第三章 一所懸命

第29話 南条家の憂鬱

 天文二一年(一五五二年)も弥生(旧暦三月)になると、田名部にもようやく春めいた日が訪れる。吉松にとって、複数の集落を管理しながらの越冬である。幾つかの課題が見えてきた。飛び地である十三湊はともかく、大畑と川内においても道が雪でふさがるため、火事が発生した場合など、どのように報せを送るかといった連絡の問題が発生した。


「やはり狼煙台が宜しいかと思います。それと大畑までの途中にある美付川に、山の民のための集落を設けてはどうでしょうか。道の整備がしやすくなりますし、彼らも喜ぶと思います」


 吉右衛門の案を取り入れ、新たに美付村を置くことにした。宇曽理郷(下北半島)の開発計画は始まったばかりであろう。最終的には田名部五湊を整え、北東端の尻屋埼に灯台を置いて東回りの交易路を作り上げる。米だけで一〇万石、その他穀物および交易などを合わせ二〇万石以上に新田領を成長させる。


「殿。領民たちが、獲れたての蟹を差し入れてくれました!」


 近習がザル一杯の蟹を運んできた。陸奥湾で獲れる春の味覚「栗ガニ」である。吉松は話を打ち切ってすぐに立ち上がった。こういう善意に対してはきちんと礼をしなければならない。たとえ自分が新田領の領主であろうと、それが人としての最低限の礼儀である。


「うへへぇ~」


 館の外門に、漁師らしき数人の男たちが土下座している。吉松は笑って顔を上げさせ、差し入れに礼を述べ、紅飴入りの焼き菓子を一人数枚ずつ渡した。


「妻子、あるいは好いた女子に食べさせてやるがよい。きっと喜ぶであろう」


 和紙で包んだクッキーを持たせてやる。試作品兼おやつとして用意していたものだ。甘いモノも悪くはないが、身体年齢六歳、精神年齢八〇以上の吉松は、蟹のほうに惹かれていた。もっとも近習や侍女などは爪を噛みたそうな顔をしていたが。





 雪解けと共に、蠣崎家から田名部に使者が来た。新田との繋がりをさらに深めるべく、嫡男である彦太郎と近習を送るという。だがその近習が問題だった。


「蠣崎彦太郎殿の近習として来るのは、厚谷文太郎、小山小次郎、下国加兵衛の三名。そして後見には南条越中守広継を送るそうだ」


 使者が持ってきた書状を見ながら、吉松は呆れたような、それでいて嬉しそうな声を出した。だがその名を聞いた盛政は仰天した。本来ならあり得ない名前が載っているからだ。


「南条越中守じゃと? 南条家当主が自ら田名部に来るというのか? いくら嫡男とはいえ、他国に送って良いような家臣ではないぞ!」


 盛政の言葉に、吉松も頷く。南条越中守は、織田信長で例えるなら明智光秀のような存在だ。南条家は取り潰されたため、記録は僅かしか残っていないが、二〇歳の若さで勝山館城主となり、アイヌ民族からの侵攻を食い止め、徳山城の北方を守り抜いた。後に悲劇に見舞われるが、天文二一年時点では、蠣崎季広にとって嫡男を託すに足る男と評価されているのだろう。


 蠣崎家には、季広と苦楽を共にした名臣たちがいる。下国、南条、長門、厚谷などだ。その中でも南条家は蠣崎季広の信頼が篤く、南条広継は季広の長女を娶り、一門衆筆頭となっている。だが気を付けねばならない。南条広継の妻は烈女として知られている。最初に生まれた自分が家督を継げないのはおかしいと、なんと季広の嫡男彦太郎と次男万五郎を毒殺するのである。

 それが露見し、南条の妻は処刑され、南条自身も疑いが向けられる。自分は潔白だと証明するために、南条はなんと生きたまま棺桶に入り、土中に埋めさせ、読経するのである。これが有名な「逆さ水松」である。だが季広の怒りは収まらなかったのだろう。南条広継の妻、つまり自分の長女の名前を墓に残さず、家系図にも長女としか記されていない。


「越中守は、奥方も連れてこられるのか?」


「はっ、越中の髪は紅葉もみじ様を娶られたばかりゆえ、恐らくは……」


 なるほど。蠣崎季広の長女は「紅葉」というらしい。良い名前ではないか。


「これは余談だが、紅葉殿について少し聞きたい。なに、御嫡男彦太郎殿をお預かりするのだ。彦太郎殿の実姉である紅葉殿のことも知っておきたいと思ってな」


「それは…… 紅葉様は大変お美しく、また明るく活発な御性格でございます」


「ふむ。幼き頃は野山を駆け回り、太刀や弓に興味を持ち、馬を乗りこなすようなお方か?」


「な、なぜそれを…… あっ」


 使者は口が滑ったと慌て、吉松は深く頷いた。南条広継の事件については、後世でも幾つかの仮説が立てられている。戦国時代、家督は嫡男が継ぐというのが常識であった。だが蠣崎季広の長女は、毒殺という手段を使ってまで、自分が家督を継ごうとした。なぜか?


(才知溢れ、活発な女性というのはこの時代にもいた。だがここまで苛烈な例はない。可能性があるとすれば、トランスジェンダー……)


「ハッハッハッ! いやいや、ならばご嫡男彦太郎殿も、姉と一緒にいられてご安心なさるでしょう。この新田吉松、責任をもってお預かりいたす」


(可能性はある。南条広継も気づいているやもしれん。だから蠣崎から離れるという選択をした。一度、二人と話をしてみるしかないな)


 吉松は内心を隠しながら、朗らかに返答した。




「紅葉よ。若君の傅役として田名部へ行く。その方も一緒だ。田名部は豊かに栄えていると聞く。蝦夷えみしの地では手に入らぬ美しい着物などもあろう。楽しみにしておれ」


「……はい」


 南条越中守広継は、妻に優しく語り掛けた。だが妻の返事は素っ気ないものであった。溜息をこらえて笑い、そして奥の部屋から出ていく。歩きながら、思わず呻きそうになる。広継は悩んでいた。娶った時は妻である紅葉姫に夢中だった。紅葉姫は蝦夷大館でも有名になるほどの美貌で、家中の誰もが自分を羨んだ。だが初夜以降は抱いていない。妻が嫌がっているのに気付いたからだ。恥ずかしいだけならば良い。だが嫌がり方が尋常ではない。「嫌悪」という言葉に近いだろう。それほど自分が嫌いなのかと愕然とした。そして冷めた。どれ程に美しくても、自分から見れば人形と同じである。


「だが、時折見せる笑みは、愛おしいのだ」


 化粧にも着物にも一切興味は示さない紅葉だが、刀や弓、そして馬には笑顔を見せる。まるで男のような嗜好である。特に馬に乗っているときは心底嬉しそうであった。


「田名部に行くことで、殿への憎悪を捨ててくれれば良いのだが……」


 広継の妻である紅葉は、父親を憎んでいた。最初は、自分に嫁がせたことについての恨みと思っていたが、どうやら違うようである。なぜなら、褥を別にして暮らす分には、紅葉はしっかりとしているからだ。鎧の手入れもするし、近習や家臣たちに注意もする。妻ではなく家宰としてならば、なんの文句もないのだ。夫を愛してはいないが、嫌悪もしていない。最近、それは確信している。

 ならばなぜ、父親をそこまで憎んでいるのか。そこまでは広継には解らない。妻が心を開かないからだ。だが妻は妻で、悩んでいるようでもあった。そこがいじらしく、だから捨てることができないでいた。


「神童と呼ばれる新田殿ならば、あるいは……」


 縋るような思いで、まだ見ぬ新たな主君を思った。





 夫から田名部に行くと教えられた南条紅葉は、半ば安心した。これで父親と会わずにすむ。そう思うとせいせいした。自分は男なのだと思ってきた。女だと言われても、どうしても納得できない自分がいた。だが身体はどんどん女性らしくなっていった。目鼻は整い、胸も膨らみ、尻は柔らかくなる。男たちが自分に好色の眼差しを向けるたび、怖気がした。だから父親である蠣崎季広に、自分は男だ。だから嫡男にしてくれと懇願した。嫡男となればそうした視線から逃れられると思ったからだ。

 だが父は理解せず、あろうことか自分を嫁に出した。相手は若い家臣の中でも、とりわけ顔立ちが良く、知勇を兼ね備えた若武者として評判だった南条越中守である。尊敬はできる。公明正大で忠義に篤く、知勇両略の侍である。男性としての感覚では、素直に敬意を持てた。

 しかし妻として、女性として愛せるかといえば無理だ。そもそも「女性として」という感覚が理解できない。なぜ自分は女なのか。男として生まれなかったのか。父と母を恨んで泣いた夜もある。


「新田吉松は神童と呼ばれている。相談できないだろうか」


 この時代では決して理解されない悩みに、南条紅葉は苦しんでいた。

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