第70話 母との再会

 新田家は内政を重視する。そのため必然的に、文官が重視される。冬場になれば新たな文官候補者を育成するために、領内では学問が盛んになる。子供はおろか、すでに壮年を迎えた大人までが、読み書き算盤、そして礼儀作法を学ぶ。

 武田甚三郎守信は目の前の光景に戸惑っていた。本来であれば調練を受けているはずの新田の兵士たちが、「いんいちがいち、いんにがに」と走りながら歌っているのだ。


「これは一体……」


「あれは殿が考えた掛け算の歌です。たとえ足軽であろうとも、算術ができれば買い物が楽になる。殿の目標は、全領民が最低限の算術を身に着けることです。既に田名部では、大多数の領民が、普通に計算を行い、銭を使っています」


 南条越中守広継に声を掛けられ、守信は一礼した。冬が終われば、再び戦が始まる。守信はその時に向けて、新田家での調練方法を学ぶつもりでいたのだが、大浦家とはあまりにも違った。


「くくはちじゅうはちぃっ!」


「馬鹿もんっ! 八一だ! もう一周回ってこい!」


 笑いが起きている。なぜこんな笑いが許される? 調練とはもっと厳かで、もっと激しいものではないのか? だが観察を続けるうちに、守信にも調練の意味が理解できて来た。一〇名がまったく同じ動きをする。それが二〇名になり、五〇名になり、そして一〇〇名になる。整然と並び、そして決められた通りに行進する。一糸乱れぬとはこういう動きを指すのか。


「想像してみてください。二〇〇〇の足軽が旗の動き一つで、整然と動く様を。一人ひとりが体を鍛えるだけではなく、互いに連携しながら集団として戦う。某も、新田で初めて見て、そして戦慄しました」


「確かに…… このような軍とは戦いたくありませんな」


「短時間で、愉しみながらやるというのが新田軍の調練です。そろそろ昼ですね、彼らと一緒に、食事をしませんか?」


 誘われるまま、毛皮を羽織っている足軽たちに合流する。緊張している者もいるが、広継が楽にせよと伝えると、彼らは思い思いにその場に座り込んだ。やがて湯気を昇らせた荷車が到着した。


「猪肉の味噌汁、いぶり漬けの握り飯、鶏の串焼きか。美味そうだな」


「これは…… こんな料理を」


「新田では当たり前です。特に調練後には、肉を食べることを奨励しています。動いた後に獣肉を食べると、その肉が己の力として吸収される。殿の御言葉で半信半疑で始めたそうですが、彼らの身体を見ればわかるでしょう?」


 守信は納得して頷いた。農閑期に戦に駆り出される百姓の身体とは、まるで別物である。首は太く、動きは機敏で力もありそうだ。なにより、長距離を駆ける体力がある。新田軍の神速の秘密を見た気がした。


「うん、美味い」


 広継が美味そうに握り飯を頬張っている。守信も一口齧った。麻の実が混じった麦飯だが、漬物の塩味が程よく効いて美味い。猪肉が入っている汁は、葱や大根なども入っており、幾らでも食べられそうな味であった。あまり腹は減っていなかったが、夢中で食べてしまった。


「殿の目標は、日ノ本のすべての家で、これくらいの食事が出来るようにすることです。この津軽でさえ、まだ実現できていませんが、田名部や蝦夷大館などでは、かなり近づいています」


「大浦城の民たちも、皆がこの握り飯を……」


「食べられますよ。だから人が集まってくるのです」


 豊かさの基準が根本的に違うのだ。食べることが出来て当たり前、寒くなくて当たり前、野盗がいなくて当たり前。これが新田の基準なのである。そうなれば戦にすらならない。戦の前に、民たちが新田へと逃げてしまう。そして領主ではなく、新田の統治を望むようになるだろう。

 守信はゾッとした。一所懸命こそ武士の本分。領地と領民を守ることが武士の役目。そう学び、それを当たり前として生きてきた。だが領地と領民が武士を必要としなくなったら?


「……殿は、武士の世を終わらせるおつもりでしょうか?」


「はて…… ただ、形は変わらざるを得ないでしょうな。寂しくもありますが、楽しみでもあります。新たな世をこの目で見られるのですから」


 広継はそう言って笑った。出来るだけ早く、倅を近習として送り出そう。守信はそう決意した。




 その頃、石川城においては石川左衛門佐高信と、南部晴政正室および娘たちと対面していた。七戸などは、嫡女の桜姫を擁立して新田に対抗しようと動いたりもしていたが、肝心の七戸家中でさえ、対新田で意見が割れている。擁立して対抗などという以前の問題であった。その隙に、彼女たちは石川城まで無事に逃れることが出来たのである。


「義姉上、御無事でなによりです。兄上の死は本当に、残念でした」


 話し合いによって、南部晴政正室は石川城下の寺に入り、四人の娘たちは高信が親代わりとして後見することとなった。これはすでに、吉松も承知しており、嫡男の亀九郎も手元に置いて育てることになる。


「それで、左衛門尉殿。桜と吉松殿との婚姻は、いつになるのです?」


「は? あ、いやそれは……」


「私はそもそも反対でした。娘の婚姻を罠に使うなど…… ですが殿が言っていました。巡り合わせが違えば礼を尽くしてでも、新田吉松殿を婿に迎えただろうと。だが戦うことになった。戦うからには卑劣な手段を使おうとも勝たねばならぬと。普段はそのような言い訳めいたことは言わなかったのに。きっとどこかで、負けを予感していたのでしょうね」


「義姉上……」


 高信はやりきれない気持ちであった。ほんの少しだけでも兄が譲歩していたら、きっと結末は違っただろう。だが起きたことはもう変えられない。ならばより良い未来を創るために努力すべきだろう。


「殿は、桜姫に対しては好感を持っていた様子です。ですが状況が悪すぎます。いま婚姻の話を出そうものなら、娘を使って新田家中を壟断するつもりかと疑われまする。時間は掛かりますが、某が状況を作りまする。御正室とはならぬかもしれませんが……」


「構いません。いえ、むしろ側室のほうが良いでしょう。そのほうが、生まれてきた男子に三戸南部家を再興させやすいと思います。ただそのためには、南部家家中が信用されなければなりません。それなのに……」


「靱負佐殿(※毛馬内秀範のこと)は、一年は喪に服したいと。来年の今頃には、こちらに来るでしょう」


「七戸や八戸のことです! あの者たちは、殿の御恩を忘れて……」


 高信は頷いた。もっとも、それほど心配はしていない。吉松は仁義を重んじるが、同時に極めて合理的に物事を考える。七戸や八戸は、三戸南部家とは別の家である。別の家としなければならない。そうしなければ、攻める口実が無くなるからだ。


「大丈夫です。某と靱負佐、それに北左衛門佐もいずれ来るでしょう。これからの働きによって、南部家再興を殿に認めていただきます」


 この会談の内容は、九十九衆を通じて吉松にも知らされた。もっとも、話を聞いた吉松は苦笑しただけであった。自分はまだ精通すらしていない。嫁だの男子だの、遠い未来の話をされても困る。それ以前にやるべきことが山ほどあるのだ。女児に構っていられないというのが本音であった。

 だがこの夜、吉松は久々に女性と一緒にいる夢を見た。




 青森湊が整備されたことで、冬場であろうと安全に田名部に戻ることが出来るようになった。師走を前に、吉松は久々に、祖父の顔を見に田名部館に入った。だがそこには意外な人物がいた。母親の春である。


「母上? まさか田名部にいらっしゃるとは。御爺、これは一体……」


 母親は辛そうな表情を浮かべていた。夫を殺した男が目の前にいるのだ。辛くないはずがない。そう思ったが、様子がおかしい。縋るような眼差しを吉松に向けていた。


「うむ。儂から話したほうが良かろう」


 それは、実兄である八戸久松が病に倒れたという話であった。

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