第23話 十三湊

 本州津軽半島北西部に位置する「十三湖」は、鎌倉時代後期から戦国時代初期にかけて、津軽安東氏の統治下にあった。現在でこそ汽水湖となっているが、戦国時代当時は内海として日本海に開いており、天然の良港「十三湊」として北日本交易の中心地となっていた。

 北からは蝦夷地やさらにその北の樺太島からもアイヌ民族が訪れ、南からは出羽の深浦、越前の小浜、さらには九州博多からも物が入ってきた。西からは、朝鮮半島の付け根にある豆満江からも船が訪れたという記録もある。つまり十三湊を中心としたオホーツク・日本海経済圏が出来あがっていた。

 だがこの経済圏は、康正三年(一四五七年)に起きた「蠣崎蔵人の乱」によって幕を閉じる。北部王家および津軽安東氏は、八戸から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われ、蝦夷地へと逃げる。これにより十三湊は統治者を失い、形式的には津軽安東氏(湊安東氏)の所領であるが、実態としては無統治地帯となってしまった。その後は野辺地湊が蝦夷地との交易拠点となり、十三湊は交易拠点としての繁栄を急速に失うことになる。

 十三湊が再び復興するには、津軽地方から南部氏を追い出し、浪岡北畠氏を滅ぼした「津軽為信」の登場を待たなければならなかった。





 天文二〇年(西暦一五五一年)水無月(旧暦六月)、寂れた寒村となりつつあった十三湊に、巨大な船三隻が来襲した。小早船に乗り換えた兵たちが次々と強襲揚陸し、村はまたたく間に占領されてしまったのである。黒字に金糸で「三無」と書かれた旗印に、村人たちは首を傾げた。


「我らは田名部新田家の者たちだ。今日より、十三湊は新田家が領有する。逆らわぬ限り、村人には決して手を出さぬ。施餓鬼隊、村人たちに飯を与えろ」


 滅多に食べることができない白米の握り飯や芳ばしく焼かれた肉、漬物や汁物が振る舞われる。最初は訝しんでいた村人たちも、香りに釣られて飯に群がった。


「早船を出して殿に伝えよ。十三湊の占領は無事に成功、港湾整備と建築のため、黒備衆を送られたしとな」


 十三湊制圧軍を率いていた長門広益は、感慨深い思いで湊を一望した。一〇〇年前まで、この地には遥か明からも船が訪れていた。今は寂れてしまっているが、新田がその栄華を取り戻す。


「聞いていた通り、岩木川は急流だな。堤を造って整備しなければ、洪水に悩まされるぞ。さて、殿はどのように成し遂げられるか……」


 津軽地方の地形的特徴として、南部から北部に流れる岩木川がある。岩木川は木曽川などよりも遥かに勾配が強く、またすべての支流が最終的に十三湖に流れ込むため、雨三つぶ降ればイガルと言われるほど、この地は洪水が頻発していた。

 だが岩木川の治水に成功すれば、肥沃な土地へと生まれ変わる。史実でも、津軽藩は岩木川の治水に尽力し、江戸時代初期には僅か五万石だった石高を、一五〇年後には実収九〇万石にまで発展させた。


「今はともかく、開口部を広げることだな。領したは良いものの、すぐに洪水ではさすがに拙い」


 十三湊の湖底を浚って深くし、開口部を崩して広げなければならない。それだけでも一年がかりになるだろう。人手不足の田名部が、それをどう実現するのか。長門は不安と期待が入り混じった心境であった。




 あらかじめ聞かされていたとはいえ、新田が十三湊を押さえたという報せを受けて、南部晴政は改めて、その意味について考えてみた。確かに十三湊は、鎌倉の時から繁栄してきた湊街ではある。だが近年では野辺地や田名部がそれに取って代わっている。蝦夷地の大館に行くにあたり、十三湊は必ずしも必要というわけではない。特に新田は、田名部の湊を押さえている。今さらなぜ、十三湊を獲りにいったのか。


「新田は、蠣崎との繋がりを強めている。その関係からか? いや、そのためだけではあるまい。あるいは浪岡か? 浪岡を獲るつもりか?」


 石川城北東部に位置する浪岡北畠家は、鎌倉幕府から続く名家であり、津軽地方で大きな力を持っている。特に当主の浪岡具永ともながは政事の手腕に優れ、実収一〇万石の浪岡領を統治している。鍛冶師は織物師を保護し、浪岡御所と呼ばれる大きな城に曲輪を設けて物産に就かせている。そのため名将石川左衛門尉高信でさえも、浪岡を相手に一進一退の戦いを続けていた。


「北と南から浪岡を挟み撃ちにする…… いや、田名部新田の力はまだ浪岡には及ぶまい。儂であればむしろ、浪岡を懐柔するか?」


 蠣崎はいずれ新田に臣従するだろう。そしてもし、そこに浪岡まで加われば、新田の力は南部に匹敵するようになる。そうなる前に、手を打つ必要があった。


「桜の件、少し考えてみるか」


 自分の想像に少し酔った気がした。少しだけ酒を飲もうと思った。




 戦国時代の津軽地方は、大きく三つの勢力に分かれていた。一つは石川城を領する三戸南部家、二つ目は大浦家をはじめとする南部家に従属しつつも独立した国人衆である。この二つは広義の南部一族という点では同一勢力とも考えられるが、南部家の史実を考えた場合、別勢力と分けたほうが良いだろう。そして三つめが、現在の青森市の南西部に拠点を置き、津軽地方の半分に勢力を伸ばした浪岡北畠氏である。


 浪岡北畠氏については謎が多い。北畠顕家の系譜とされているが、それは自己申告によるものであり、本当かどうかは不明である。北畠という名から思い出すのが、伊勢南部を領した北畠一門であるが、浪岡北畠氏は伊勢北畠氏とは密接なつながりがあり、両家とも「具」の文字を名前に入れていた。

 北畠顕家はもともと「公家」である。そのため浪岡北畠氏は、朝廷とも繋がりがあった。他の守護や国人は足利幕府を通じて朝廷に官位を求めるのだが、浪岡北畠氏は幕府を通すことなく、朝廷と直接交渉することができた。これは日本最北端の糠部、津軽地方においては途方もないことであり、浪岡北畠氏は間違いなく、奥州でも随一の名門であった。


 浪岡氏は鎌倉幕府以降、津軽地方に強い影響力を持ち続けた。通常であれば、南部家のような強い新興勢力が台頭すれば衰退するのが名門家というものだが、浪岡氏は違った。南部と台頭と共に、一人の傑物が登場したのである。それが第七代浪岡北畠氏当主浪岡弾正大弼だんじょうだいひつ具永ともながである。


「父上。十三湊の件、お聞き及びでしょうか」


 天文二〇年、浪岡北畠家は第八代当主「浪岡具統ともむね」が当主となっていた。だが先代である具永は未だ健在で、農地開拓、産業振興、交易促進によって浪岡北畠家の勢力を拡大させた。浪岡はいま最盛期を迎えている。一〇万石に迫る石高の他に、漆器や陶器が作られている。鍛冶師は名刀を打ち、それを交易品として日ノ本どころか遥か高麗、明にまで輸出している。民を豊かにし、文武を華やかにした具永は、いつしか「浪岡御所(※将軍の呼び方)」とまで呼ばれるようになった。


「うむ。新田吉松という童、些か面白いな。まさか十三湊に目を付けるとは」


 浪岡城の一画にある茶室で、具永は息子に茶を点てていた。使われている茶碗は天目茶碗、花入れは青磁、作法は能阿弥流である。鎌倉から続く浪岡家では、明とも交易を行っている。そのためこうした渡来物が相当数ある。これだけでも浪岡北畠家の力がわかるというものだ。


「聞くところによると、田名部新田家は宗家である八戸家とは断絶し、三戸とも一触即発の状況だったそうです。今でこそ和睦をしていますが、両家の間には深い溝があると思います。ここは十三湊を利用して、石川(※石川城)に圧を掛けるべきでは?」


 息子の言葉に対して、具永はなにも言わなかった。だが内心では、その見立てを否定していた。


(新田吉松。神童との噂を聞くが、次の動きで虚実が判断できよう。具統の言う通りなら恐れるに足らん。いずれ南部によって滅ぼされよう。儂であれば浪岡に働きかける。十三湊を押さえたゆえ、交易を始めないかとな。そしてそれを契機として浪岡を懐柔し、取り込もうとする)


 浪岡家の最盛期を築いた初老の男は、まだ見ぬ吉松の姿を想像し、少し目を細めた。

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