第27話 内政と外交の五年間

 南部晴政とは違い、浪岡具永はわざわざ浪岡城の城門まで吉松を見送った。十三湊に向けて進む童の後ろ姿を見守る。


「やはり、所詮は子供ですな。天下を獲るなど、たわけたことを……」


 背後から倅に声を掛けられた。浪岡の先を思うと具永の気持ちは沈んだ。自分の代は大丈夫だろう。だが齢六〇を過ぎた自分は、もう先は短い。自分の死後、浪岡はどうなるだろうか。


「そうよな。だが新田は儂よりは可能性はあろう。最初から無理だと思っている儂では、天下は獲れぬ」


 浪岡の民を豊かにし、この地に都の雅を再現する。自分はそれに半生を費やした。この北限の地からは、都はあまりにも遠い。京を領し、帝を掲げて天下人になるなど、誇大妄想でしかない。だがその妄想にあと一歩と言うところまで迫った人間がいる。他ならぬ自分の祖先、北畠顕家公だ。

 そして今、奇しくも顕家公が起った田名部の地から、顕家公よりも遥かに早熟な神童が、より大きな野心を持って動き出そうとしている。六〇を過ぎた老骨の身にも、熱いものが込み上げてきた。


(口惜しい。儂があと二〇、いや一〇年でも若ければ、ともに天下を夢見たものを……)


「弾正少弼(具統のこと)よ。儂亡き後は、新田に臣従せよ。でなければ、浪岡はまたたく間に飲み込まれよう。戦にすらなるまい」


「父上?」


 怪訝な表情を浮かべる具統に向けて、具永は言葉を重ねた。


「よいな。これは儂の遺言と思うて聞け。新田はますます大きくなる。南部は抗うであろうが、長くはつまい。陸奥も津軽も、いずれ新田に飲み込まれる。儂亡きあとは新田に従い、浪岡を守るのだ」


「……承知いたしました」


 渋々という表情で頭を下げる。だがとても納得している様子ではない。頼りないと思った。ここで反駁するのなら、まだ見どころはあるのだが。まだ死ぬわけにはいかぬ。具永は自分にそう言い聞かせた。




 天文二〇年(西暦一五五一年)一〇月、田名部では収穫を迎えていた。大畑、川内でも農地開拓が進んでいる。米の収穫だけでも三万石に達し、稗、麦、大豆も豊作であった。そして念願の調味料がついに完成した。真鯖を炭火で焼いて、大根おろしと新米、そして完成した「濃口醤油」を用意する。


「クックックッ…… これよ。これこそ俺が望んだものよ」


 口に入れた瞬間、醤油の豊かな香りと旨味溢れる塩味、それが脂の乗った鯖の味を最大限に引き出す。ともするとしつこくなる脂を大根おろしが中和し、見事な「ご飯の御供」へと昇華させてくれる。


「ふぉっ…… これは美味い! この味噌の汁も良い味よのぉ!」


 昆布と煮干で出汁を採った豆味噌の味噌汁だ。具は茄子と長葱である。大根と瓜の漬物、山菜のお浸し、厚揚げのミョウガのせが食卓に並んでいる。


「どうだ、御爺? 我が新田家に臣従すれば、民百姓までこれほどの口福を味わうことができるのだ。新田が天下を獲れば民が幸せになるのだ。それだけで、俺が天下を狙う大義名分になろう?」


 稗と麦が混ざった雑穀米だが、吉松はそれを美味そうに頬張った。新田領では雑穀米が推奨されている。倹約のためではなく、健康のためである。吉松をもってしても克服できない問題として、医療の問題がある。この極寒の地では、病に罹れば命を落とす危険が高い。そのため予防がなによりも重要になる。


「御爺もあまり酒は飲むなよ? まだまだ長生きしてもらわねばならん」


「無論じゃ。まだまだ美味いものを食いたいからのぉ」


 巨万の富など必要ない。黄金と美女に囲まれた生活が幸福なのではない。やりがいのある仕事、美味い食事と温かな家庭。それだけで人は幸福に生きられる。このささやかな幸福が日本全土に広がったことは、歴史上一度としてない。天下を統一し、新たな統治体制を創るよりも遥かに難しいだろう。


「今後数年は、新田領の統治に当たりたい。剣や槍、弓なども学ぶ必要がある。御爺、しばらくは戦から離れるぞ。内政と外交の五年間だな」


 盛政は目を細めて頷いた。その五年、自分は果たして生きていられるか。長生きせねばと思った。




 冬になれば、日本海から津軽海峡にかけてはかなり荒れた海になる。船を出せないわけではないが、命がけになる。これは季節風の影響によるものだ。冬になると、大陸の高気圧により北寄りの風が日本海に吹き込む。その結果、日本海の波は高くなる。


「今年も、蝦夷地は閉ざされたのぉ」


 蠣崎季広は毛皮を羽織ったまま庭を見た。雪がちらつき始めている。先日、十三湊から今年最後の交易船がやってきた。新田との交易は、安東と比べると遥かに割りが良い。特に炭団を教えてくれたのは有難い。これで領民たちは皆、寒さに震えることなく冬を越せる。


「父上、寒くはありませんか?」


「彦太郎か。そうだの。そろそろ入るか」


 嫡男の蠣崎彦太郎は、今年で一二歳になる。非常に利発で、性格も良い。このまま育てば立派な跡取りになるだろう。彦太郎は最近、大館の湊に足を運ぶことが多い。田名部から届く新しい物品を見たり、新田の話を聞いたりしている。見分を広げることは悪いことではないと、季広も許していた。


「父上、田名部から醤油というものが届いたとか。味噌を水のようにしたものらしいですが……」


「うむ。新田殿からの書状には、焼いた魚に掛けて食べると美味いらしい。夕餉ゆうげに試してみようと思っている」


「……父上は、本気で新田に臣従するおつもりですか?」


「お前は不満か?」


「いいえ。ですが、それならばぜひ、田名部に行ってみたいと思います」


 彦太郎の言葉に、季広は頷いた。いずれ息子たちのうち一人は人質に出さなければならないだろう。生まれたばかりの三男は、新田吉松のようになって欲しいという願いから「天才丸」と名付けた。だがまだ赤子にすぎない。出すなら次男だと思っていたが、彦太郎が希望するなら出しても良いと思った。


「来年になるであろう。儂の名代として、田名部に挨拶に行ってみるか? 新田殿は気鋭の人物だ。お前にとっても良い刺激になるだろう」


 彦太郎はまだ一二歳、多感な時期である。この時期に他国を見ることで、一回り成長できるかもしれない。しかも相手は新田吉松だ。学ぶことは多いだろう。


「彦太郎よ。年の瀬は近年になく、笑顔あるものになるだろう。儂が創りたかったのは、ただ皆が笑って暮らせる土地なのだ。それがもうすぐ叶う。そしていずれ、その笑顔が他の土地にも広がっていくであろう。儂には見ることが出来ぬやもしれぬが、お前ならそれを見ることができる。新田に学び、新田が創る新たな世の力となれ」


 聡明な嫡男は、力強く頷いた。




「それで、鹿角の様子はどうか?」


「三戸をはじめ、一戸、九戸、七戸が出陣。鹿角四二館を次々と落とし、過半を占拠しました。一方、浅利の動きは鈍く、十狐とっこ城の動きはありませぬ」


「やはり琵琶法師(浅利則頼)が死んだのが大きいか。南部め、運が強いわ」


 新田吉松との会談後、南部晴政は電光石火の速さで鹿角郡に進出した。この地は浅利家との係争地であったが、七月末に当主であった浅利則頼が死去し、庶子であった長男と正室の子である次男とで跡目争いが起きていた。その間隙をついて、一気に鹿角を占領したのである。

 一方の檜山安東であるが、浅利の本拠地である十狐とっこ城に侵攻しようとした矢先に起きたのが、新田吉松による十三湊占拠である。吉松自身にはその気がなくとも、安東としては海から攻められぬよう、備える必要があった。そのため一歩遅れたのである。


「浅利九兵衛が大館で指揮しており、一進一退の状況でございます。どうやら浅利は、鹿角を捨てる覚悟を決めたようで……」


「南部と安東とでは、安東のほうに恨みが強いというわけか。九兵衛め、やりおるわ」


 浅利九兵衛定頼は、前当主であった則頼の弟である。安東、南部を相手に一歩も引かぬ戦いを続けた猛将で、浅利家中での発言力も強い。当主不在の状態で浅利が崩壊しないのは、定頼が束ねているからである。


「一歩遅かったか。新田が十三湊を狙わなければ、今頃は浅利を滅ぼしておったものを……」


 誰かが溜息交じりに呟いた。浅利家の混乱に乗じた南部、そして安東ともに、歴史とは違う動きを始めている。吉松の影響が、奥州の歴史を変え始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る