第88話 「一所」の意味
金田一城は既に城門が突破され、陥落は時間の問題であった。このままでは、南への退路を遮断されてしまう。九戸右京信仲以下、陸奥国人衆は止む無く撤退を始めた。向かうのは宮野城(※現在の九戸城)である。柏山明吉が先に撤退してしまったことを知った信仲は、歯ぎしりして毒づいた
「柏山め! なにが戦上手だ! なにが猛将だ! 逃げ足ばかり速い臆病者ではないか!」
幸いなことに新田軍は、それほど深くは追撃してこなかった。金田一城が落ちるころには、主力はすでに南へと抜けていた。失った兵力は一〇〇〇ほどだが、ここからさらに逃げ出す兵もいるだろう。宮野城に着く頃には、半減していることを覚悟しなければならない。
「儂は諦めんぞ。なんとしても新田に勝つのだ」
戦場で勝つことさえできれば、従属の交渉も可能なはずだ。本領安堵は厳しいかもしれないが、領地の半分でも残ればそれでよい。武士とは土地を持ってこその武士なのだ。
だが現実は無常である。這う這うの体で宮野城に入った信仲たちを待っていたのは、
久慈と野田という二つの湊を手に入れた吉松は、一〇〇〇石船を往復させて新田軍の土木工事専門集団「黒備衆」を呼び寄せた。いずれは賦役によって道の舗装を行うが、今時点で必要なのは軍が通れるほどの道幅を確保することである。道幅は二間(約三メートル半)あれば通れる。黒備衆と山の民を先行させながら、野田湊から西へと軍を進めた。葛巻城まで二五里の距離である。
「殿、葛巻城まであと一日です。石川殿たちも、金田一城でぶつかっている頃でしょう。葛巻城を落とした後は……」
「北上する。この兵力では姉帯城を落とすことは無理だろう。伊保内、熊野、大名の館を落とし、
陸奥は広い。それぞれの館が点々としているが、それを線で結ぶには道が未発達の状態である。久慈湊と野田湊に物資を積み上げても、それを前線まで運ぶのはかなりの負担となる。吉松としては、できるだけ消耗を避けつつ、九戸を無条件降伏させたかった。そのために後方を攻めたのである。
「葛巻も江刺家も、陸奥の中ではそれなりに大きな国人衆だ。領地が奪われ、家族が人質に取られたとなれば、兵は離散するし戦う意思も挫けるだろう。この戦、先が見えたな」
だが、吉松の見通しは甘かった。三〇〇年間、一つの土地を守り続けてきた奥州武士の気概、あるいは土地に対する執着は、そんなに簡単に消えるものではなかった。その兆候は葛巻城攻めから現れた。僅かに残された兵を束ねて、葛巻の老臣が最後まで戦い続けたのである。
「僅か二〇名でなにをする気だ? 奴ら、死ぬ気か?」
「死ぬ気なのでしょう。土地が奪われるくらいなら死ぬ。それが一所懸命というものです」
武田守信の言葉に、吉松の貌が歪んだ。死にたいのならば一人で死ねばいい。なぜ、一族郎党まで巻き込んで死を選ぶのだ。土地を持っていることがそんなに素晴らしいことなのか? 寒さの厳しい奥州で、辛うじて生きている民たちがいる貧相な土地に、なぜそこまで執着するのか?
「下らん…… なにが一所懸命だ。奴らにとって一所とは、自分の土地のことなのか? 世界は広いのだ!なぜ天下を見ない! なぜ日ノ本全体を想像しないのだ!」
燃え盛る葛巻城に向けて、吉松は叫んだ。それはまるで、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
「父上、御無事で何よりです」
宮野城に撤退した九戸右京信仲を出迎えたのは、嫡男である九戸政実であった。傅役である奥寺左衛門定正も無事に戻ってきている。だが兵たちは無事ではない。五〇〇〇の兵は半減していた。
「新田の別動隊は、葛巻城を落とした後、
評定の間で、政実はこれまでの新田の動きを報告した。葛巻城は最後の一兵まで壮絶に戦い、新田を足止めした。そのため宮野城は、先に新田本隊の七〇〇〇が取り囲むようになるだろう。いま出撃すれば、包囲を突破することは可能である。
「ここは宮野城を捨て、姉帯城まで下がるべきでは?」
「いや、姉帯に退けばさらに兵は少なくなろう。この宮野城には三〇〇〇の兵がいる。簡単には落ちぬ。ここで抵抗を続ければ、高水寺や葛西も本気で動く。耐えるのだ。耐えて、奥州武士たちが立ち上がるのを待つのだ」
二日後、石川左衛門尉高信と長門藤六広益が率いる七〇〇〇の兵が宮野城を取り囲んだ。二人の名将は北の丘から宮野城を見つめた。
「さて、我らは一足先にここに着きましたが……」
「南の備えが薄いですな。敵は恐らく三〇〇〇ほど。一丸となって南に逃げれば、取り逃がしてしまうでしょう。本来であれば、殿が率いる三〇〇〇が南に入る予定でしたからな」
だが二人はそれほど心配をしていなかった。ここに来るまで二日あった。逃げるつもりなら、とうに逃げているだろう。九戸ら国人衆は、この宮野城で戦うつもりなのだ。二人はそう判断していた。
「殿は今頃、長興寺がある九戸本領に入っている頃だろう。九戸相手の戦も、間もなく終わりますな」
楽な戦いだったとは言わない。だが不安はなかった。旧南部家の国人衆は、これで完全に吸収できるだろう。その後は、稗貫や和賀、高水寺、そして葛西まで進む。今年中には無理であろうが、来年には奥州統一に大手を掛けられるかもしれない。
その頃、吉松は長興寺の薩天和尚と対面していた。九戸信仲の一族はすべて捕らえてある。あとはこの長興寺にいる九戸彦九郎実親だけだ。だが薩天和尚は頑なにそれを拒んだ。
「なにか勘違いをしているようだが、俺は別に取って食うわけではないぞ。殺すつもりもない」
「そういうことではないのですよ。新田殿……」
薩天和尚は厳しい表情を浮かべている。僧門に入っているとはいえ九戸の嫡男、次男を守るためなら死すら覚悟していた。
「新田殿。貴方様は国人の土地を取り上げるという。そればかりか寺領も公家の荘園も、畏れ多くも朝廷の禁領にまでも手を伸ばし、すべての土地を我が物にするという。御自身が、なにをしているのかご理解されているのですか? 貴方様のやり方は、日ノ本すべてを敵に回しますぞ」
「で、あろうな。そんなことは百も承知よ。だが、やらねばならぬ」
「なぜです? 新田は強い。奥州のみならず、天下を目指すのは解ります。ですが服する国人衆は、所領を安堵されればよいではありませんか。新田の政事を教え、国人衆が各々に土地を豊かにする。それではいけないのですか?」
「まったくもって駄目だな。それでは武士の意識が変わらぬ! 解らぬか? 俺は意図して、宇曽利の怪物を演じている。日ノ本の国人たちには理解できぬ存在。日ノ本の外から来た異形の存在と見せるようにしている。なぜか解るか?」
「いいえ…… ですが話を聞く限り、まるで文永、弘安の戦を再現されようとしているようですな」
吉松はニヤリと笑った。齢一三歳、そろそろ童のあどけなさは消えつつある。だが悪人の笑みは変わらない。薩天和尚には、目の前の若者が本当に怪物に思えた。
「それよ…… 武士が口にする一所懸命の一所とは、自分の領地のことをさす。俺はこれを変えたい。一所とは、日ノ本全土でなければならぬ。陸奥だの出羽だのとバラバラな国の集まりではなく、日ノ本全土で一つの国、日本国として纏まらねばならぬ。武士は、日本国全体を守るために存在する。俺は武士の意識をそのように変えたいのだ。なぜか? このままでは、海の外から再び攻められるからだ。南蛮の国々は、それぞれが日ノ本と同じか、それ以上に広い。そんな国が、遥か世界の果てにまで船を出して、領地を広げている。今の武士は世界を知らず、狭苦しい土地に閉じ籠っている餓鬼に過ぎん! この新田吉松が教育するのだ。武士も公家も、坊主も百姓も、みな等しく日本人なのだとな!」
薩天和尚は、目の前の怪物が何を言っているのか、まるで理解できなかった。視野が違い過ぎる。見ている景色が違い過ぎる。そして、目指す未来の大きさが違い過ぎるのだ。
「理解できぬであろう? なら黙っていろ! 黙っていれば、飢えず震えず怯えずに暮らせることを約束する。坊主は政事に口を出さず、仏の道を修行しておれば良いのだ!」
吉松は立ち上がり、目の前の僧侶を一瞥すると命令を下した。
「寺の中を隅々まで捜索せよ。九戸彦九郎を捕らえるのだ。邪魔をする坊主がいれば斬って構わん!」
程なくして、九戸彦九郎実親は吉松の前に引き出された。吉松は黙って頷き、丁重に扱うように命じた。薩天和尚は最後まで、齢一三歳の怪物に気圧されたままであった。
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