第59話 宇曽利大返し
「吉松は打ち取ったか!」
ドスドスと幾つもの足音が響き、野辺地館の中に怒鳴り声が響く。南部晴政の声以外にも、幾つかの声が聞こえる。盛政は諦観して瞑目していた。自分はここで死ぬだろう。それに悔いはない。孫は恐らく生き延びている。根拠はない。だが孫はそういう星の下に生まれてきている。盛政はそう確信していた。
「申し訳ありませぬ。気づかれたらしく、新田吉松は逃げましてございます」
やはりなと、盛政の口端が上がる。ドスンと目の前に誰かが座った。眼を開ける。かつては大殿と呼んでいた、新田最大の敵が目の前にいた。その表情は晴れやかで、どこか嬉しそうにも見える。
「さすがは神童、新田吉松よ。どこかで違和感を覚えたのであろう。それで祖父すらも置いて逃げた。自分が生き残るためなら、大切な親族すらも切り捨てる。なんとも非情な奴よな」
「……本当にそうお思いか?」
「いや、見事な決断よ。まずは生き延びること。親であろうと我が子であろうと自らの手足であろうと、必要ならば切り捨てる。大将たる者、そうでなければならぬ」
そして苦笑いを浮かべてため息をつく。
「まったく。困った奴が同じ時代に生まれたものよ。これで南部は新田と全面的に争うことになった。新田家を深く知るお主には、すべてを話してもらわねばならぬ。人質としての価値もあるからの。殺しはせぬ」
盛政はクククッと低く笑った。自分を取り囲んでいる者たちが、何が可笑しいと怒鳴る。盛政は清々しい気持ちだった。自分が死ぬのは構わない。だがこれだけは目の前の男に言ってやりたかった。
「南部右馬助殿。やはり貴殿は、我が孫吉松には及ばぬ。困った奴と言われたな? 吉松の方は、貴殿のことを困った奴などとは思うておらぬ。吉松は言うておった。天下には、南部家より遥かに手強い相手がゴロゴロしていると。天下を目指す吉松にとって、貴殿など路傍の小石と同じじゃ。歯牙にもかけておらぬ」
「貴様ぁッ!」
周囲が激高し、太刀を抜く。だが盛政は、晴政から視線を動かさなかった。そして晴政も、黙って盛政を見つめていた。周囲が怒鳴った後に、不思議な静寂が室内に流れた。
「太刀を下ろせ。この程度の挑発でいちいち激昂するな。だから駄目なのだと新田吉松は嗤うであろう」
「殿、しかし……」
晴政がギロリと睨む。それだけで皆が竦み、そして太刀を下ろした。卑怯、卑劣と罵られようとも、すべてを賭けて新田に罠を仕掛けた。だがあと少しというところで、吉松に逃げられた。この先、南部家を信用する者はいなくなるだろう。時が経つほど、人が離れていく。国人衆を纏め上げるには、一日も早く新田を倒すしかない。
「牢へ入れる必要もない。部屋に閉じ込めておけ。靱負佐(※毛馬内秀範のこと)、新田のことを聞き出せ。ただし殺してはならぬ。扱いも丁重にせよ。良いな」
「はっ」
晴政は立ち上がって部屋から出て行った。盛政には、晴政の背中が幾分か、小さくなったように見えた。
先年の「吹越峠の戦い」以降、この峠は宇曽利防衛の要衝として防衛強化が行われてきた。分厚く高い城壁に二重の堀、鉄砲櫓を備えており三〇〇名の兵が防衛に当たっている。普段は関所として使われているが、五倍以上の敵を食い止められるよう設計されていた。
「殿、どうかご無事で!」
段蔵とはここで別れる。南部領内で動く他の忍びや歩き巫女たちに、今回の件を伝え、噂を流すためだ。南部家は卑劣である。和睦の場で謀殺を図るなど武士の風上にも置けない。本当に南部晴政についていってよいのか。三戸南部家ではなく、中小の国人衆たちにそう訴えるのである。時間が経つほどに、その毒は南部家中に回るだろう。
関所で馬を替え、田名部を目指す。ここから先は道が良い。一気に早くなった。途中には馬に水を飲ませる場所も整えてある。夜には田名部に到着した。
「殿、忍びの者から話は聞いております。田名部ではすでに、動員をかけました」
「さすがは吉右衛門、早いな。だがまずは飯だ!」
吉松が田名部館に到着したときには、すでに館中が合戦準備で動いていた。厨に向かうと、塩鮭の出汁漬けが用意されていた。冷や飯に葱と焼いた塩鮭を乗せて、昆布出汁を掛けただけの飯だが、これが美味い。大根のいぶり漬けを箸休めにしながら、夢中で掻き込む。田名部館では毒味など不要である。九十九衆など少数を除けば、自分が生まれる前から田名部で暮らし、新田に仕えてきた者たちに囲まれているからだ。他から忍びなど紛れ込みようがない。
「やはり、田名部の御館は落ち着きますな」
南条広継も一息ついて、安心した表情になっている。出汁漬けを二杯食べた吉松は、眠気を押さえながら評定の間に向かった。身体は疲れているが、一日の遅れが致命になるかもしれないのだ。ここが踏ん張りどころと自分に鞭を打つ。
「さて、南部家との全面戦争に突入した。目下の戦線は三ヶ所だが、実質は一カ所と考えていいだろう。吹越峠には既に三〇〇の兵と鉄砲が配備されている。二〇〇〇の軍勢でも容易には落ちぬ。陸奥湾には五〇〇石船を五隻置いてある。蠣崎蔵人のように海から攻められることはまずない」
広継と吉右衛門が頷く。宇曽利の地の防衛はほぼ完全である。可能性があるとすれば、八戸から船を使って猿ヶ森に上陸するという方法だが、そもそも南部家には水軍はない。その可能性は低いと判断した。
「つまり浪岡が戦線となる。我らは急ぎ、浪岡へと向かわねばならぬ。ここで問題になるのが、外ヶ浜に上陸するか、それとも十三湊を使うかだ。外ヶ浜の方が早く着くが……」
「殿。某であれば野辺地の軍を西進させ、一気に浪岡を目指しまする。青森湊(※善知鳥村のこと)はその途上にあり、上陸は危険ではないでしょうか」
「……吉右衛門、夏泊の灯台は動いておるな?」
「はい。昨日も船が確認しております。日没から日出まで、交代で光を向けておりますが…… 殿、まさか」
「そのまさかよ。夜通し船を往復させて全軍で青森に入る。南部晴政とて、野辺地の混乱を鎮めるのに今日一日は掛かる。野辺地の軍が動き出すのは明日の夜明け以降であろう。野辺地から外ヶ浜に入るには、平内の道を通るはず。距離にしておよそ一〇里から一五里。二〇〇〇の軍が移動するとなれば一日から二日は掛かるであろう。つまり早くても明日の夜、あるいは明後日に、南部軍は外ヶ浜に入る。我らはそれを迎え撃つ!」
南部軍の総兵力は、新田よりも多い。旧浅利領の比内に兵を残したとしても、津軽浪岡は五〇〇〇近くの兵を迎え撃つことになる。一方、十三湊から浪岡までの総兵力は二五〇〇、田名部の兵力は二〇〇〇である。もし野辺地にいた二〇〇〇が合流すれば、浪岡城は七〇〇〇で包囲され、しかも前後に挟まれる。長門藤六広益であっても、守り切ることはできないだろう。つまり、野辺地から浪岡に進む二〇〇〇を食い止めねばならない。
「南部晴政が率いているのは二〇〇〇の兵。一方、宇曽利から向けるのも二〇〇〇の兵。数の上では互角になる。なにより敵の大将が目の前にいるのだ。この機を逃す手はない」
広継に顔を向けると、力強く頷いた。吉右衛門は立ち上がり、一刻(※二時間)で整えますと言って動き始めた。方針が決まると、猛烈な眠気が襲ってきた。
「殿、少しお休みくだされ。準備ができ次第、某が起こしまする」
なんと返事をしたのかさえ、吉松は覚えていなかった。
夜、満天の下を船が走る。仮眠を取った吉松は、陸奥湾の風を感じていた。この戦に勝てば糠部と津軽の覇者が決まる。南部晴政とて、まさか新田が先回りして迎え撃つなど予想はしていまい。相手の度肝を抜くだけで、自分たちが有利になる。何より、兵の顔つきと身体つきが違う。肉や野菜を腹いっぱいに食べている兵士たちは、強靭な肉体を持っている。肉を忌避し、常に飢えている南部の兵とは鍛え方が違う。互角の数でぶつかれば、間違いなく勝てる。
「殿、御休みになられないのですか?」
背後から声を掛けられる。だが吉松は前から吹き抜ける風が心地よいため、振り返ることなく片手を挙げただけであった。ザザンッと波で船が揺れる。兵の中には船酔いになる者もいるだろう。決戦は早くても明後日。一日は休める。南部軍は山道を移動してくるのだ。これも大きな差になるだろう。
「越中、青森を南部晴政の墓場とするぞ。南部家は俺が貰う。せいぜい盛大な葬儀をしてやるさ。クックックッ」
暗闇で見えないが、きっと極悪な表情を浮かべているのだろうと広継は思った。雲が切れて月明かりが差し込んできた。主君の背中が、一回り大きくなったように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます