎も、他の旧南部家臣たちに伝えてくれ。俺は晴政殿には、敬意すら抱いているとな。だが……」
ここでもし、三戸南部家嫡女を娶った場合は、新田家中の家臣たちに不安を与えるのではないか。新田の家臣の多くは、旧蠣崎家、南部家、浪岡家の者たちだ。その中で南部家の嫡女を正室とすれば、他の二家出身者たちが不安を覚えるかもしれない。
「蠣崎家も浪岡家も、当主は生きている。だが南部家の当主は幼い嫡女…… しっかりとした地盤を固めたいということだろうがな。浪岡は大丈夫であろうが、蠣崎が問題だな。若狭守にも、俺と同い年の娘がいると聞いているからな」
長門藤六広益に視線を向けると、いつの間にか酒気が消えたような表情となっていた。蠣崎家は新田家に最初に臣従した家である。当主であった蠣崎若狭守季広は、新田家中で最大の家禄を得ており、蝦夷省の統括として徳山城で蝦夷の民と向き合っている。事実上の、蝦夷国の国主であった。
そして次代を担う嫡男の政広は、新田家の若手家臣では出世頭となりつつある。旧南部家臣としては面白くないであろうが、蠣崎家こそ新田家中の第一の忠臣だと密かに自負していた。
「それなら、二人同時に嫁にすればいい」
アベナンカがポツリと呟いた。吉松の眉がピクリと上がった。
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