第53話 外ヶ浜
陸奥、津軽と聞くと、現代の人は「青森県」と想像するだろう。だが戦国時代において、陸奥、津軽地方のどこにも「青森」という地名は存在していない。津軽半島から夏泊半島にかけて、陸奥湾に面した地域は「外ヶ浜」と呼ばれていた。その意味は「国土の終端」である。
「みちのくの 外が浜なる
藤原定家の歌に出てくる「うとうやすかた」とは、讒言によって中央を追われ、この最果ての地に流罪となった「
戦国時代末期、津軽地方を襲った激震「津軽為信の乱」により、江戸時代には津軽地方は「弘前藩」となった。だが陸奥湾に面する港は野辺地港が栄えており、弘前藩は日本海側に出る十三港しかなかった。陸奥湾という漁場に出るためには、新たな港を開発するしかない。
そこで弘前藩二代藩主津軽信牧は、森山信実に命じて外ヶ浜に港を建設することを計画する。そこで選ばれたのが、先に出てくる
油川城城主、奥瀬判九郎は胃の痛い思いをしていた。油川城は、外ヶ浜の小高い丘に建てられている。城とはいっても屋敷に毛が生えた程度のものだ。城下町などあろうはずもなく、集落がポツポツとある程度の貧しい領主に過ぎない。
そんな自分が、何を間違えたのか七戸と組んで宇曽利郷を攻めた。そして散々に負けた。空からいきなり礫が降り注ぎ、次に濁声の大音声が響いた。鬼だ。鬼が出た。判九郎は恐慌して逃げ出した。
「鬼は外、福は内」
外とは、外ヶ浜の向こう側のことである。日ノ本の外には鬼がいる。そして宇曽利はまさに、向こう側に存在している。七戸に声を掛けられたとき、半ば鬼退治の気分で兵を出した。敵に倍する兵力がある。ご案じ召されるな。そう言われていたのに、実際にはほとんど戦いにすらならずに逃げだした。そして七戸と切れた。真っ先に逃げ出した自分を責めているのだ。
「わ、儂が何をしたというのだ。あんな鬼が出れば、逃げるのは当然であろうに……」
野辺地の関では、関銭が取られるようになった。野辺地港からは様々な物品が入ってくる。特に重要なのは米だ。だが油川に届く米の値が上がった。日ノ本の端にある寒村に過ぎないこの地の領主などなんの力もない。判九郎は胃の痛い思いをしながら、領民を宥めるしかなかった。
だが運命は容赦なく、判九郎の胃を痛めつける。天文二二年、鬼が津軽に攻めてきた。十三湊から五所川原、そして浪岡まで新田が飲み込んだのである。その電撃的な速さと圧倒的な強さに、判九郎は、次は自分ではないかと恐れ、館に籠った。
だが鬼は襲ってこなかった。それどころか書状と共に米と酒を送ってきた。書状はなぜか楷書体で書かれていた。それが逆に不気味だった。日ノ本の言葉を学んだ、崩し文字を知らない鬼が書いたのではないか。判九郎はそう思った。
書状の内容は、田名部からヒトとモノを運ぶために、油川城南部を流れる新城川と、善知鳥の漁村を使わせて欲しい。湊の整備費はすべて新田が出すし、津料として幾ばくかの米も納入する。南部家とは後二年の不戦の盟があるが、油川とは協力を続けたい。そういう内容であった。形式に則った、友好的な内容だった。普通に読めば……
だが判九郎には、我ら鬼の軍が、いよいよ外ヶ浜に上陸する。上陸拠点となる港を寄越せ。そうすれば飢えない程度の餌はくれてやる。もし断れば…… 解ってるな? そう読めた。
(し、臣従するしかない。七戸からは切られ、浪岡が占拠されたことで石川や大光寺への道も途切れた。油川は孤立してしまった。もう、鬼の手先になるしか……)
そしていま、判九郎の胃はかつてない程にキリキリと締め上げられていた。外ヶ浜の
「いやはや。今日は春めいた陽気で良かったですな。宇曽利郷はまだ寒さが厳しいのです」
童が笑みを浮かべて朗らかに言う。だが半九郎には、ヒトの土地は暖かいな。我ら鬼の住処より過ごしやすい。気に入ったぞ。と聞こえた。半九郎は背中に汗を流しながら、それは良かったですなと何とか返した。
「それで奥瀬殿。
童の左右に控える若鬼のうち、見事な侍の姿をした男が、涼しげな声で語り掛けた。もう一人、男か女か解らない美貌の人物は、なぜか宮司の恰好をしている。
(こ、これが鬼。男女の違いすら超越した物ノ怪……)
「越中、そう慌てるな。奥瀬殿も、色々と御立場があるのだ。そう簡単には決められまい。まずは存念を聞こうではないか」
小鬼が薄笑いを浮かべて若鬼を御する。若鬼は無言で一礼した。その言葉遣いは、およそ子供のものではない。南部晴政をして「童の皮を被った怪物」と呼び、人々は「宇曽利乃怪物」などと噂している。
日の光を反射して、小鬼の瞳が一瞬、赤く輝いたようにも見えた。笑みを浮かべたまま黙っている三人の姿は、まさに鬼そのものであった。
(もう十分に考えただろう? さぁ、何を差し出す?)
吉松としては、要求を聞くつもりだったのだが、奥瀬はいきなり頭を下げた。
「我らは臣従いたします!」
「……え?」
小鬼の眼が点になった。
「殿、宜しゅうございましたな。油川を
「二年後だがな。いま臣従されても困る。しかしどうして所領すべてを差し出すなんて言い出したんだ? 俺はただ、湊を使わせてくれと頼んだだけだぞ?」
「さて、某にも解りかねます。ただ、奥瀬殿は野辺地では臆病者と蔑まれている様子。今の立場から逃げたかったのではないでしょうか」
「なるほど、そうかもな。それで籾二郎。造道の諏訪神社はどう見た?」
「些か、場所が不便かと思います。殿のお許しを頂けるのなら、新たな湊の近くに、移築させていただけないでしょうか?」
「構わんぞ。善知鳥村はいずれ大きくなる。良き場所を見繕って建て直そう」
油川奥瀬は、臣従を誓った。だが今すぐという訳にはいかない。南部家との不戦の盟もあり、油川を獲るわけにはいかないからだ。だからあくまでも、港湾と街道の整備、新城川治水の賦役で協力するという形にした。奥瀬は南部家に臣従する国人衆の一人だが、地理的位置の関係から孤立している。新田と協力しなければ生きていけないとなれば、他の国人たちも納得するだろう。
「やはり勿体ないな。この地を開発すれば、多くの人々が幸福に暮らせるだろうに」
外ヶ浜の海岸に沿って進む。新城川からは船で移動し、そこからまた馬に乗る。道を整備し、物流網を完成させれば、浪岡から外ヶ浜にかけて、大いに栄えるだろう。
善知鳥村に入る。寂れた漁村に過ぎないが、善知鳥神社という神社がある。その歴史は坂上田村麻呂よりも古いという。だが今は手入れがされておらず、半ば放置されている。
「みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」
吉松は、藤原定家の歌を詠んだ。この地は善知鳥と呼ばれているが、それをそのまま残すべきかどうか迷った。なにしろ漢字にすると読めない者も多いからだ。
「殿、いずれ善知鳥の地名は変えるべきかと存じます」
籾二郎がそう進言する。人の名が付いた神社とは、その人物の「恨み」を恐れ鎮魂のために奉っているのである。その代表例が菅原道真を奉る「天満宮」であろう。
「善知鳥は祟り神にござりますれば、地名としては相応しくありません。良き名をお考え下さい」
「そうだな……」
周りを見渡すと、丘の上に森が見えた。春の到来に合わせて葉が茂り始めている。それが青々しく、湊に入る船にとっては良い目印になるだろう。
「青森…… と名付けるか」
内心で森山信実に詫びながら、吉松はそう呟いた。
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