第26話 浪岡へ

「それで、如何であった? 南部晴政と対面して」


 陸奥湾を船が進む。野辺地からの帰りである、新田盛政は我慢しきれなかったのか、孫に向かって尋ねた。吉松は腕を組んだまま、煌めく水面を黙って見つめた。しばらく沈黙した後、まるで独り言を呟くように、盛政に答えた。


「南部領内のすべての内政を任せる。故に、南部の婿となれ。そう言われた」


「ホッ!」


 盛政は目を丸くして、感嘆の声を漏らした。南部領は二〇万石。だが吉松が内政を行えば数年で一〇〇万石を超える。米以外の農作物や商いによる利益などを合わせれば、二〇〇万石以上にもなるだろう。男子がいない晴政にとっては、嫡女の婿こそ跡取りである。つまり南部晴政は、新田に後を継げと言ったに等しい。


「御爺、言っておくが俺は断ったぞ」


 喜ぶ祖父にジロと横目を向ける。当然、盛政は慌てた。こんな美味い話など生涯に一度、あるかどうかである。諸手を挙げて受けるべきではないかと言う。吉松は首を振った。やはり御爺の本質は武人であり、こうした謀略には向かないと思った。


「御爺。美味い話には必ず裏がある。内政を任せる? 任せるわけが無かろう。もし俺が内政を担えば、領民は晴政ではなく俺を慕うようになる。南部家を束ね、権力を集中させている中で、そのような人間の存在を許すと思うか? なんやかやと口を挟み、南部晴政の名で各種施策を行うことになるだろう。そして俺は、いいように使い潰されるだけだ」


(さらに晴政には子が生まれる。相続問題などで神経を使うことになる。冗談じゃない。なんで当主社長の俺が、南部家内会社内の人間関係で悩まなきゃならないんだ。逆らう奴はクビにする。俺の意思がすべて。そして最後は、俺が責任を受け持つ。それが組織ってもんだろ)


「南部は恐らく、戦をはじめる。新田との五年の停戦。それを活かして、おそらく鹿角、そして出羽を獲ろうとするだろう。そうしない限り、新田に飲み込まれてしまうからな」


 我々はそれ以上に、この五年を有効に使わなくては。吉松はそう言って、再び水面に視線を戻した。




「殿、新田吉松は……」


 毛馬内秀範の問い掛けに、晴政は首を振った。秀範もそれ以上は言わず、一礼して三戸に戻る支度をするため退った。近習の者たちも緊張のまま黙っている。晴政が黙って畳を見つめているからだ。とても話しかけられる雰囲気ではなかった。


「新田の南を塞ぐ。鹿角、そして出羽を獲るしかあるまい。獲らねば、我らが飲み込まれる。この五年が勝負よ」


 神童、麒麟児などと呼ばれている吉松だが、晴政の評価はそれよりももっと深刻だった。「児」などと可愛いものではない。あれはもっと別種のものだ。自分よりも年上なのではないかと錯覚したほどである。妖魔の類ではないかとさえ思えた。


「檜山まで獲れば、南部は五〇万石を超える。新田とて諦めざるを得まい。そのうえで、あの化物は殺さねばならぬ。殺さねば南部のみならず奥州…… いや、日ノ本すべてが飲み込まれよう……」


 吉松に話したことの半分は本気だった。さすがに内政のすべてを任せるなどはしないが、嫡女との間に男子が生まれれば、それを南部家次期当主に据えても良いとは思っていた。だがそれは諦めざるを得ない。嫁としてなら娶るかもしれないが、南部の姓を掲げることなど、吉松は決して飲まないだろう。もっとも、嫁にやると言っても断るかもしれない。欲しければ自分で奪うと言うに違いない。なぜなら、自分だったらそう言うからだ。


「獣二匹、どちらかが死ぬまで喰らいあうしかあるまい」


 あらゆる知略、謀略、武略を尽くした凄まじい戦になる。そう思うと血が騒いだ。ギリッと歯ぎしりし、そして息を吐く。当主たるもの、泰然としなければならない。血のざわめきを鎮めるため、三戸に戻ったら側女を抱こうと思った。




 田名部館で数日を過ごし、そして十三湊へと向かう。葉月になれば野山も色づき始め、稲は一斉に輝き始める。十三湊から岩木川を昇りながら、その光景を思い浮かべた。


「殿、誠に浪岡城まで行かれるのですか? 危うくはありませぬか?」


「大丈夫だ。相手は鎌倉から続く名家、浪岡北畠氏だぞ? 五歳の童を取り囲んで討つような真似をすれば、北畠顕家公はなんと言われるだろう。名家だからこそ、対面を重んじる。浪岡御所(浪岡具永のこと)と会談して、それで終わりだ」


 現当主についてはそれほど評価していない。史実でも、最終的には父親である具永が残した遺産を食いつぶして、財政をひっ迫させたバカ息子だ。文化や芸能を重んじた父親の外面だけを真似た結果、浪岡を没落させた。親が偉大であるほど、それを継いだ子は苦労する。中世でも現代でも同じだ。


 浪岡城は吉松の想像以上の大きさだった。津軽為信によって浪岡城は完全に破壊され、現代ではその跡地がわずかに残っているだけである。大きな曲輪には職人街があり、鍛師のみならず陶芸や書画といった芸術作品が造られている。


「よくぞおいでくだされた。新田殿」


 板の間の上に畳をおいた席が用意されていた。先代当主である浪岡具永と現当主の浪岡具統が待っていたが、座り方がおかしい。本来なら現当主が吉松の正面に座るはずなのに、そこには具永が座り、当主は板の間に直接座り、まるで脇役である。吉松の視線に気づいたのか、具永は少し笑って説明した。


「今回は家と家ではなく、この時代を生きる一人として、儂自身が新田吉松という人物に興味を持ったため、座を用意したのだ。いわば、其方は儂の客よ。倅にも学びになると思ってな。同席させておる」


「父上ッ」


「やめよ。儂の客ぞ」


 具統は、小声ながらも咎めるような口調を発した。そして吉松を睨む。その姿勢を父親が窘める。


「私も、津軽を治める巨人、浪岡弾正大弼殿にはお会いしたいと思っていました。良い機会をくだされたこと、こちらこそ感謝いたします」


 具永に向かい合う形で座る。吉松をまじまじと見た具永は、歯を見せた。


「それにしても、本当に童じゃのぉ。齢は幾つになられるか?」


「五歳です。日々背が伸びるため、着物を用意するのが大変です」


「ハハハッ、身体と共に新田領も大きく育っておるな。今年の実りは如何か?」


「新たに拓いた集落が順調で、米だけで三万石を超えると思います。そのほかの農作物などを合わせれば、七万石程でしょうか」


 具永は目を丸くして、ほうと唸った。具統も苦々しい顔をしている。


「それは凄い。僅か数年前まで、田名部はせいぜい三〇〇〇石程度だったはず。まるであやかしでも使ったかのようじゃな」


「妖ではなく、確固とした技術です。日ノ本のどこでも、また誰でも、同じことができます」


「つまり浪岡でも同じ事ができると?」


自信をもって頷く吉松に、具永は目を細めた。浪岡具永の年齢は六四歳、もう老齢といってよい。目の前の童が、まるで孫のように見えた。


「盛政殿は御健勝かな? もうずっと昔になるが、一度戦場でまみえたことがある」


「矍鑠たるものです。我が領では最近、豆腐や味噌、醤油を造り始めました。御爺は豆腐に昆布を混ぜた塩を振って、それを肴に酒を飲むのが好きなようです」


「聞くからに旨そうじゃのぉ。儂も食べてみたいものよ」


「間もなく、味噌と醤油ができます。そうなれば豆腐ももっと美味くなるでしょう。弾正大弼殿にも御裾分けいたしましょう」


「楽しみなことよ。さて、先に小難しいことから終わらせよう。岩木川の件じゃが、浪岡で人を集めることは構わん。倅も納得しておる。その上で聞きたい。吉松殿は、津軽を望まれるのか?」


「はい。と言っても、津軽だけではありません。私が望むのは、もっと広く、もっと大きなものです。そう。北畠顕家公が指を掛けた、男子なら誰もが一度は見る夢。私はそれを見ています」


「……天下、か」


 具永は眩しそうに目を細めた。

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