第五章 大名への飛躍
第65話 津軽決着
南部晴政の死と吉松率いる新田軍の接近という報せは、大光寺軍や大浦軍にも伝わった。彼らは彼らで独自に浪岡方面に斥候を放っていたためである。また浪岡城にも変化があった。夜中だというのに炊煙が上ったのである。
「殿たちは夜通し駆けてこられる。到着は未明であろう。白湯と握り飯、寝床を用意しておくのだ。それと遊郭も手配しておけ。勝ち戦のあとだ。兵たちの気も昂っておろう。もっとも、殿には不要であろうがのぉ!」
具統の指示にドッと笑いが起きる。誰もが興奮していた。半ば絶望的であった状況が、一気に逆転したのだ。南部軍を撃破し、晴政を討ち取った。小者までが、その意味を理解していた。新田が糠部と津軽の支配者になるのだ。宇曽利の小さな国人衆が、奥州屈指の大名へと躍進する。新田家に関わる隅々まで、その利益を得ることが出来るだろう。
「城門開けぇ!」
外ヶ浜の戦いの翌日未明、吉松率いる新田軍一五〇〇は、浪岡城へと入った。
「朝靄に紛れて兵を退くぞ。この戦は終わりだ」
大浦軍率いる武田甚三郎守信は、いち早く撤収を開始した。南部晴政の死により、三戸南部家はもう終わりである。七戸、八戸、九戸などの国人衆は、南部晴政がいる三戸南部家に臣従していたのだ。八歳の嫡女の家などに臣従するはずがない。それは大浦家も同じであった。津軽はこれから草刈り場となる。その中で生き残るためにも、これ以上の兵の損失は避けなければならない。
だが無情にも、動いていたのは大浦軍だけではなかった。蠣崎宮内政広率いる五〇〇が、朝駆けを仕掛けてきたのである。
「敵は怯んでおる! 狩り放題ぞ!」
「若、ですからあまり前に……」
大浦軍は背後を討たれながらも、何とか撤退に成功した。同様のことは大光寺軍にも起きていた。鬼藤こと長門藤六広益率いる五〇〇が、突撃を仕掛けてきたのである。
「掛かれぇぇっ!」
大音声に我先にと逃げ出す者が続出する。大光寺遠江守政行本人としては、長門広益と一戦したいところではあったが、戦ったところで意味がないことも理解していた。後方を防ぎつつ、兵を退く。
「以上が、殿が浪岡城に入られてからの動きにございます。蠣崎宮内殿、長門藤六殿の働き目覚ましく、また水木館、堂野前館も良く守り抜きました。完勝でございます」
夜、自分の腹の音で目覚めた吉松は、侍女のアベナンカに命じて飯を用意させた。鶏の照り焼き、雑穀米、大根葉の味噌汁、山菜のお浸し、胡瓜の酢物を食べながら、南条広継の報告を聞く。
「褒美は従来の倍は出そう。特に、外ヶ浜から共に駆けてきた兵たちには、一〇倍を出してやれ。それと遊郭には、カネは俺宛に請求しろと伝えてくれ。好きなだけ抱かせてやると言ったからな。それで、問題は石川左衛門尉高信の動きだが……」
大浦と大光寺は自軍を率いて撤退している。だが石川左衛門尉高信および鹿角から来た他の国人衆は、岩木川の支流である平川の畔に陣を構えたまま動いていない。その数はおよそ二五〇〇、決して油断できる数ではない。
「恐らくですが、退くに退けない状況なのではないでしょうか?」
「安東か?」
南条広継は頷いた。
兄である南部晴政の死という報せに、最初こそ混乱した石川高信であったが、やがて自分を取り戻した。そして考える。大浦や大光寺にも、この報せは入っているだろう。彼ら津軽の国人衆は、すぐにでも撤退するに違いない。それは構わない。問題は、陸奥や鹿角から来た国人衆である。今回の戦には、一戸、五戸、七戸、八戸、北、南などからも参加している。南部家の今後を考えると、彼らを無事に陸奥まで返さなければならない。だが……
「この状況で、比内大館が落ちるか。しかも無傷とは……」
比内大館を守っていた浅利軍は、当主である浅利勝頼の命により、十狐城に撤退してしまった。檜山安東家は一兵も損なうことなく、比内大館を手に入れたのである。勝頼としては、南部軍が戻ってくれば取り戻せると考えていたのだが、南部晴政を失った今、比内地方のことまで考えている余裕はない。最悪、津軽も鹿角も捨てて、陸奥の支配地だけでも固めなければならない。それほどに追い詰められていた。
「いや、糠部の支配すらも難しいかもしれん。九戸は恐らく離れる。下手したら八戸すらも……」
南部晴政という巨星のもとに、多くの国人が集まっていたのだ。その巨星が亡くなれば、バラバラになってしまう。三戸南部家の直臣、あるいは自分のような晴政の縁者でもない限り、三戸への義理はあっても義務はないのだ。
「殿、石川城より金沢円松斎様がお越しになられました」
高信はすぐに通すように命じた。
「というわけで、拙僧が交渉に参ったのでございます」
吉松が浪岡城に入ってから三日後、石川高信の使者として金沢円松斎が来訪した。ヒョヒョヒョと笑う目の前の坊主に、吉松は苦笑した。だが長門広益、南条広継、下国師季、蠣崎政広をはじめとする新田家家臣たちの視線は冷たい。毛馬内靱負佐秀範から、盟約違反から野辺地での襲撃に至る一連の姦計は、目の前の坊主頭から端を発していると聞いていた。どれほど多くの血が流れたと思っているのか。坊主頭一つで済む問題ではない。
「交渉とは、対等の関係ではじめて成立するのだ。南部家と新田家が対等だと思うか? 懇願の間違いではないか?」
「ヒョッ、この愚僧の首で宜しければ、いつでも差し上げまする。されど、その前にお聞きくだされ。我が主君、石川左衛門尉高信は、新田に降伏いたします。石川城をはじめとする所領はすべて献上し、当主である高信、そして拙僧は腹を切りまする。そのかわり、津軽に残された南部軍を御救い頂きたい」
「足りぬわっ!」
吉松は怒鳴った。金沢円松斎が言葉を止める。
「石川城? そんなものはすぐにでも攻め取れる。三戸南部家および糠部、津軽全国人衆の、無条件の全面降伏だ。生殺与奪も含め、すべてを渡せ。切腹する権利すら認めん。誰が生き、誰が死ぬかは俺が決める。国人衆の土地は一反の畑まで残らず没収、逆らう奴は皆殺しだ。俺は民に対しては優しいが、武士に対しては厳しいぞ。特に、最低限の信義すら守れないような武士に対してはな!」
金沢円松斎は表情こそ変えなかったが、その手にはジワリと汗が滲んだ。そこに、毛馬内靱負佐秀範が近習に連れられて現れた。
「毛馬内殿、生きておられたか」
「生き恥を晒しておりまする。されど、殿の命により、なんとしても左衛門尉殿に伝えねばならぬことがありまする。殿より、御遺言状をお預かりしておりまする。金沢殿、左衛門尉殿をお連れ願いたい」
「その遺言の内容とは……」
だが毛馬内秀範は首を振った。吉松に顔を向けたが、童らしく肩を竦めた。
「俺はそんな無粋なことはせん。南部晴政は正に、糠部の猛虎であった。最後まで雄々しく戦い、そして死んだ。敵ではあったが、敬意を持つに足る男だった。そんな男の遺言を覗き見るような真似ができるか」
金沢円松斎はその言葉で察した。新田吉松の先ほどの言葉は、言葉通りには受け取れない。新田もまた、落としどころを探しているのだ。つまり、交渉の余地はまだある。
「一度戻り、殿をお連れしたいと思います」
「急がれよ。時が経つほど、南部家は割れるぞ」
金沢円松斎は自陣へと急いだ。
「石川殿、こうして話をするのは久しぶりだな」
「御無沙汰をしておりまする」
浪岡城内館の評定の間で、石川高信は吉松と向き合っていた。その後ろには金沢円松斎が控えている。南部晴政亡きいま、筆頭である石川左衛門尉高信のみが、三戸南部家を救える唯一の男であった。その自覚から、凄惨な表情となっている。
「まずは靱負佐殿(※毛馬内秀範のこと)をお返ししよう。さすがは南部家家老、忠義溢れる男よ」
「靱負佐をお返しいただく条件は?」
「ない。靱負佐殿には、我が祖父が世話になった。祖父の話では、乱暴なことは一切されなかったそうだ。恩には恩で、仇には仇で返す。それが新田の流儀よ」
石川左衛門尉高信の後ろに、毛馬内靱負佐秀範が座る。そして高信の前には、南部晴政からの書状が置かれた。封がされたままである。吉松を含め、誰もその書状を読んでいないという証拠であった。
「《いにしへの
高信は書状を手にした。その手は微かに震えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます