第30話 蠣崎家嫡男

 蠣崎家嫡男、蠣崎彦太郎(後の蠣崎舜広としひろ)は、生まれて初めて見る他国に目を輝かせた。十三湊は、蝦夷大館から船で僅か半日であるが、生まれてから大館の外に出たことがない彦太郎にとって、十三湖と湖中に浮かぶような港街は、蝦夷では決してみられないものであった。


「若君、お久しゅうございます。ご無事でなによりです」


 十三湊で彦太郎を出迎えたのは、長門広益であった。蠣崎家が誇る知勇兼備の名将だが、蝦夷の民との和睦が成立した以上、少なくとも「勇」を発揮する場面は少なくなる。そのため、新田家および蠣崎家においても安東家との最前線になる十三湊に広益が置かれていた。


「とはいいましても、現在のところ十三湊では、治水工事に注力しております。新田家では治水のための新たな道具が次々と生まれています。まだ始まったばかりですが、いずれ岩木川流域は肥沃な土地になるでしょう」


 水木や道路車棹くるまさおといった測量道具、手押し車や馬を利用した荷車など、蝦夷地では見かけない道具を駆使して、津軽中央域の五所川原から十三湊までの、およそ一〇里(四〇キロ)の両岸に堤防を築き、増水時に水が逃げるための遊水地を設置する。大工事であるため、岩木川全域を整備するには一〇〇年は掛かるだろう。


「殿は、五所川原まで整備できれば、それだけで数十万石の土地ができると仰っていました」


「殿、か。藤六とうろく(広益の通称)はもう、新田家の者なのだな?」


「某は蠣崎家の臣です。ですが今は、新田家で働いております。そのため殿と申し上げました」


「よい。責めてはおらん。ただ、ならば私のことも、若君ではなく彦太郎と呼んでくれ。私も藤六殿と呼ぶようにする」


「わかりました。彦太郎様」


 彦太郎殿で良いのだがなと内心で思いながら、活気に満ちた人々の顔を見る。父が作りたかった蠣崎領とは、こうした姿なのだろうか。皆が、明日はもっと良くなると信じている。彦太郎は素直に、羨ましいと思った。


「今宵は十三湊にお泊りください。明日、田名部へと向かいます」


 彦太郎一行は仮の宿泊所へと向かった。




 史実において、蠣崎宮内舜広(彦太郎のこと)の記録はあまり残されていない。齢二二歳で姉に毒殺されたのだから、残すほどの功績がなかったのは仕方がないだろう。だが、安東舜季きよすえから一字を受けていることからも、父親の蠣崎季広のみならず檜山安東氏も将来を嘱望していたのは確かだろう。僅かな記録では、利発で情に篤い人物として、家臣からも支持されていたらしい。


(つまり使える人材ということだ。しっかりと幹部教育を行い、政戦両略で新田を支えてもらわんとな)


 蠣崎は人質のつもりで彦太郎を送ったが、吉松はそもそも人質の価値を認めていない。現代とは違い、戦国時代では親は子を、子は親を平然と見捨てる。家族の情愛とか命の価値とか、そんなものは路傍の石ころ程度の値打ちしかないのだ。裏切る奴は親兄弟を人質に取られようが、平然と裏切る。


「とりあえず、彦太郎や他の近習たちには、色々なことを経験させよう。吉右衛門の手伝いをさせれば政事を学べるし、剣や槍については俺と共に御爺にしごいてもらう」


「儂は構わぬが、お前はまだ素振りだけじゃぞ?」


 吉松はまだ六歳である。型を見るのは構わないが、打ち込みなどは許されていない。骨がまだしっかりしていないからだ。本格的な稽古は一〇歳になってからである。


「南条越中守については、本人と話し合わなければ役目は決められんな。彦太郎の傅役としてだけでは勿体無さすぎる。吉右衛門の役目の半分を担ってもらうか」


「それはそうと吉松よ。そろそろ吉右衛門にもしっかりとした家名を与えてやれ。この数年で、随分と政事に精通し、他家との交渉もやっておるのだ。もっとも新田に貢献している男ぞ?」


「そうだな。だから吉右衛門には特別な名を与えるつもりだ」


 名前は既に決めている。与えるならば、家臣全員が集まった評定の場においてだろう。




「お初にお目にかかります。蠣崎季広が一子、彦太郎にございます。本日よりどうぞ宜しくお願い申し上げます」


 蠣崎彦太郎、厚谷文太郎、小山小次郎、下国加兵衛の四名、そして南条越中守広継が一礼した。評定の間には新田盛政、吉右衛門、長門広益がそれぞれ横に、そして上座には吉松が座っていた。


「俺が新田吉松だ。無事に到着されてなによりだ。新田家では三無を約束している。飢えず、震えず、怯えずだ。これは領民のみならず家臣たちも同じだ。監視の目など付けぬ故、好きな時に外出し、田名部の街を見て回るがいい」


「それは…… 某は人質のつもりでしたが?」


「新田は家臣からも他の国人からも、人質は取らぬ。それはこれからも同じだ。其の方は人質としてではなく、新田に留まり学ぶために来たのだ。大いに学んでいくがいい。もっとも、ただ飯は食わせぬゆえ、ちゃんと働いてもらうがな。それは後ろの近習三名も同じだ。厚谷文太郎は、徳山館の戦いで活躍した厚谷備中守の一子であったな。小山小次郎は奉行衆である小山興重殿の二男、そして下国加兵衛は下国下野守の二男。いずれも蠣崎家を支える重臣たちの一子だ。この地で一回りも二回りも成長してもらわねば、新田の沽券に関わる。学び、働き、そして遊んでいけ」


 彦太郎は頭を下げながら、内心で思った。目の前の童は、本当に自分より六歳も年下なのだろうか。話し方や態度、そして発している緊張感は、徳山館の評定を見学した際に感じたものと同じであった。これが「当主」というものか。彦太郎は初日から学んだのであった。


「南条越中守殿、まさか貴殿が来られるとは思っていなかった。書状を読んだときは御爺ともども大いに驚いたものだ」


 彦太郎は呼び捨てなのに、南条広継には「殿」をつける。これは立場の違いからである。彦太郎にとっては後見であり蠣崎家の一臣だが、吉松からすれば小なりといえども土地を領する国人なのだ。長門広益のように新田に仕えると自ら言わない限り扱いは変えないし、当然ながら信用もしない。


「越中守殿に一つ聞きたい。貴殿は若狭守(蠣崎季広のこと)殿の股肱、蠣崎家一門衆の筆頭のはず。たとえ嫡男といえど、人質として外に出る人間に付けて良い人物ではないはず。貴殿が自ら望んだとしか思えん。聞こう。なぜ、新田に来た?」


 一瞬だが、ピリッとした緊張感が評定の間に走った。長門広益が吉松の方に向き、両手を板間についた。


「殿、それにつきましては……」


「越中守殿に聞いている。控えよ」


 吉松は左手を軽く上げて、広益を止めた。その口調は決して強くない。何となく事情は察している。そんな雰囲気を感じたのか、広益は一礼して姿勢を戻した。


「……越中守」


 彦太郎は首だけ横を向けて、背後に控える広継に声を掛けた。だが広継は黙ったままである。


「ハッハッハッハッ!」


 いきなり笑い声が評定間に響いた。吉松が膝を叩いて大笑いしたのだ。


「いやいや、済まぬ。蠣崎家から来られたばかりだというのに、このような空気にしてしまった。いまは彦太郎との話だというのに、つい疑問を口にしてしまった。なんでも聞きたがる童ゆえと許してくれ」


「殿は好奇心が旺盛でございますからな。職人たちも、色々と聞かれて困ると言っておりましたぞ?」


 吉右衛門が笑って茶化した。その後は、着物や食べ物など日常のことや、田名部で取り組んでいることなどを話し、用意した屋敷への案内を吉右衛門に命じて一旦は終わりとした。




 綺麗に整えられた屋敷に入った彦太郎は、自室に南条越中守広継を呼び、向かい合って座った。二人きりである。近習たちも含めて人払いをしていた。


「越中守よ、先ほどはどういうことだ? なぜ言わなかった」


「若君、どうかお許しを」


「別に怒ってはおらぬ。言い難いことであれば、繁栄著しい新田領を見たかったなど、適当に誤魔化せばよかったではないか。その知恵が回らぬ其方ではあるまい?」


「若君。吉松様はなぜ敢えて、あの場で聞かれたのでしょう?」


「ん? それは……」


 そう言われて、彦太郎も考えた。確かに、あの会談の主役は彦太郎なのだ。南条越中守は蠣崎の重臣であり国人ではあるが、傅役として来ているに過ぎない。聞きたいことがあれば、あとから聞けばよい。だがあえて、あの場で不審とも取れる疑問を口にした。


「実は某、ある悩みを抱えておりまする。吉松様はそれに気づいておられます。だからあの場で聞かれたのでしょう。いずれ某は、吉松様に呼び出されます。その際に、若君が疑わぬように……」


「その悩みとは、私にも言えないことなのか?」


「それはどうかお許しくだされ。某個人のことでございますれば……」


「……姉上のことだな?」


 頭を下げていた広継は、驚いた表情で顔を上げた。彦太郎は辛そうな表情をしていた。

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