第58話 露見

 新田盛政は、一通の書状に目を細めていた。息子である八戸行政からの書状である。


《此度の吉松殿と桜姫様との婚儀、祝着至極に候。此度の祝儀を機に、八戸家は新田家との関係の修復を図りたく、我が父上においては取り計らいのほど、伏してお願いを申し上げ候》


 内容としては、今回の新田家と南部家との婚儀への祝辞と、これを機に新田家と八戸家も関係を修復したいという旨であった。八戸家当主の久松が元服した後は、妻と共に田名部に戻り、吉松を交えて親子水入らずの時間を過ごしたい、などと書かれている。盛政は素直に嬉しかった。倅の行政も孫の久松、吉松も、みな血を分けた家族なのである。豊かに生まれ変わった田名部の地で、皆で湯に浸かって美味いものに舌鼓を打ちたいものだ。盛政は喜々として、返事のために筆を手にした。


「和解、か……」


 浪岡城において、吉松は祖父からの書状を読んで顔を顰めた。ハッキリ言えば、八戸との和解など吉松には不要であった。大人しくしているならば、一門衆としてそれなりに豊かに暮らせるように取り計らってやる。だから両親も兄も俺の前に顔を出すな。お前たちに対する情などない。

 八戸に対して特にそう思うことこそ、情がある証拠なのだが、吉松は意図的に、自分の感情を無視していた。旧態依然の一門衆などいらない。一門衆はこれから自分の手で作る。南部家から嫁を取った後は、蠣崎家からも娘を貰うつもりでいた。三〇年かけて新たな一族を作り上げ、日本を統治すればいい。南部の血統ではなく、新田の血統に価値を持たせる。それが吉松の構想であった。


「仕方がない。野辺地で誓紙を交わす際に、親父にも会ってやるか」


 だが親子であることに変わりはない。和解を持ちかけられた以上、無下にもできない。なにより、祖父である新田盛政が熱望しているのだ。精神年齢が八〇歳とはいえ、戦国時代に転生してきたのである。精神的に孤独であった。それを支えてくれたのが、祖父の盛政である。自分にできるのなら、その願いは叶えてやりたい。それが人として持つべき仁義であろう。




 天文二三年(一五五四年)葉月(旧暦八月)、三戸南部家と新田家は、野辺地において誓紙の取り交わしを行った。それぞれ率いる兵は一〇〇までとし、南部家からは南部晴政、八戸行政、毛馬内秀範が参加した。新田家からは新田吉松、新田盛政、南条広継が参加している。秋は既に目の前に迫り、風も少し涼しくなっていた。


「それではこれにて、南部家と新田家の新たな盟約を結ぶことと相成りました」


 新たに五年間の不戦の盟、南部家嫡女の桜姫との婚約、吉松の元服をもって晴政は隠居し、南部家は吉松が継ぐことなどが誓約された。


「それにしてもお早いですな。すでに安東家侵攻のため、鹿角まで軍を展開されているとか?」


「なに。婿殿にばかり名を上げられるのも癪だからの。国人衆たちが手柄を上げる場を寄越せと煩いのだ。それはそうと、娘の桜を連れてきている。また八戸行政と奥方は、野辺地に二日ほど滞在する予定だ。ゆるりと話してゆかれよ」


「お気遣い、感謝いたします」


 南部晴政との会談が終わると、野辺地館の庭に通された。無論、周囲は新田の警備で守られている。中年の女性が、幼い娘を連れてきた。背丈は自分と同じくらい。同い年だというが、少し大人びた顔立ちにも感じた。大きな瞳とした、文句のつけようのない美少女であった。


「吉松……様?」


 鈴のような声だと思った。思えば自分と同年代の女性と話すのは、転生して以来初めてだ。精神年齢八〇歳を過ぎているというのに、胸が少し高鳴る。


「桜姫、ですね? 新田吉松です」


 一礼する。緊張はしていない。だが目の前の少女に、心惹かれる何かを感じた。少女はまじまじと吉松の顔を見て、コテンと首を傾げた。


「……角と尾は、ないの?」


「は?」


「みんなが言っていました。新田吉松は、宇曽利のお化けだって」


「ひ、姫様っ!」


 中年の侍女が慌てるが、吉松は爆笑した。確かに可愛らしい。あと一〇年もすれば、それこそ素晴らしい美人になるだろう。だがやはり子供だ。自分とは違う。


「残念ですが、角と尾は持っていません。代わりにこんなものを持っていますよ」


 懐中から焼き菓子を取り出す。庭の石に座って差し出すと、桜姫はどうしようか迷っていた。


「私が作った菓子です。甘いですよ。一緒に食べましょう」


 そう言って、自分が先に食べる。桜姫も遠慮がちに一枚を摘み、口に入れた。するとその味に驚いたのか、大きな眼を開いて、満面の笑みを浮かべる。桜が咲き誇っているかのような輝きであった。


(別の形で出会っていたら、喜んで嫁に迎えたかもしれないな……)


 桜姫に対して、純粋に好意を抱いた。だがそれが叶うことはないだろうとも思った。南部晴政が自分に家督を譲ることなどない。安東家を滅ぼした後は、約定を反故にして新田に攻めてくるだろう。ただ一期の出会い。だからその時間を吉松は楽しんだ。




「御無沙汰をしております。父上……」


「うむ。息災のようだな。新田の活躍は耳にしている。見事なものよ」


 桜姫と過ごした後は、父親である八戸行政と母親の春乃方と会う必要があった。吉松としてはそれほど乗り気ではなかったが、これは祖父の新田盛政が熱望したことである。祖父には苦労を掛け続けてきた。新田が何かを失うわけでもないので、孫としてせめてこれくらいは叶えてやりたいと思ったのだ。


「母上もお元気そうでよかったです。兄上がいらっしゃらないのが残念ですが……」


「も、申し訳ありませぬ。久松は少し体調を崩していて……」


「そう畏まらずに。親子ではありませんか。兄上にはくれぐれもご自愛をとお伝えください。吉松は心からお見舞い申し上げます」


 ニコニコと笑いながらも、吉松は内心で疑問を持っていた。


(なぜ、怯える?)


 新田と八戸は断絶した。それを修復しようとしているのだ。微妙な空気は仕方がないだろう。最初はその緊張感かと思った。だが違う。目の前の母親は、明らかに何かに怯えている。父親の行政は、祖父盛政と談笑している。だが母親は、祖父とも実子である自分とも、目を合わせることすら辛いという様子であった。和睦が延長し、息子が主家の娘と婚約し、親子が和解する。目出度い場であるはずなのに……


(なぜ、この女は怯えている!)


 厠へと断って、吉松は立ち上がった。少しゆっくりした足取りで歩く。だが頭の中は猛烈な速さで回転していた。母親の怯えが、吉松の頭から離れなかった。やがて思考の底から一つの答えが浮上してくる。


(もし、すべてが嘘だったら?)


 安東家を滅ぼすための時間稼ぎ。それそのものが嘘だと仮定したらどうだ。そもそも南部は、安東を滅ぼそうとしてない。滅ぼすことを諦めた。ならばなぜ盟約を延長し、娘を嫁にとまで言ったのか。


(目くらまし…… 最初の盟約すら守るつもりはなかった。鹿角に展開している軍勢は、安東を攻めるためのものではない。比内を通ってそのまま北へ…… 狙いは、我らか!)


 厠に向かわず、控えの間へと急ぐ。供回りにも酒が出されていたが、南条広継は一滴も飲んでいなかった。偉いぞと内心で褒める。


「越中、急ぎこの場を離れる!」


「殿? ……畏まりました。直ちに!」


 広継は何も聞かずに立ち上がった。同時に、館の外から声が聞こえた。鬨の声である。


「逃げる!」


 盛政のところまで戻る時間すら惜しい。八戸と一緒なのだ。無体なことにはならないだろう。そう自分に言い聞かせながら、吉松は駆け足で馬小屋に向かった。


「段蔵!」


「殿、お急ぎくだされ。御味方が戦っておりまするが、さらに二〇〇〇の軍勢が近づいております」


 加藤段蔵が馬を用意していた。世話の者たちが死体になっている。どうやら馬を殺そうとしていたらしい。馬に乗ると、段蔵の案内で館を出る。あちらこちらで煙が上っていた。加藤段蔵は馬と同じ速度で走った。吉松がいたぞという声が聞こえ、呼び笛が響く。横から槍を突き出してきた兵の首に、広継が刀を刺す。通りの先にいる兵たちに、段蔵が苦無を投げた。外れることなく目や鼻に突き刺さる。


「西は守りが堅うございます。東に出て宇曽利に向かいます」


やがて野辺地を抜け、吹越峠の関所を目指す。吉松の中にはジリジリとした焦りがあった。恐らく、石川高信をはじめ、南部家の全軍が浪岡に向かっているだろう。だが浪岡には長門広益がいる。簡単には落ちないはずだ。


「いいだろう、南部晴政…… 今年で決着を付けようじゃないか」


 吉松の表情が変わる。それはおよそ、童の表情ではない。怒りと高揚に滾る益荒男の顔であった。こうして、新田吉松は辛うじて、死地を脱した。

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