第80話 次の飛躍に向けて
鹿角郡北部を押さえた吉松率いる新田軍二〇〇〇は、そのまま北上して小坂郡を押さえ、やがて津軽への道へと出た。碇ヶ関を通り、平川を北上して津軽へと入る。浪岡城に到着した吉松は、直ちに大評定を呼び掛けた。九戸らを除く旧南部領および鹿角郡北部を手に入れたのである。これからの方針を伝える必要があった。
一〇日後の大評定に向けて、吉松自身も準備する。まずは今回の戦で活躍した者たちに褒美を与えなければならない。新田の家臣たちはすべて禄で仕えているため、加増と一時金を与える。また新たに加わった家臣たちがきちんと暮らしていけるように手配しなければならない。こうしたことは、当主である吉松の仕事であった。
一通りの論功行賞を終えると、吉松は今後について考え始めた。
「そろそろ分国法が必要だな。それに伴い、新田の組織を再編する」
民の統治の基本は、司法・立法・行政の三権である。そのうち立法については、最高権力者である吉松が束ねる評定衆によって決まる。一方で、司法と行政は各地の民たちと向き合う必要があるため、どうしても現地担当者が必要となる。
国人による自治統治というのは、極めて欠陥の多い仕組みではあるが、物流網と情報伝達手段が未発達な状態では、やむを得ないことでもあったのだ。
「行政の責任者を知事、司法および治安の責任者を長官として、それぞれ中央府から任命する形で派遣する。当然、向き不向きがあるし人との相性というものがあるから、人事異動の仕組みも整える必要がある。それと評価制度だ。禄による基本給の他に業績給も必要だ。その業績給は無論、担当している地域の発展で評価するが、それ以外にも新田領全体の
思いついたことを次々と紙に書いていく。アベナンカが墨を磨り、継ぎ足してくれる。いずれ家臣の子女を側仕えとして採用し、手伝わせる必要があるなと思った。
金沢円松斎は戸惑っていた。次々と書きあがってくる紙を読み、気づいた点や思ったことを言えと指示されていたが、なにを言えば良いのか、いまいちわからない。書きあがってきたものは、新田領の新しい統治の仕組みらしいが、これまでの幕府政治や律令政治とは、まったく異なる統治機構だということだけは理解できた。
(殿の下に権力を集めつつ、各地に権限を委譲された者たちを送り、統治させる。たしか大陸の明や元ではそのような仕組みを取っていると聞いたことがあるが……)
「殿、一つお尋ねしても宜しゅうございますか?」
吉松の手が止まり、牛蒡茶で一服している時を見計らって、円松斎は疑問だったことを尋ねた。
「殿は国人衆の土地所有を認めず、禄によって召し抱えるという方針を打ち出されています。その一方で、安東家については従属をお認めになられた…… このことについて、土地を手放して新田に仕えた家臣から、不満の声が出るのではと危惧しておりまする」
「あぁ、そうだろうな。そのために大評定を開くのだ。丁度よい。円松斎に先に説明してやろう。気になった点があれば、遠慮なく言え」
そして吉松は、咳払いをした。
「安東太郎愛季の従属を認めたのは、三つの理由があったからだ。それは天、地、人だな。天というのは、時期という意味だ。あの時点で安東愛季を殺していれば、出羽はとんでもないことになっていた。逆に臣従されても困る。新田はただでさえ人手不足なのだ。出羽を獲るということは、由利や戸沢、小野寺とも対峙することを意味する。戦線が拡大しすぎてしまう」
「確かに…… しかしそれであれば、期限付きの同盟でも良かったのではありませぬか?」
「同盟では、いずれ出羽を攻めることになる。俺は安東を臣従させたいんだ。あの男は使える。まぁ、その説明は後だ。次に地だな。陸奥と出羽の位置関係を考えれば理解できると思うが、新田領の南には、九戸、久慈、稗貫、和賀、高水寺、葛西、大崎などがいる。そしてそれらの多くが、出羽とも接している。安東はこれから由利、戸沢、小野寺へと勢力を伸ばすだろう。もし新田が大崎まで飲み込んだら、どこと接することになる?」
「なるほど。伊達と最上ですな。そして最上は出羽とも接している」
円松斎は自分の頭をツルリと撫でた。吉松はその光沢を見ながら頷いた。
「そうだ。新田は今後南下する。いずれ最上と伊達が手を組む可能性は高い。その時に、安東が従属していたら、最上は簡単には新田に兵を出せなくなる。つまり、出羽は使い勝手が良いのだ。これが地だな。そして最後に人だ。これは言うまでもないかな?」
円松斎は頷いた。石川左衛門尉高信が、殿以外の神童を見たのは初めてだとベタ褒めしていたからだ。もっともその後に、殿は神童を超えた怪物だがと笑っていたが。
「安東太郎はまだ若い。それでいて確かな視野を持っている。アレは使える。ぜひ我が新田に加えたい。そこで先ほどの話だ。おそらく一〇年から二〇年で、安東愛季は新田に臣従を申し出る。所領をすべて手放すと言うだろうな」
「そこでございます。その根拠は?」
「そのほうが豊かに暮らせるからだ。一所懸命の考え方は、米本主義と言ってよい。米が中心という意味だ。だが俺がつくる世の中は資本主義、銭が中心の世だ。断言しよう。間違いなく米本主義は資本主義に飲み込まれる。人は米だけでは生きられぬ。様々な物品、さらには娯楽が必要だ。いずれ庶民が気軽に能を鑑賞する世になる。その時に、米一升を持って観に行くのか? 結局は米を売って銭に変える必要がある。そして出羽はこれから、米の生産が飛躍的に増加する。するとどうなる?」
「米が安くなる。つまり、一所懸命の統治を行う限り、出羽そのものが貧しくなる。なるほど。殿が物産に力を入れるのは、ただそれだけで、相対的に他国の石高が下がるからですな」
「理解できたようだな。戦場でピシパシやって土地を切り取るのは、勝者を決める儀式に過ぎん。物産に力を入れ、銭を流通させ、民を活性化させる。ただそれだけで、旧態依然とした他の大名たちを追い詰めることになるのだ」
一服終えて、吉松は再び紙に向き合った。円松斎は吉松が思い描く世の姿を聞いて、改めて紙に目を落とした。すると理解できる部分、疑問に思う部分が出始める。たとえば銭だ。この世の中を創るには膨大な銭が必要になる。とてもではないが、一文銭だけでは成り立たない。新たな銭を鋳造する必要がある。それも複数種類が必要だろう。
(寺を利用しての教育…… なるほど。これは寺領についての交渉で使えそうじゃわい。寺領は新田が開発する。その石高分を毎年、新田が寄進する。そして寺は広く、子供らを受け入れて教育せよ。その実績で加増する…… 世が安定すれば子供が増えよう。いずれは寺だけでは間に合わなくなる。じゃが当面はこれで良い。読み書き算盤、この三つを学ぶだけでも大きく違うであろうからな)
近代社会は歴史と文化の蓄積によって生まれた。明治維新によって日本が急速に近代化できたのは、最低限の素養である教育が普及していたからである。識字率が高くなければ、中世から抜け出すことはできない。天下を統一し、近代化に向けた基盤を整える。五〇年は掛かるだろう。だが基盤さえ整えば、近代化に向けて進みだせる。吉松は自分の寿命まで考えて、今から統治機構整備に乗り出していた。
浪岡城で大評定が開かれる。蠣崎、浪岡、南部の旧臣たちが一堂に会した。吉松から安東家が従属したこと。それを認めた理由と今後の見通しについて語られる。結局は安東家もいずれ、新田に吸収されるのだ。早いか遅いかの違いだけである。最初は訝しんでいた者も、吉松からの説明でひとまず納得した。
「さて、年初に話した目標は達成した。新田はここで、いったん立ち止まる。安東が従属したことで、九戸らも簡単には動けぬようになった。だが領地が急拡大したことで、生活の格差が生まれ始めている。津軽および野辺地以南の糠部、そして鹿角の開発に力を入れる。五年は掛かるであろう。その間、新田は他家を攻めることはせぬ。攻められれば別だがな」
五年をかけて、田名部と同等の繁栄を新田領全土に広げる。道の整備、農畜産業の促進、河川と港湾の整備、都市計画の見直し、そして鉱山開発。やるべきことは無数にあった。
「吉右衛門。田名部に愛着があるのは解るが、其の方の内政力は貴重だ。北鹿角の開発を任せたい。特に小坂には金山と銀山がある。頼むぞ」
「お任せくだされ。北殿とも協力し、殿が拓いた三戸との道を整備致します。ただ一点、某が安東家の立場であれば、新田の開発を参考にしようと考えます。その場合、どうしましょうか」
「むしろ大いに参考にさせてやれ。米の植え方、使っている道具などな。出羽も米が良く採れるようになるだろう。最初は喜ぶであろうが、すぐに気づく。米が大量生産されるということが、なにを生み出すかということをな」
米の大量生産は「武士の貧困化」を生み出すのだ。一所懸命の統治機構が続いた江戸時代が、それを証明している。吉右衛門も、吉松の考えを察して頷いた。
一通りの指示と説明を終え、吉松が最後を締める。
「世の発展と共に、仕組みは見直されて然るべきだ。説明した分国法や統治機構については、随時見直していく。意見がある者は遠慮なく言え。新田のため、日ノ本のためになると思っての意見であれば、たとえそれが間違っていても俺は決して怒ったりはせぬ。そして最後に、皆に告げておく」
家臣全員が背筋を伸ばした。だが吉松はニコリと笑った。童らしい笑顔であった。
「俺は皆と、繁栄を謳歌したい。天下を統一し、この日ノ本の歴史に決して消えぬ名を刻みたい。そのためにも命じる。養生せよ。酒の飲み過ぎに注意せよ。塩気の強い食べ物は控えめにし、肉だけではなく野菜も食べるよう心掛けよ。たとえ手柄を立てられなくても良い。失敗しても構わん。長生きするのだ。これは俺の頼みだ。良いな」
「「ハハァッ!」」
天文二四年(一五五五年)皐月(旧暦五月)、これまで破竹の勢いで拡大し続けた新田家は、ここでいったん、立ち止まった。
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