第63話 外ヶ浜の決戦(後編)

「どうどう……」


 晴政の側近たちが、馬を窘めていた。聞き慣れない音に最初は戸惑っていた馬たちだが、その音が自分には害がないと知ると、すぐに慣れたようだ。馬は学習能力が極め高い。太鼓の音や雷の音などにも、最初はソワソワとして嘶くが、その音が自分に直接的な害を齎さないと知ると、無視するようになる。


「行けそうか?」


 晴政は自分の愛馬「雪風」の様子を見る。陸奥は良馬の産地である。この雪風も体高五尺(約一五二センチ)の大柄な馬だ。白い体躯を主に寄り添わせる。晴政はその首を撫でて、率いる兵たちに顔を向けた。


「これより、敵の本陣を突く。恐らくは死線を渡ることになろう。だが勝った暁には、望むままの褒美を与える。皆、儂についてこい!」


「「おぉぉぅっ!」」


 騎馬を中心とした五〇〇の部隊を率いて、南部晴政が出陣した。一方、乱戦状態となっていた前線では、吉松の父親である八戸行政が奮戦していた。行政にとって、吉松はもはや息子ではなく、得体の知れない敵である。息子とは八戸家を継いだ久松ただ一人であった。だから遠慮なく槍を振るう。


「なんだ、この兵どもは!」


 背丈こそ自分とそれほど変わらないが、力強さがまるで違う。雑兵が槍を突き出してくるが、それを払いのけるので精一杯であった。


「グッ!」


 ドスッという音と共に背中に鋭い痛みが走る。行政は夢中で槍を振るい、叫んだ。


「吉松ぅぅぅっ!」


 再び音がする。やがて叫び声は消えた。




「……そうか」


 八戸行政の討死にという報せに、吉松は顔色を変えることなく無表情で頷いた。情を育む時間などなかった。父親の死に対する悲しみなどはない。だが親殺しという悪名を背負うことには変わりはない。そしてどのような顔で母と兄に会えばよいのか。そう考えると憂鬱であった。


「殿、南部軍が動いております。どうやら南に回り込み、此方を狙っているようで……」


 斥候が戻ってきた。南部晴政率いる五〇〇が動いているという。吉松は立ち上がった。いよいよ決着の時である。槍と太刀で正々堂々と戦うなどという趣味は、吉松にはない。侍の誇りだの、戦人の浪漫だの、神仏の加護だの、そんなものは掃き溜めに捨ててしまえばいい。論理思考と科学技術、情報処理と組織運用、統計と確率によって、運が入り込む要素を無くす。


「晴政はこの本陣を狙ってくる。長距離狙撃隊を準備させよ! 晴政だけを狙えばいい。晴政、お前の強運もここまでだ」


 実用化した火縄式ミニエー銃三〇丁を三段に構えさせる。射程距離はおよそ五町(約五五〇メートル)、狙いは南部晴政ただ一人。吉松の周囲には屈強な護衛がついている。ここまでたどり着くことなど、確率的に不可能だ。ただ無機質に、ただ無常に、誰に殺されたのかも知らずに死ね。

 やがて南部軍が見えた。騎馬と歩兵の混成部隊である。


「放てぇっ!」


 ダダーンという音が響く。歩兵が倒れたが、数は少ない。第二射、第三射が続く。白い馬が見えた。戦場の中ではひときわ目立つ。南部晴政に間違いない。狙撃隊は晴政に狙いを合わせ、一斉に引き金を引いた。




 吉松の本陣が見えた。晴政の口角が上がる。今の自分は、南部家頭領ではない。鎌倉から連綿と続く奥州人。一個の武士もののふとして、乱世に出現した怪物に挑むのだ。


「雄雄雄雄ッ!」


 主君と共に、五〇〇名が叫ぶ。弓では決して届かない距離なのに、兵が倒れていく。自分の躰にも、何かがめり込んだ気がした。だが痛みも苦しみもない。あの陣に辿り着けば、南部家は新たな地平を拓くだろう。ただ前へ、一歩でも前へ。

晴政の気迫が乗り移ったのか、五〇〇名は傷つきながらも一丸となって進んだ。


キシッ


 右手に力を籠める。槍を握る指が音を立てた。四肢に力が漲る。勝てる。このまま突っ込めば勝てる。再び咆哮する。その様は、正に猛虎であった。




「……なぜだ? なぜ倒れん! 馬だ、馬を狙え!」


 何発もの弾が命中しているはずなのに、それでも南部晴政は倒れなかった。吉松が叫ぶ。五町の距離を馬が駆け抜けるのは、時間にすれば一分(※約七二秒)程度であるが、それでも六射はできるはずである。すでに四射し、南部軍は目の前まで迫っている。それでも南部晴政は止まらなかった。そして五射目、白い馬が崩れた。


「雄雄雄雄ッ!」


 雄叫びが吉松の耳を震わせる。晴政が起き上がった。そして槍を手にして突っ込んでくる。その後ろから、他の兵たちも走ってきた。


「殿を御守りせよ!」


 誰かが吉松を後ろに下がらせる。だが吉松は表情を歪めながら叫んだ。


「放てぇぇぇっ!」


 六射目の音が響いた。




 自分が傷ついていることは知っている。もう助からないだろう。だが目の前に怪物がいる。戦うのだ。命が燃え尽きる最後の瞬間まで、前へと進むのだ。馬が崩れ、落馬する。痛みが全身を巡る。骨が折れたかもしれない。だが痛みがあるということは、まだ生きているということだ。肚の底から吠える。そして駆ける。背中から兵たちの熱が伝わってくる。そうだ。これが奥州人の、侍の魂なのだ。


 もう怪物は目の前にいる。あと少しで届く。どうした? 顔に焦りがあるぞ? 怪物でも焦るのか? ようやく感情を表したな。待ってろ。いま首を落としてやる……


ダダーンッ


 音が響いた。青い空と日の光が見えた。あれが天下なのか。美しいと思った。




 南部晴政の討死をもって、外ヶ浜の戦いは決した。晴政から後を託されていた毛馬内靱負佐秀範は、兵たちを下がらせて降伏した。南条越中守広継は、南部軍に武装解除を命じて、負傷者たちを手当てするように命じる。吉松の本陣には、討死した八戸行政や南部晴政の遺体が運びこまれた。これからのことを話し合わなければならない。だが吉松は真っ青な顔で、晴政の死体を見つめていた。


「殿、御顔の色が悪うございます。もしやどこか……」


「俺は大丈夫だ。ただ理解できないだけだ。なぜだ。ここまで辿り着けるはずがないのだ。実際、何発もの弾を喰らっていた。死んでいて当然なのに、なぜ戦い続けられたのだ……」


 誰のことを言っているのかは一目瞭然であった。広継にはその理由が解った。だがそれを教えるのは自分の役目ではない。もっと教えるのに相応しい人物がいた。


「殿、これからのことを話し合わねばなりません。御隠居様も、間もなくお越しになります。御隠居様に、お尋ねになられるのが宜しいかと」


「御爺なら解るのか?」


「解らないかもしれません。ですが、その問いは御隠居様に聞かれるべきです」


納得したわけではない。だが吉松は頷いた。祖父は長年にわたり、南部晴政と共に戦ってきたのだ。祖父にこそ、晴政の戦いぶりを伝えなければならないだろう。吉松は無言で、遺体に向けて手を合わせた。




「某の首は差し上げまする。されど、残された兵たちには、寛大な措置を……」


 床几に腰を下ろしている吉松に向けて、毛馬内靱負佐秀範は深々と頭を下げた。吉松の両側に、南条広継と新田盛政がいる。盛政は九十九衆によって救出された後、戦に合流せずに外ヶ浜の顔役である堤家に匿われていた。戦いが決したため、合流したのである。


「戦は終わった。これ以上の流血は、新田も望むところではない。負傷者にはできるだけの手当てをすることを約束しよう。そして毛馬内殿にも生きていただく。生きて、南部晴政という一個の益荒男を、語り伝えていただく」


「家老として、南部家を支えることもできず、主君を救うこともできず、おめおめと生きているわけにはいきません。こうして生き恥を晒しているのは、貴方様と石川左衛門尉殿に宛てた書状を預かっているからです」


「書状?」


 二通の書状が取り出される。吉松は石川高信宛の書状を一瞥し、そして「新田吉松殿」と書かれた書状を開いた。そして目を細めた。そこにはしっかりとした文字でこう書かれていた。


《いにしへの つわもの一人 問ひ掛けん あらたくなる世の 果ては何処いずこか》


 辞世の句である。新田吉松が目指す「新たな世」は、はたして本当に人々を幸福にするのか? それとも多くの人を不幸にするのか? 草葉の陰から、その果てを見届けてやる。そう言っているのだ。

 吉松が読み上げると、毛馬内秀範は肩を震わせて泣きはじめた。南条広継も新田盛政も、沈痛な表情で黙祷している。吉松は丁寧に書状を折りたたんだ。そして決意の表情で呟いた。


「天下を……獲るぞ」


 その声は低く、力強く、そして微かに震えていた。

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