第75話 陸奥守
天文二四年(一五五五年)弥生(旧暦三月)、新田家と安東家が、鹿角郡を巡ってそれぞれに攻勢に出ているころ、十三湊を発った五〇〇石船三隻が、敦賀湊に到着した。敦賀湊には二〇〇程の兵が集まっており、それらを率いる形で一人の偉丈夫が立っていた。
「浪岡弾正少弼
「これは…… 失礼仕った。浪岡弾正少弼具統でござる。まさか彼の宗滴公より薫陶を御受けになられた御仁自らがお出迎えくださるとは。恐縮してしまいますな」
「いや。
「大朝倉家随一の重鎮、軍神とも聞こえる宗滴公に気にしていただけるとは。主君もきっと、喜ぶことでしょう」
新田家と朝倉家は交易を通じて繋がっている。親しいというほどではないが、自分たちにも利益があるのなら手を貸してやるという程度には、友好的な関係を持っている。今回は、良銭五〇〇貫で依頼している。もっとも、蝦夷産の塩鮭や川内で造られた磁器などが敦賀で売られるため、結局は新田家に戻ってくることになる。
「大樹は先月に昇叙され、名を義輝と改められました。朽木谷に御滞在です。朽木家は佐々木源氏の流れを汲む高島七頭の一角であり、大樹の御信頼篤き家です。まずは朽木谷で大樹に目通りし、その後に京に向かう。このような予定を組んでおります」
「確か、当主はまだお若いとのことでしたな」
「左様。朽木竹若丸殿と申します。齢七歳であるため、祖父の民部少輔殿が家を取り仕切っておられる。内談衆、御供衆にもなられた御仁で、豪気な方でございますぞ」
「当家と似ておりますな。新田吉松様は齢九歳でございます」
「神童、もしくは宇曽利の怪物と呼ばれておられるとか? 御活躍の噂は越前にまで届いております」
疋田氏が治める疋檀城を超えて南に進むと、やがて海のような湖へと出る。万葉集にある淡海である。湖に沿って西へと進むと高島郡に入り、
「遠き地より良くぞお越しになられた。朽木民部少輔稙綱でござる」
見た目こそ違うが、どことなく吉松の祖父、新田盛政を思い出させるような初老の男が出迎えてくれた。
「北の最果てより良く来た。大樹もお喜びである」
蝦夷の産物や磁器、酒などを献上しているが、第一三代征夷大将軍である足利義輝は、言葉一つ掛けない。管領である細川晴元が代わりに礼を述べ、短時間で会談は終わった。
無論、この短さには理由がある。浪岡北畠家は「浪岡御所」と呼ばれるほどの奥州の名門だが、御所とは本来、将軍にのみ使われる呼称である。先代の浪岡具永は、足利幕府を通さずに朝廷から官位を得た。これは浪岡家の力を示すものではあったが、幕府側からすると面白くないのは当然である。本来なら顔も合わせたくないというのが本音だが、それなりの献上品を持ってきているため、そうもいかない。最低限の礼はしてやるといった態度であった。
だがこの扱いに、具統は特に怒りは感じなかった。予想していたということもあるが、足利幕府に対する吉松の態度が明確だったからだ。
『俺はすべての国人衆の土地を没収すると明言しているのだぞ? 当然、鎌倉幕府も足利幕府も認めんし、それに対してなんの権威も敬意も持たん。武家が生まれてから五〇〇年、この日ノ本から未だに飢えが無くならないのは、歴代の幕府が無能だったからだ』
新田が天下を獲った暁には、これまでの幕府体制とはまったく違う世が生まれるだろう。四〇も半ばになった自分には、それを見ることはできないかもしれない。だが、足利幕府は自分よりももっと早く死ぬのではないか? いや、事実上はもう死んでいるだろう。小さな朽木庄に逼塞し、なにも政事をしていない。自分の眼で見てよくわかった。足利はもう死んでいる。
「浪岡殿。これはその…… 何と言ったらよいか」
「いやいや、朽木殿。某は何も気にしておりませぬ。新田は陸奥の田舎者ゆえ、お会いしていただいただけでも光栄というものでござる。それよりも、朽木殿にも土産がござる。大したものではござらぬが……」
具統たちは銭二〇貫を置いて、京へと向かった。
朽木谷での成果が何もなかった訳ではない。将軍との謁見にあたり、窓口となっているのは前関白である近衛
「ホホホッ…… なんとも手際の良いことでおじゃるの」
昆布や鮭、毛皮などを見て、近衛前嗣は機嫌が良かった。関白、そして従一位に昇叙したといっても、すでに幕府の力は失われ、都は荒れている。大した祝いもできないでいたところに、遥か北方から祝いが届いたのだ。嬉しくないはずがなかった。
「新田は陸奥においても最果ての土地でござれば、皆で工夫せねば生きていけませぬ。田舎者が知恵を働かせて生み出した品々、どうぞ御笑納くださいませ」
「ホホホッ そう卑下するものでもない。畿内においても珍しき澄酒に醤油、それに唐物を思わせるこの器も見事ではないか。この荒れし世において、それでも逞しく生きる姿に、主上もさぞ喜ばれよう」
それから二日後に、具統は朝廷に参内し、帝に拝謁した。吉松自身が上洛したわけではないため、格別の配慮などはなかったが、それでも従五位上陸奥守を賜ることができた。
「かの北畠顕家公も就きし由緒ある地位でおじゃる。新田家の勤皇の志に、お心が動かれたのであろう(意訳、気を利かせてやったのだから、これからもそれなりの見返りを持ってこい)」
「津軽と糠部はようやく、新田家のもとに落ち着き始めております。今後は季節の御挨拶とともに、北の様子をお知らせすることもできましょう。何卒、今後も良しなに……」
公家はすべてを口にしない。そのため、あからさまに寄進をねだったりはしない。察したうえで、こちらから自発的に「御挨拶申し上げる」というのが朝廷に対する礼儀である。吉松ならば「まどろっこしい! 欲しいなら欲しいとはっきり言え!」と不機嫌になるところだが、これもまた公家の文化なのだ。
そして「陸奥守」を得たのは大きい。齢九歳の童が、殿上人となり陸奥守に就く。他の地では何の感慨もないかもしれないが、宇曽利郷においては違う。何しろ北畠顕家公と同じ道なのだ。陸奥の国人衆たちに対しても、大きな影響力を持つ。新田吉松こそ陸奥の支配者と誰もが思うだろう。
その後は、京の都で噂などを聞いて回る。新田は急速に大きくなったため、常に人手不足である。腕に覚えのある武辺者、文官仕事の心得がある者などは大歓迎である。また一芸に秀でた者や未来に志を持つ者なども広く受け入れる。実際に新田に仕官する者は、支度金として銭五貫(約六〇万円)を渡した。僅か数日だったが、情報収集用として用意しておいた一〇〇貫は瞬く間に消えた。
「感状を持つ者もいたが、持ち逃げする者もおるであろうな。もっとも殿は、優れた者一人が手に入るのなら一〇〇貫など安いと仰るであろうが……」
だが蓋を開けてみると一〇名が仕官してくれた。その中でも近江国益田郷の顔役であった益田藤右衛門元長という人物は、即戦力が期待できた。元々は近江の国人に仕えていたが、浅井と六角の争いに巻き込まれて追放されたらしい。話してみると文官として確かな知見を持っている。家族丸ごと越したいということで、特別に一〇貫を与えた。越前への帰り道、畿内から東海について話を聞く。近江国となれば、自然と情報が集まってくるようであった。
「ほう、先の管領代である六角江月斎殿とは、商いと銭に明るい御仁であったか」
「ハッ…… 近江に商人を集め、競わせつつ新たな産業の振興などに心を砕いておられました。また家臣たちを観音寺城下に集められて城下町を形成し、人が集まるようにしていました」
「……似ておるのぉ、我が父と。そうか。そうした御仁がおられたのか」
今でも、自分の愚かさに対して鞭打ちたくなる時がある。だがやり直すことは出来ないのだ。浪岡、そして津軽の民の為に、命尽きるまで働くことでしか、取り戻すことはできないだろう。
具統がスンッとした表情を浮かべたため、益田藤右衛門は話題を変えた。
「ところで、殿様は『宇曽利の神童』と呼ばれているそうですな。実は尾張にも、変わった名前で呼ばれている方がいるのですよ。その名も『尾張のうつけ』と……」
「ほう。うつけというと、何を考えているか得体が知れないという意味か。あまり良い意味では使われておらぬの。まぁ我が殿も最近では神童ではなく、宇曽利の怪物だの物ノ怪童子だのと呼ばれておるので、似たようなものかもしれんがのぉ。それで、なんという御仁なのだ?」
要するに、常識に当てはまらない奇矯な人物ということである。話題が変わったこともあり、具統はその話に興味を示した。益田は宙を見上げ、自分の記憶を探った。うつけという印象が強すぎて、名前の印象が少ないのだ。
「たしか…… 尾張織田弾正忠家の御当主、織田上総介三郎信長様…… だったかと」
「ほう、織田信長殿か」
主君への良い土産話になるだろう。青く輝く淡海を見ながらそう思った。
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