第71話 母は強し

 実兄である八戸久松が病に倒れた。この話を聞いた吉松が最初に思ったのは、次は八戸に水軍を差し向けて落とすという軍事作戦であった。そうすれば糠部(※陸奥南部の地域)の中央に楔を打ち込むことが出来、三戸への侵攻も容易になる。だが吉松の思惑を知らない母親の春乃方は、病状の説明を始めた。


「一〇日ほど前でしょうか。頭痛がすると呻いて、突然倒れたのです。それから高熱を発して、いまも意識が戻らず……」


「なるほど。それで医師はなんと言っているのです?」


 いかに日ノ本の外れである陸奥であろうと、医師の一人くらいはいる。だが春乃方は首を振った。


「原因が解らないと。熱を下げる飲み薬を出す程度で、それ以上は御仏に任せるしかないと……」


「そうですか。それでは、私に出来ることは何もありませんね。もっとも、何をするつもりもありませんが。御爺、雪解けと共に八戸を攻めるぞ。そして一気に三戸を落とす」


 まるで興味が無いという態度に、春乃方は驚いて祖父に顔を向ける。だが祖父の盛政は、当然だろうという態度で頷いた。


「母上、まさか私が八戸まで見舞いに行くなどと考えていたわけではありますまいな? 私は一度、野辺地で似たような手段で殺されかけているのです。実の父と、貴女に。同じ手は二度と喰らいません。八戸久松が意識不明ということは、今は家老の東あたりが、取り仕切っているのだろう。だが家中は割れているはずだ。大いに結構。まとめて叩き潰す」


「吉松殿…… 貴方は…… 久松殿は実の兄なのですよ?」


 吉松は母親に顔を向けた。春乃方は思わず声を漏らしそうになった。そこには、喜怒哀楽のいずれの感情も浮かんでいなかった。完全に無関心なのだ。


「実の兄と言われましても、私は一度も八戸久松に会ったことがないのですよ? 顔も知りません。どうやって家族として想えるのです? それは貴女も同じです。野辺地では貴女に殺されかけましたからね。御爺の顔を立てて今はこうしていますが、場所が違っていたら即捕縛しています」


 そして吉松は立ち上がった。


「念のため、九十九衆に調べさせる。母上、貴女は人質です。二度と八戸には戻れません。この田名部にいる限り、暮らしに困ることはないと約束します。御爺、後は頼む」


 そしてさっさと出て行ってしまう。春乃方は震えた。次男の吉松が、神童と呼ばれているのは知っている。だがアレは、童と呼べるものではない。本当に、怪物に思えた。だが春乃方にとっては義父となる盛政は、ため息をついて首を振った。


「これは、儂の責任でもある。無論、倅の行政や其方の責任も大きい。考えてもみよ。吉松は齢二歳から今年までの六年間で、母親である其方と幾度話した? 二歳での別れの日から、先日の野辺地での会談まで、其方とは一度も会っておらぬ。それは行政も似たようなものよ。吉松の中には、父も母も兄も存在しておらんのだ。其方の話は、吉松にとっては八戸攻めの好機としか聞こえなかったであろうな」


 もっとも、盛政の推察も正確ではない。吉松の精神年齢は八〇歳を超えている。親子の情愛に流されるほど幼くはないというだけであった。情愛を育むような時間もなかったというのは、確かなのだが…‥




 実母である春乃方を田名部館に留め置いてから、数日が経過した。吉松はその間に、九十九衆に八戸城を探るように命じ、それ以外は新産業について考えたり、河川の浄化装置を作ったりと、実益のある趣味の時間を過ごしていた。

 その日、恐山の新田家保養施設(※天台宗菩提寺は取り壊されている)で露天風呂に浸かっていると、湯気の中に黒い影が浮かんだ。


「段蔵か?」


「はっ…… 八戸の件、ご報告に上がりました。結論から申し上げれば、確かに久松様、御重篤でございました」


「そうか。死にそうか?」


「いえ。すでに熱は下がり、意識も戻ったご様子です。ただ、まるで憑き物が落ちたように、別人になったと周囲では噂しております」


「……もう少し詳しく聞かせてくれ。別人とは、どういうことか?」


「はっ…… まず殿との和睦を真剣にご検討されているようです。家中に対し、新田家に臣従すると宣言しました。春先には、和睦のために使者が来ると思われます」


「……記憶の混濁や意味不明の言葉を呟いたり、あるいは奇妙な行動を取ったりということはないのだな?」


「は? いえ、そうした報告はありません。あくまでも、殿に対する姿勢が変わっただけでございます」


「そうか。ならいい」


 吉松が気にしていたのは「高熱を発して回復した後、別人になった」という点である。それは、自分がこの時代に来たのと同じ状況だからだ。もし久松まで転生者であったらと考えたのだ。だが聞く限り、そうした様子はなさそうであった。もちろん、隠しているという可能性も捨てきれないが……


「やはり危険だな。八戸は潰すか…… 余計な心配の種は、完全に消さねばならん」


 湯から立ち上がる。いつの間にか段蔵は消えていた。




 師走となれば、宇曽利郷は雪で閉ざされる。外ヶ浜を得たことで、陸奥湾を船で渡ることは可能だが、八戸に行くのは自殺行為に近い。そのため春乃方は、田名部館に留まらざるを得なかった。そしてその時間を利用して、まるでこれまでの空白を埋め合わせるかのように、春乃方は母親として、吉松に接しようとした。


「春よ。田名部を見てどう思うたか?」


「はい。数年前とはまるで別の街のようです。食べ物もたくさんあって、通りに出ると皆が様々な着物を着ていて…… これが、吉松殿が目指す三無の世なのですね?」


「まだ道半ばですが。この田名部にも、まだまだ足りないものが多くあります。特に統治機構については、今から考えておくべきでしょう。陸奥を統一したら、数年は内政に力を入れます」


 陸奥の統一。それは旧南部家および南部一族を吸収、あるいは滅亡させることを意味する。春乃方は聞きたくないと思いつつ、聞かざるを得なかった。八戸をどうするのかを。


「吉松殿、八戸は……」


「八戸は潰します。降伏など認めません。なまじ実兄だからこそ、御家騒動の種にもなりかねません。八戸久松は、死ななければならないのです」


「そんな…… 仏門に入るなど、他の方法はないのですか?」


 母親が縋るように見つめてくる。吉松は苛立ちを感じていた。次男である自分は殺そうとしたくせに、長男の久松は助けろというのか。なんと身勝手な女なのか。

 だがこうした苛立ちの根源は、無意識のうちに母親の愛情を求めているからである。どうでもいい女に対しては、苛立ちすら起こさない。無視するか、館から放逐して野垂れ死にさせて終わりである。だが吉松はそうしない。それができない。口では何と言おうとも、どこかで「母」を求めているのである。

 盛政は二人を見ながら、吉松の中で揺らぐ感情に気づいていた。


(宇曽利の怪物ですら、母親には勝てぬか。母は強しじゃのぉ…… どれ、少し助けてやるか)


「吉松よ。儂も別の理由から、八戸を潰すべきではないと思うぞ?」


「御爺、どういうことか?」


 助かったという思いで、吉松は祖父に顔を向けた。春乃方も、長男が助かるならと義父の話を聞く。


「吉松よ。儂が以前、忠告したことを覚えているか? 新田の進む道に立ちはだかるのは……」


「奥州の歴史そのもの。覚えている。それが?」


「いま新田は、奥州の全国人を敵に回しておる。いや、忌み嫌われ憎悪されていると言ってよい。なぜか。大光寺を滅ぼしたからじゃ。これまで、奥州の国人たちは家と家の揉め事を、戦場いくさばで解決してきた。勝った方の言い分が通る。だが相手の家を滅ぼし、その土地を奪うなどはしなかった。お互い、鎌倉から続く国人なのだ。奥州人おうしゅうびとという同族意識がどこかにあった。じゃが……」


「新田は相手の家を滅ぼす。新田は、自分たちの古き良き契りを破壊する宇曽利の鬼だ。許せない。そんなところか? 下らん。なにが奥州人だ。そんなことはせめて、新田と同程度に統治してからほざけ」


 吉松が嘲笑う。童が浮かべる笑みではない。その表情に母親は戦慄した。だが盛政は慣れているため、特に気にする様子はない。


「そうじゃの。其方の進む途に、奥州人の契りなど無用であろう。じゃがその先はどうなる? 関東には関東の、信越には信越の、東海には東海の…… 日ノ本中の国人衆をすべて殺すか? それで本当に、民がついてくると思うか?」


「新田の旗印、三無を実現する。飢えず、震えず、怯えずに生きられるのだ。民がついてこないはずがない」


「無理じゃ。このままでは、其方の目標である三無は実現せぬ。食べ物に飢えることも、寒さに震えることもなくなるであろう。じゃがこのままでは民は、野盗ではなく其方に怯えて、生きることになるぞ」


 ピクリと吉松が反応した。春乃方が不安げに祖父を見つめる。盛政の表情も厳しい。ここはしっかりと諫言しなければならない。そして、宇曽利の怪物を相手にそれができるのは自分だけなのだ。


「大光寺では厳しさを示した。次は赦しを示すのじゃ。たとえ己が命を狙った敵であろうとも、自らを改める者には、救いの道を与えてやるがよい。そうすることで、他の国人衆も、そして民も、安堵するであろう」


 吉松は黙ったまま、自分の顎を撫でた。その仕草はまるで壮年の大名のようであり、子供らしさなど欠片もない。考えた挙句、ようやく頷いた。


「確かに、御爺の言葉にも一理ある。一度は、八戸にも言い訳をする機会を与えてやろう。所領を差し出し、当主の久松は仏門に入り、八戸の家を俺が預かる。それを受け入れるのなら、赦してやろう」


 春乃方はホッと息を漏らし、そして吉松と義父である盛政に感謝して頭を下げた。吉松は自分の頬を揉んで童らしい笑みを浮かべたが、内心では別のことを考えていた。


(まぁ、仏門に入れてしまえば、いつでも殺すことはできる。下手な動きを見せた時点で消すか……)


 吉松は、やはり吉松であった。

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