第41話 十三湊評定

 火縄銃の殺傷能力が低いというのは、施条式洋式銃を前に旧式の火縄銃が敗北したという幕末の出来事から生まれた「勘違い」である。実際の威力は、鎧を簡単に突き抜け兵を殺傷することができる。江戸時代、具足職人たちが試し胴というパフォーマンスを行い「火縄を防げる」と喧伝したりもしたが、これは火薬量を減らしたインチキであったというのが現在の定説である。


 また、次弾発射までの時間についても、熟練度によって大きく変わるため一概には言えない。二一世紀に行われた実験では、早合を使わない通常の装填方法でも、熟練者は二〇秒で装填を完了させられる。これに早合を組み合わせると、装填速度は平均で九秒となった。また長篠の戦いで有名な「三段撃ち」では、平均で七秒となる。具足を撃ち抜ける有効射程距離は一〇〇メートル~二〇〇メートルだが、これは口径の大きさで変わる。多くの場合、二匁半~六匁(口径約一二ミリ~一六ミリ)であったが、この場合は一〇〇メートル以上離れていても、厚さ一ミリの鉄板を撃ち抜ける威力を持っていた。


 しかし、当然ながら熟練するためには練習が必要であり、そのためには大量の火薬を必要とする。しかし日本には硝石鉱山が存在せず、海外からの輸入に頼らざるを得なかった。雑賀衆が硝石を作っていたとう話もあるがこれは歴史的証拠が一切なく、海運を営んでいた雑賀衆が比較的容易に火薬を手に入れられたということから生まれた空想に過ぎない。


 鉄砲の有効性は当時の大名たちも認めるところではあったが、鉄砲自体が極めて高価で、しかも使用においても多額の資金を要したことから、使いたくても使えないというのが実情だったのである。




 ダダーンッという大きな音と共に煙が立ち込める。一〇〇人による鉄砲の一斉射撃だ。打ち終わると下がり、早合で装填を完了した後方の一〇〇人が前に出て再び撃つ。これを繰り返すことで習熟度を上げ、強力な鉄砲隊を完成させる。


「今は丸い弾を使っているが、そのうち先端を尖らせたものを使うようになる。施条銃といってな。八角形を捩じったような芯鉄を型に鍛造することで、銃身の中に弾の通り道を作る。すると弾はグルグルと回転しながら打ち出される。軌道が安定し、狙いやすくなる。いまどれくらいの捩じれが良いか、芯鉄を複数用意して試しているところだ」


 だが盛政には、吉松の言葉が聞こえていなかった。目の前の射撃が、実際の戦場で行われたらと考え、寒い思いをしていたのだ。


(これはもう戦ではない。歴戦の益荒男も百姓上がりの足軽も関係なく、ただただ死んでいく。まさに殺戮よ。吉松は戦そのものを変えようとしておる)


 祖父の心境を悟ったのか、吉松は真面目な顔になった。


「御爺、俺は御爺たちの戦を否定はせぬ。鬨の声をあげ、弓と槍で戦い合い、時には一騎打ちもする。戦いの中で益荒男同士、互いを認め合い、奇妙な心契が結ばれる。そうした古き良き時代は確かにあった。九郎義経(源義経)の八艘飛び、小太郎義貞(新田義貞)の朝駆けなどの逸話も残った。だが時代は変わった。この種子島は必ず普及する。俺がやらずとも誰かが、戦の形を変えるだろう。ならば俺がそれをやる。虐殺者、卑怯者と罵られようとも、己が野心のためにやる。それが結果的に、日ノ本のためにもなるのだ」


 個人の武力や天才的な直感などでは覆しようのない戦い。兵器の数量と兵の習熟度、そして後方の生産力。戦場という限定された場所での争いではなく、国と国との総合力での戦い。

抗いようのない現実を突きつけられた盛政は、寂しそうに頷いた。




 天文二二年(西暦一五五三年)如月(旧暦二月)、石川左衛門尉高信は雪解けを待たずに三戸城へと急いでいた。新田が進めている岩木川治水で、浪岡がごねているという噂が出たのである。五所川原から十三湊までの治水ということは、つまり新田領の治水ではないか。費えを新田が受け持つといっても、浪岡にはなんの利益もないではないか。新田は浪岡にも謝礼を払うべきだ。

 この噂が聞こえたとき、高信は新田の謀略であることを確信した。現時点では、浪岡が新田と事を構える必要などどこにもない。むしろ新田との繋がりを強め、家中の安定を図るべきである。その程度のことは浪岡家の家臣たちでもわかるはずである。噂の出どころは新田に違いなかった。それはつまり、戦が近いということを意味していた。


「兄上、このままでは浪岡は新田に飲み込まれまする。すぐに戦とはなりませんでしょうが、新田を止めるには、例の件を考えるしかありませぬ」


 南部晴政の嫡女である桜姫と、新田吉松との婚姻である。縁戚となれば、さすがの吉松も南部家に手を出すことはできないだろう。その間に檜山を獲り、新田を完全に封じ込める。これが石川高信の策であった。だが問題は、吉松と桜との間に男子が生まれた場合である。南部晴政には嫡男がいない。晴政にとってその孫は、南部家相続の候補になる。晴政が生きている間は大丈夫だろうが、あと二〇年経てば晴政は五〇を超えるが、吉松はまだ二七である。晴政亡き後、新田が南部を飲み込む可能性は十分にあり得た。


「ならん。仮に新田が浪岡を得たとしても、石高は二〇万を超える程度だ。我らは浅利、安東に全力で当たる。檜山まで得れば五〇万石となろう。そして新田に決戦を挑む」


 新田が屈し、乞うのであれば嫁に出しても良い。だがこちらから折れる気は毛頭ない。それは新田に負けたことを意味する。少なくとも晴政はそう捉えていた。


(決戦の末に儂が敗れたときは仕方がない。あの小憎らしい童に後を託しても良い。だが儂は負けぬ。南部家の力を結集させ、必ずやあの小僧を叩き潰す!)


 包囲網を弾き返したことで、陸奥における南部家の統制は強まっている。今であれば、三戸南部家を中心とした集権体制を築くことができる。南部晴政にはそうした自信があった。


「ならば某も、津軽において新田を押さえまする。兄上は心置きなく、浅利に当たられませ」


 たとえ石高で上回ったとしても、あの神童に勝てるかどうか、高信には読めなかった。ならば自分は、この偉大な兄をどこまでも支えるのみ。そう腹を括った。




「このような根も葉もない噂、我らは一向に関知しておりませぬ」


 十三湊においては、浪岡からの使者が汗を流していた。噂を流した張本人である南条越中守広継は、涼しい顔で頷いた。


「我が主君は、そのような噂を信じるお方ではありません。ですが約束していた人夫に満たぬご様子。これでは賦役に影響が出てしまいます」


「それは…… 当家においては先の事情もあり、人手を集めるのも難しく……」


 不穏な噂と浪岡城で起きた混乱は、庶民にも伝わっていた。戦になるやもしれぬという状況では、人手が集まらないのも仕方のないことであったが、それは新田が関知するところではない。


「約定では、この春に朝廷への使者を送り出し、その際の土産は当家が用意するということでした。すでに昆布、塩鮭、炭団や焼物などなどを準備しております。これから温かくなる季節。遅れれば痛む品も出てくるでしょう。いつ頃に使者を出す御予定か?」


「しばし、今しばし……」


 若い新たな主君は統率力が欠ける。また具永によって纏まっていた国人たちも、その心が離れ始めている。この状況で朝廷への使者というのは難しかった。だがそれも、新田の関知するところではない。


「仕方がありませんね。主君にはそう伝えましょう。されど、こちらも準備というものがあります。お急ぎくだされ」


 広継はさも仕方がないという仕草で、使者の言い訳を受け入れた。無論、これはわざとである。新田は甘い。そう思わせれば次からは使者すら送ってこなくなるだろう。案の定、それから一月、なんの連絡もなかった。そして弥生(旧暦三月)を迎え、蝦夷大館から蠣崎彦太郎、長門広益、そして下国師季が十三湊にやってきた。役者はすべて揃った。


「ふざけた話よのう。約定を守らないばかりか、言い訳の使者すら送ってこぬ。新田は舐められておるわ。もはや浪岡への遠慮は無用ということよな?」


 歓迎もそこそこに、十三湊の館において大評定が開かれた。彦太郎と下国師季は見学ということで発言はしないが、齢七歳の童が発する怒気に息を呑んだ。


(なるほど…… 藤六殿⦅※長門広益のこと⦆が認めるだけのことはある。これが七歳とは信じられん)


パチリッ、パチリッ


 吉松は越前から仕入れた扇子を二度開閉し、立ち上がった。


「亡き弾正大弼殿との約定は破られた。遠慮は無用! 浪岡を一気に喰らい尽くす!」


「「「ハッ」」」


 広益、広継の貌が戦人のそれに変わっていた。自分も…… 師季の中に滾りが込み上げていた。

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