第43話 浪岡家臣従

 浪岡北畠氏は、後醍醐天皇の命により国司として奥州に下向し、当初は南部氏の庇護を受けていた。当初は岩手県伊丙郡船越村(現在の山田町船越)に居を構えていたが、南北朝時代になり三戸南部氏が北朝方についてしまったため、同じ南朝方である根城南部氏を頼って津軽浪岡に移り住んだといわれている。


 浪岡城は長禄四年(一四六〇年)頃に築かれたと考えられている。浪岡川を引き込んで天然の堀とし、八つの曲輪が扇状に配置されていた。北の曲輪(北館)には家臣たちの屋敷が整然と配置され、屋敷それぞれに井戸や竪穴式の付属屋が置かれていた。北館から南に進むと、一段高く造成された内館があり、浪岡氏はそこを居住区としていた。


 一六世紀(一五〇〇年代)前半、浪岡具永が当主であった時代では、十三湊を経由して越前、そして京都との交易も非常に活発であり、浪岡の城下町は繁栄していた。浪岡城は十三湊へと続く下之切通、陸奥湾へと続く大豆坂街道の要衝に位置し、交易の中心地であった。現在でも七日町という地名が残っていることから、城下町では七日に一度、市が開かれていたと考えられる。

 浪岡具永はこの交易の要衝地をさらに発展させるため、職人たちを保護し、曲輪に招き入れて住まわせていた。刀剣や鋳物を作らせ、麻やからむしを栽培し、曲輪内で衣類も生産していた。

 また交易においては、蝦夷地からもたらされる鮭や昆布などを京都へと運び、京都からは当時流行していた天目茶碗などの茶の湯文化を津軽まで運んだ。城の跡地からは中国製や朝鮮製と思われる青磁、白磁、焼物なども発見されており、北日本の交易の中心地として栄えていたことがうかがえる。


 しかし、浪岡の繁栄は長くは続かなかった。川原御所の乱などの御家騒動により力を落とし、最終的には津軽為信が二三〇〇の兵で火付けと略奪を行い、浪岡城は炎に包まれた。この際、津軽為信は「困窮する民を救うため」という大義で攻めたと伝えられており、当時の大義名分がいかに怪しいものであったのかが、端的にわかる事例となっている。


 灰と化した浪岡城の跡地は、その後は田畑として長く使われてきたが、近年、発掘調査が行われるようになり、浪岡の繁栄ぶりが明らかになってきている。




「全軍に徹底させよ。乱取りのたぐいは一切禁ずる。麦一粒、花一輪すら民から奪うことは許さん。違反者はその場で首を刎ねよ。良いな、この新田吉松に二言はないぞ!」


 浪岡の城下町を整然と進む。こうした行進訓練は田名部の集落で行っているため、民から見れば規律の取れた軍に見えたことだろう。だがそれでも町人たちは家に閉じこもり、そっと外を伺っていた。通りには誰もいない。


「これは…… まるで田名部ですな。この北の地にこれほどの町を築くとは」


 南条越中守広継が、感嘆の声を漏らした。蠣崎彦太郎も深く頷く。


「一所懸命を心得た一人の男が、半生を費やして築き上げたものだ。この町が灰塵に帰すなど、あってはならん。浪岡城を囲んだら、改めて降伏を勧告するぞ。燃やすにはあまりにも惜しい」


 やがて浪岡城北館の城門前に着く。白装束に身を包んだ一人の男が正座していた。




 話は少し遡る。五所川原で大敗した浪岡軍は散り散りとなって逃げた。浪岡家当主浪岡具運ともかずは、なんとか浪岡城まで逃げ延びることができたが、叔父である川原具信は討ち死にしていた。他にも重臣の何名かを喪っているはずだが、逃げることに必死で確認できていない。


「こんな…… こんな戦があるのか……」


 浪岡城の内館に戻った具運は、畳の間で伏して肩を震わせた。ドスドスと足音がし、障子貼りの戸が勢いよく開かれる。前当主で父親の浪岡具統であった。息子の胸倉を掴み、無理やり立たせるとその頬を叩いた。


「泣くな! たわけ者がっ!」


 それは息子が見たことが無い、父の姿であった。


「今の其の方はかつての父と同じ。己に自信なく、ただ流されるがまま何となく当主として座っていた、かつての俺そのままだ! 頭を上げろ、胸を張れ! 其方は右大臣、陸奥大介鎮守府大将軍北畠顕家公が末裔、浪岡北畠具運ともかずであろうが!」


「ち、父上……」


 具統はドスンと畳に座った。かつての自信なさげな当主の姿ではない。そこには、浪岡北畠家の家紋を背負う、一人の男の姿があった。


「かつて我が父、弾正大弼具永公が俺に言った。自分亡きあとは新田に臣従せよ。新田と争えば戦にすらならぬと。俺は内心で反駁していた。父が、俺よりも新田吉松を認めている。それが許せなかった。ただ父に認められたい。俺はずっとそう思っていた。その有様がこれだ。いまの浪岡の危機は、すべて俺の責任だ。お前は、浪岡と家臣、そして領民を守ることだけを考えろ。新田は、この父が止める!」


 具統は立ち上がった。見上げる息子に最後の言葉を残す。


「当主の役目を果たせ。戻ってきた者たちを迎え、労うのだ。泣いている暇などないぞ。ここが浪岡の正念場よ」


 そして部屋から出て行った。父の背はあんなに大きかったのか。具運はそう思った。


|


 白装束の浪岡具統が、背筋を伸ばして新田吉松を出迎えている。顔つきには凄みが出ている。吉松は自分の前世を思い出した。七〇近くになり未だ社長をしていた自分を、役員会議で実権の無い会長職に追放したときの息子の姿が重なった。あの時と同じ顔つきであった。


(ここにきて一皮剥けたか)


「殿……」


「皆、馬を降りよ。浪岡弾正少弼具統ともむね殿である。馬上から見下ろして良い方ではない!」


 近習に支えられて、吉松は馬を降りた。長門、南条、下国らもそれに続く。具統はグッと胸を張り、そして大声を出した。


「新田吉松殿! 我が命と引き換えに、浪岡の降伏をお認め頂きたい! 浪岡家、そして家臣たちの家を残していただきたい!」


「……見事な」


 長門広益がそう呟く。堂々たるものであった。すべての責任は自分にある。この場で腹を切る故、後の者は許して欲しいと言っているのである。だが広益は見誤っていた。新田吉松の欲望は、そんな小さなものではない。


「断る! 降伏は認めよう。だが貴方には生きていただく! 生きて、浪岡の行く末を、そして俺の道を見届けてもらう!」


 そう言われ、具統の表情は歪んだ。


「生き恥を晒せと?」


「舐めるなよ、弾正少弼殿よ。一体、何人が死んだと思っている! 貴方一人が腹を切ったところで、死んだ者が戻るわけではない。すべてはこの新田吉松の、俺の責任だ。俺が殺したのだ! ならばどう責任を取るか。子を、孫を、子々孫々を繁栄させる。この日ノ本を隅々まで栄えさせる。死んだ者たちに、自分の死は無駄ではなかったと示す。それが俺の一所懸命よ!」


 齢七歳の童の咆哮に、具統はグッと目を閉じた。死すら生温い。たとえ生き恥を晒そうとも、その生涯を一所懸命に費やせ。そう言っているのだ。具統は、両手をついた。


「参りました。浪岡は、新田に臣従いたします」


「受け入れよう。よくご決断された」


 そして吉松は頭を下げたままの具統に近づき、片膝をついた。


「初めてお会いしたときに、今の貴方であったら、浪岡を攻めることはなかったでしょう。だが遅くはない。浪岡の繁栄は、未だ失われてはいない。具永殿が命を懸けられたこの地を守られよ」


 こうして、鎌倉から続く名門浪岡北畠家は、新田に臣従した。天文二二年(西暦一五五三)卯月(四月)上旬のことであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る